陸遜の妻!死因憤死、孫策の娘、石亭の戦い、イケメン呉郡四姓も解説

三国志の呉で司馬懿と対等に戦える軍師は、陸遜と述べられますが、妻はどのような人物だったのでしょうか。

陸遜の妻は、あの小覇王孫策と深い関係があるのです。陸遜が大都督として活躍した背景には、孫策の力が存在したのでしょうか。

陸遜は、大都督で英雄にも関わらず、死因が憤死なのです。呉の主君孫権との間に何があったのでしょうか。

そして陸遜は石亭の戦いで、驚くべき計略を披露しています。これはあの戦国大名謀聖尼子経久と似ている計略と言えるでしょう。

また陸遜は、南越王を説得した参謀の末裔と言われているのです。陸遜が賢者なのは、血筋なのでしょうか。

他にも陸遜は、あの諸葛亮孔明ともバトルしています。さすがの諸葛亮も、陸遜には負けたのでしょうか。

三國志の陸遜と妻を詳しく解説していきます!

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陸遜の妻は孫策の娘なので美女大喬の子供?

三国志の陸遜の妻は、小覇王孫策の子供と言われています。

  • 呉の大都督陸遜はイケメンで有名
  • 呉郡四姓の子孫陸遜は南越王趙佗を説き伏せた陸賈の末裔

孫策の妻として有名なのは、江東の二喬のひとり大喬ですが、大喬が孫策の妻となってすぐに、孫策は亡くなっているのです。

そもそも孫策は、江東をかなりのスピードで制圧しました。ですので、恨みを買うことも多く、孫策は若死にしたのです。

また大喬が、孫策が最後となる前に妊娠していた可能性はあるため、陸遜の妻が大喬の子供は、考えられる話ではあります。

そして孫策の妻大喬は、曹操が求めたほどの美人です。大喬には小喬という妹もおり、姉大喬と同じくらいの美女でした。

孫策(そんさく)の娘が、陸遜の妻と伝わっており、大喬(だいきょう)の子供かもしれないのです。

⇒大喬小喬三国志美人!美女かわいい評価、死因読み方、孫策周瑜も解説

呉の大都督陸遜はイケメンで有名

三国志の陸遜は、かなりの美男子でイケメンと言うべき軍師だったのです。

呉にはイケメンで評判な周瑜もいたので、呉にはイケメン参謀が盛りだくさんなのでしょう。

そして、陸遜の妻の親である孫策も、優れた容姿と言われています。

陸遜と周瑜と孫策が一緒に居れば、敵の女性たちは戦わずに降伏するのではないでしょうか。

また、魏の陣営でイケメンと言えば荀彧なのです。

批判しまくりで有名な禰衡からも、荀彧の容貌だけは評価されました。

他にも蜀漢では、馬超が美しさから錦馬超と述べられていたのです。

外見の良さも備わってこそ、偉人なのでしょうか。

陸遜は、小覇王孫策と周瑜と共に、イケメンで知られていたのです。

⇒三国志そんさく!小覇王孫策、性格、玉璽、兄弟孫権周瑜、曹操も解説

呉郡四姓の子孫陸遜は南越王趙佗を説き伏せた陸賈の末裔

三国志の陸遜は、名門である呉郡四姓の出身であり、前漢の劉邦の軍師陸賈の子孫とも言われています。

陸遜は、名族の末裔だからこそ、呉の主君孫権からも丁重に扱われていたのでしょう。

そして陸遜の先祖の陸賈は、南越王趙佗(別名尉佗)を劉邦の軍門に降るように説得したのです。

南越王趙佗は、どれくらい漢の劉邦が強大か知りませんでしたが、陸賈と話しをする内に危機感を持ち、漢に降伏しました。

また陸賈は、新語という、国家の存亡が見える名著の作者と伝わっています。

ちなみに、南越王趙佗は、陸賈の説得の後に、一度反逆し勢力を拡大してはいるのです。

しかし、再度陸遜の先祖の陸賈から説かれて、収まりました。

陸遜は、弁舌巧みな陸賈(りくか)の末裔なだけでなく、呉郡四姓の出自でもあるのです。

⇒漢王朝劉邦とは?妻、どんな人柄?項羽比較、家臣軍師、始皇帝も解説

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孫権の後継者問題を批判したところ逆に陸遜の責任にされたので憤死が死因となりました

三国志の陸遜は、孫権が後継者に悩んでいたため、指摘したところ、聞き入れられないだけでなく、逆に非難されたので、失意の内に亡くなったのです。

孫権はかつて陸遜を大都督に任じる事で、国難を乗り切っただけに、かつての孫権の姿が失われていたと言えるでしょう。

そもそも孫権は、孫和と孫覇をどちらも同じように待遇してしまったのです。

すると、どちらが孫権の後継者か分からないため、後々不利にならないようにどちら共に加担する者が増えました。

孫権は、白黒ハッキリつけるよりも人の良さを活かそうとするので、息子のどちらも成長させようとしたのでしょう。

陸遜は、孫権と呉の未来を案じて諫言しましたが、逆鱗に触れ返り討ちに遭い、憤死で終わりました。

⇒呉の初代皇帝孫権!エピソード、妻、孫策孫堅、性格、晩年死因も解説

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調虎離山の計略で石亭の戦いの勝利を得た大都督陸遜

三国志の陸遜は、夷陵の戦いで蜀漢に勝った後、今度は魏に勝とうとしたのです。

魏の曹一族のひとり曹休は、呉に攻勢を仕掛け、優勢でした。

なので、呉の主君孫権は、周魴に偽って曹休に味方させたのです。

周魴が主君孫権たちをかなり批判し、本当に曹休に付くかのような演技を繰り返したため、曹休は、心底信用しました。

曹休は、周魴の道案内で呉領内に潜入したところ、大都督陸遜が陣取っており、やっと真相に気付いたのですが、もう手遅れだったのです。

兵法三十六計に、敵の有利な拠点からおびき出す調虎離山がありますが、石亭の戦いはまさにこの手法でしょう。

呉の大都督陸遜は、周魴(しゅうほう)に曹休を欺かせ続けることで、石亭の戦いでの勝ちを獲得しました。

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陸遜の石亭の戦いに似ている雲州の狼尼子経久と毛利元就の月山富田城の戦い

三国志の陸遜と曹休の石亭の戦いと、日本の戦国時代の月山富田城の戦いに、類似が多いのです。

大都督陸遜たちは、周魴に曹休を欺かせましたが、尼子経久は吉川興経に、毛利元就たちを偽らせました。

そもそも尼子経久は、謀聖と呼ばれるほどの人物であり、陸遜よりも謀は長けていると言えるかもしれません。

そして毛利元就たちは、吉川興経を信じ切ってしまい、尼子氏の本拠月山富田城に肉薄したにも関わらず、吉川興経に裏切られ大敗したのです。

ちなみに、雲州の狼尼子経久は、月山富田城の戦いの前に最後が来ていました。

尼子軍はわざと経久の死を毛利側に流すことで、戦を促して誘い出したのです。

尼子経久の謀略は、呉の大都督陸遜の策略に似ており、敵の意表を突きました。

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諸葛亮の石兵八陣で行軍を阻まれた呉の大都督陸遜

三国志の陸遜は、夷陵の戦いでの勝利で蜀漢に攻め入りましたが、諸葛亮の防御陣に妨害されました。

諸葛亮孔明は神のような軍師であり、かつては赤壁の戦いで、火攻めを効果的に行うための神風を吹かせたとも、言われているのです。

今回も主君劉備と蜀漢国を助けるために、諸葛亮は石兵八陣を作成しました。

この時に諸葛亮の石兵八陣が無ければ、蜀漢が呉に併合される可能性もあったでしょう。

そもそも劉備が、夷陵の戦いで呉を征服するつもりが、逆に征服されそうになる・・・

戦とはつくづく分からないものと言えるでしょう。

陸遜は、呉の勢力を拡大するチャンスを、諸葛亮孔明の奇策石兵八陣で防衛されたのです。

⇒龐統と諸葛亮ライバル!スパイ道号、落鳳坡死因、劉備行軍交換も解説

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まとめ:三国志のイケメン大都督陸遜伯言(りくそんはくげん)と妻

三國志の陸遜が、外見が良いだけでなく、大軍を率いる能力を持っていたことも解説してきました。あまりにも得過ぎていたために、最後が憤死なのでしょうか。

そして陸遜の妻が、孫策の娘なことも説明してきました。上手くいく人は、良いところから嫁をゲットしているのでしょうか。

また陸遜が、前漢の初代皇帝劉邦の軍師陸賈の子孫であることも、記載しました。偉大な軍師は、先祖も凄いのでしょうか。

他にも、大都督陸遜の石亭の戦いと日本の戦国の尼子経久の作戦に、共通点が多いことも述べました。

優れた謀士は、思い付く策略が似ているのでしょうか。

陸遜は、イケメンで呉郡四姓の子孫で、大都督という凄過ぎる人物なので、知っておくべきでしょう。

⇒三国志錦馬超!曹操、潼関の戦い、最後、妻、劉備、馬騰、馬岱も解説

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