周瑜と諸葛亮関係比較!孔明手紙、遺書死因、赤壁成語、司馬懿も解説

三国志の軍師のライバルとしては、諸葛亮と司馬懿が有名ですが、周瑜と諸葛亮も好敵手でしょう。

実は周瑜の死因を作り出したのは、諸葛亮だと言われています。神軍師な諸葛亮は、すでに人の死を操れるのでしょうか。

そして周瑜は最後が訪れる前に、孫権のために遺書を残していました。果たしてイケメン軍師周瑜は、どのような遺書を書いたのでしょうか。

また周瑜は、諸葛亮の才能を警戒し、ダメージを与えようとしたのです。さすがの諸葛亮もイケメン周瑜の攻撃をよけられなかったのでしょうか。

他にも、曹操から油断ならないと思われていた司馬懿と周瑜諸葛亮の比較も行っていきます。周瑜と諸葛亮と司馬懿の違いを知ると、より一層軍師の深みに近付けるでしょう。

三國志の周瑜と諸葛亮を詳しく解説していきます!

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諸葛亮は手紙で周瑜のプライドを刺激して死因を与えました

三国志の周瑜は、有能な軍師ですが、諸葛亮には勝てず、手紙で罵られた上で亡くなったのです。

周瑜は荊州での戦で、身体にダメージを受けていました。

諸葛亮の侮辱した手紙で、激怒し体のダメージが爆発したのです。

そして諸葛亮は、後に魏の重鎮王朗と戦の前に舌戦を行い、またもや王朗を最期に追い込んだと言われています。

諸葛亮クラスになると、弓矢を使わずに、敵将を打ち取れるのでしょう。

諸葛亮と話す機会がある敵は、注意しておかないと、急にあの世に送られてしまうかもしれません。

また、司馬懿は五丈原の戦いで、諸葛亮に挑発されましたが、さすがの司馬懿は諸葛亮の意図を見抜きました。

周瑜は諸葛亮と知力で競いましたが、最後は心理的に追い込まれて死が来たのです。

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周瑜は遺書を書き主君孫権に曹操と諸葛亮を警戒し魯粛を重用するように望みました


三国志の周瑜は、最後の前に遺書の中で、呉の孫権の道標を示したのです。

周瑜たちは赤壁の戦いで、乱世の奸雄曹操に勝利しましたが、曹操は未だに強大な勢力でした。

再び南下して来る可能性もあるので、主君孫権に防備を怠らないように、と周瑜は献策したのです。

そして、諸葛亮と劉備の動向にも気を付けてください、と周瑜は遺書で述べています。

確かに赤壁の戦いでは、周瑜と諸葛亮たちは共闘しましたが、目指すところが異なるためです。

また周瑜は、魯粛の能力の高さも評価していました。魯粛はいい人な軍師として知られており、主君孫権が皇帝に即位することを望んでいたのです。

周瑜は遺書の中で、曹操と諸葛亮劉備の危険性を明示し、魯粛の重要性も強調しました。

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何とかして諸葛亮を追い落とそうとした周瑜は数万本の弓矢をすぐに用意することを命じたのです

三国志の周瑜は、赤壁の戦いの際に、戦局を有利に進めるためにも、諸葛亮に大量の弓矢を集めて欲しいと述べました。

普通に考えると、これから弓矢をかなり頑張って作成、となりますが、諸葛亮は策を使ったのです。

船をいくつか準備し、藁の建物を作り、曹操軍の船に向かいました。

すると、大量の弓矢が射られたので、藁の建物でしっかり弓矢をゲットしたのです。

一連の話は、諸葛亮のいわゆる草船借箭(そうせんしゃくせん)の計略、と言われることもあります。

そして、諸葛亮が結局難題をこなしたことで、周瑜はより一層諸葛亮を危惧するようになりました・・・

諸葛亮からすると、周瑜から警戒されることも計算の内かもしれませんが。

諸葛亮は、周瑜から無理難題を出されましたが、見事に弓矢を集めたのです。

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故事成語苦肉の策の語源となった周瑜と黄蓋


三国志の周瑜は、曹操との赤壁の戦いに必勝するために、黄蓋に苦肉の策を行わせました。

周瑜たちの水軍は非常に強力なのですが、曹操も大軍を保有していたのです。

曹操の大軍に大ダメージを与えるには、内通者が必要だと周瑜は考えました。

そして古参の黄蓋に、周瑜を侮らせ、黄蓋に苛烈な刑罰を与えたのです。

黄蓋は、周瑜の対応に不満があると曹操への手紙で述べました。

曹操は信じてしまい黄蓋を受け入れようとしたのですが、黄蓋は直前で火船だけを曹操軍に向かわせたのです。

周瑜と諸葛亮が赤壁の戦いに勝利することで、曹操の中華統一の野望も潰えました。

周瑜は赤壁の戦いで、火攻めを有効活用するために、苦肉の策を黄蓋公覆(こうがいこうふく)に協力させたのです。

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周瑜と諸葛亮を比較すると自主性が高いかどうかが違うと言えます

三国志の周瑜は、ふさわしい主君を選び小覇王孫策に味方し、諸葛亮は劉備からの三顧の礼で仕えたのです。

  • 周瑜は諸葛亮よりもイケメンで妻小喬も美人で評判でした
  • 周瑜も諸葛亮も主君に生涯忠誠を尽くしましたが司馬懿は野心を秘めていました

周瑜は、自らが優れた知力を持っている自負があったため、四世三公の名門袁術の登用を拒否したのでしょう。

周瑜は、小さい覇王孫策に付いた後に、弟の孫権に仕え偉大な君主に育てていきました。

そして諸葛亮孔明は、隠者のような生活をしていたところ、臥龍の噂を聞いた劉備が三度も訪れ、採用したのです。

周瑜と比較すると諸葛亮はのんびりしているので、逆に周瑜よりも余裕を感じさせるとも言えます。

ちなみに司馬懿は、曹操に仕えないと殺される可能性もあったのです。

周瑜は、自分で有能な主君を求め、諸葛亮は能力の高い主君を誘い出しました。

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周瑜は諸葛亮よりもイケメンで妻小喬も美人で評判でした

三国志の周瑜は、美周郎と評価され、妻の小喬も美女で有名だったのです。

諸葛亮は、イケメンと言われることは少ないですし、妻の黄月英は美人でないと伝わっています。

ただ、諸葛亮の妻黄月英は、諸葛亮に匹敵する知力があったとされているのです。

諸葛亮からすると、美女かどうかよりも、自分のレベルにふさわしい賢人かどうかが、重要だったのかもしれません。

周瑜の主君孫権の兄の小覇王孫策は、美女大喬が妻でした。大喬は小喬の姉であり、二人とも美人なので、江東のニ喬と高評価だったのです。

諸葛亮はイケメンでなく、妻黄夫人も美女ではありませんが、周瑜は美男子で妻小喬も美人と言われています。

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周瑜も諸葛亮も主君に生涯忠誠を尽くしましたが司馬懿は野心を秘めていました


三国志の周瑜と孫権は、信頼関係で結ばれ、諸葛亮も劉備から後事をすべて託されるほどでしたが、司馬懿は自分がトップになる機会を狙っていたのです。

司馬懿は、曹操から狼顧の相であるとして、計算高い悪知恵の深さを警戒されていました。

なので司馬懿は、曹操の息子で後継者の曹丕を味方とすることで、曹操からの攻撃をかわしたのです。

司馬懿は、周瑜や諸葛亮とは異なる知力の使い方を強いられていました。

そして曹操の魏国は、実力主義なので、司馬懿のような策謀に長けている人物でなければ、粛清されるリスクもあるのです。

周瑜は、孫策と孫権にしっかり仕え、諸葛亮も劉備と水魚の交わりでしたが、司馬懿は主君から常に疑われていました。

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まとめ:三国志の周瑜(しゅうゆ)と諸葛亮(しょかつりょう)の関係と比較とエピソード

三國志の周瑜と諸葛亮が、どのような知力戦を行ったかを解説してきました。一騎打ちよりも頭脳戦の方が好きな人も、多いのではないでしょうか。

諸葛亮が手紙で、周瑜に死因をもたらしたことも説明してきました。他人の生死をコントロールしてこそ、名軍師なのでしょう。

そして周瑜が、歴戦の勇将黄蓋を活用し、曹操に勝利したことも記載しました。諸葛亮がおらず周瑜だけだったら、司馬懿と戦ったのは周瑜だったかもしれません。

また、周瑜と諸葛亮の主君関係の比較も行いました。あなたはどちらの主君関係を見習いたいと思いましたか?

周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)と諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は、三国志でもかなり人気なので、関係性把握は必須かもしれません。

⇒陸遜の妻!死因憤死、孫策の娘、石亭の戦い、イケメン呉郡四姓も解説

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