孔子と三国志!儒教思想、周時代意味、弟子子孫人生、名言民族も解説

世界と時代を超えた聖人には、イエスキリストと釈迦とソクラテスだけでなく、論語の孔子もいるでしょう。

孔門十哲の子貢は、孔子の弟子の中でも、卓越した弁舌力を持っていました。孔子という偉大な聖人を、子貢は何になぞらえて力説したのでしょうか。

そして、強国斉の景公と宰相の晏嬰の策を、孔子は看破し魯の義を轟かせたのです。孔子がいた魯は、天下を獲得出来るほどの国家だったのでしょうか。

また孔子が創設した儒教は、非常に権威を有していたため、法家思想の始皇帝と李斯が焚書坑儒したのです。

儒教を皆が信じていると、法家思想が実行され難いので、権力者は抑制したくなるのでしょう。

ちなみに、孔丘仲尼の尊称が孔子です。

孔子を詳しく解説していきます!

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儒教の孔子の弟子である孔門十哲の子貢は孔子をかなり優れた人物と名言を交え語っていたのです

孔子の弟子の中でも際立っている、孔門十哲の子貢は、聖人で儒教の開祖孔子の素晴らしさを、巧みな名言で表現しました。

ある時斉の景公から、孔子が賢者かを問われた際に、子貢は孔子は賢人ですが具体的には答えられない、と述べたのです。

すると景公は、どう賢者か語れないのは、問題ではないかと言いました。

しかし子貢は、天の高さを皆が明確には論じられなくとも、天の高さを把握しているのと同様だ、と論説したのです。

孔子の弟子の中でも特に有能だった、孔門十哲の子貢(しこう)は斉の景公に、天の高さが自然に分かるように、孔子が賢者なことも自ずと伝わってくるという名言で、主張しました。

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勇猛過ぎて最後は塩漬けにされた子路も孔子の弟子の孔門十哲に含まれているのです


孔子の弟子の孔門十哲には、子路もおり、勇気のある人物だったのですが、最期は性格が仇になりました。

衛で登用された子路は、荘公を強く諫言し憎まれ、最期を与えられるだけでなく、塩漬けにもされてしまったのです。

孔子であれば、子路の発言を弟子として扱ってくれたかもしれませんが、荘公は主君だったので、違う意味に取られたのでしょう。

また、子路が気迫にあふれ過ぎていることを、孔子は普段からたしなめており、他の弟子にはすぐに実践させたことも、子路には深慮を求めました。

孔子の弟子の子路(しろ)は、孔門十哲にも名を連ねた人材でしたが、衛の荘公への諫言に失敗し、塩漬けな最後が来たのです。

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夾谷の会で儒教の孔子は斉の景公と晏嬰の不義を天下に示し魯の領土を取り戻したのです

孔子は、大国の景公と会談した際に、野蛮な音楽と芸者の演奏を処罰しました。

斉が大国であることを恐れず、孔子が糾弾したため、景公は占領していた魯の領地も返したのです。

そして、孔子が善政を布いたことで、斉は畏怖し、本物か試すために選りすぐりの美女を魯に送りました。

当然孔子は乱されませんでしたが、主君たちが政を疎かにし出したので、魯から孔子は退去したのです。

孔子は後世では皆から崇められる存在ですが、存命中は、権力者に対抗出来ないこともあったのでしょう。

儒教の孔子は、斉の景公と晏嬰(あんえい)に義を見せたことで、魯の領地返還を実現させましたが、斉の美人に惑わされる者が多かったので、孔子は魯から去りました。

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質素倹約で篤学だった顔回も孔子の弟子の孔門十哲であり三国志の諸葛亮クラスと評価されていたのです


孔子の弟子の顔回も孔門十哲と言われており、三国志の諸葛亮に比肩するとも、伝わっています。

顔回は、無駄を削ぎ落した生涯だったので、荘子の無為自然思想を体現しているとも、述べられるでしょう。

そして子貢は、経済力と弁舌力を有していましたが、困窮な顔回より劣り、顔回は一を聞いて十を把握する人物と称されていました。

顔回が長生きしていたら、孔子を超える大思想を、後世に残していたかもしれません。

ちなみに、三国志の官渡の戦いで、関羽に一騎打ちで討たれた顔良は、顔回の同族とも言われているのです。

孔子の弟子の孔門十哲には顔回子淵(がんかいしえん)もおり、荘子の思想にも近く、子貢から一を聞いただけで十が見通せる、と高評価でした。

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春秋戦国時代の魯の民族孔子の儒教は焚書坑儒で始皇帝嬴政や法家思想の李斯から迫害されたのです

孔子が創設した儒教は、後の時代にあまりにも影響を与えていたため、法家思想の始皇帝や李斯から弾圧されました。

また始皇帝嬴政の息子の扶蘇は、孔子の儒教を守る目的で、諫めたので、万里の長城で匈奴に備えていた蒙恬の元に追われたのです。

扶蘇は、孔子の儒教の重要性を知る賢者でしたが、二世皇帝胡亥と趙高と李斯の策謀で、最後が訪れました。

法治と軍事力で強大化した秦国に生きる上で、扶蘇の考え方は、甘い理想に過ぎなかったのでしょうか。

孔子が開祖の儒教は、始皇帝の時代でも崇拝されていたので、法家思想を徹底したい李斯(りし)から焚書坑儒され、抵抗した扶蘇(ふそ)は蒙恬(もうてん)の元に送られてしまったのです。

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周民族の時代を理想とした孔子は握髪吐哺で賢人を重用した周公旦を敬仰していました

孔子は、太公望呂尚と共に周を建てた周公旦を尊崇し、儒教を創り出したのです。

周公旦がどれくらい賢者を大事にしたかは、握髪吐哺という、髪を握ったままや食べ物をすぐに吐いてでも会う、四字熟語に表れています。

そして、三国志の乱世の奸雄曹操も、周時代の文王を敬愛していたので、後漢皇帝献帝劉協の地位を奪わず、生涯家臣で過ごしました。

ちなみに、曹操の息子の曹丕は、献帝劉協に禅譲させ文皇帝に即位し、曹操を武皇帝と諡したのです。

孔子は、三国志の超世の傑曹操孟徳(そうそうもうとく)も参考にしていた、周時代の周公旦(しゅうこうたん)の栄華を日々夢見ながら、儒教思想の開祖となりました。

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三国志の孔融は儒教の孔子の子孫であり禰衡と共に超世の傑曹操を非難し続けました


孔子の末裔には、三国志の孔融がおり、建安の七子と評価されていただけでなく、曹操への批判でも知られているのです。

そして孔融は、曹操が赤壁の戦いに出撃しようとしている際にも、孫権側に曹操の問題点を広言したことで、とうとう最後を送られました。

また、曹操を孔融同様に責めていた禰衡は、孔融と共に楊修を奇才、と述べていたのです。

楊修は曹操非難はあまりしていませんが、曹操の真意を吹聴し過ぎて、警戒され最後を送られました。

儒教の孔子の子孫には、三国志の時代の孔融文挙(こうゆうぶんきょ)がおり、赤壁の戦いの前夜すら曹操を酷評したため、禰衡正平(でいこうせいへい)のように残念な最期で終わったのです。

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まとめ:孔子(こうし)こと孔丘仲尼(こうきゅうちゅうじ)と三国志の子孫と弟子思想名言と周民族の時代が儒教の意味

孔子が、弟子と共に儒教を開いた意味を、解説してきました。儒教を春秋戦国時代に創設したからこそ、中華は思想的にも興隆したのではないでしょうか。

そして孔門十哲の子路は、孔子の弟子の中でも猛将だったため、衛の荘公から災いが来たことも説明してきました。もっと孔子の弟子として修養していれば、災難を回避出来たかもしれません。

また孔門十哲の顔回は、荘子の思想とも近しい、孔子の弟子だったことも述べてきました。顔回が若死にしたのは、荘子と孔子の思想を、どちらも得ようとしたからではないでしょうか。

孔子は、有能な弟子に恵まれていたからこそ、憧れていた周の時代の思想から、儒教を創始出来たのでしょう。

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