三国志の厳白虎も、注目すべき武将です。
厳白虎は、東呉の徳王という重々しい称号を名乗っていましたが、そのへんの頭目と考えられていました。
自分で勝手に称号を語るところが、ズレているのかもしれません。
そして厳白虎は、江東の戦いで小覇王孫策とバトルしました。厳白虎は東呉の徳王なので、善戦したのでしょうか。
また、孫策のあだ名の小覇王は、蔑称であると言えるのです。どのような根拠で蔑称なのでしょうか。
ちなみに、覇王と呼ばれる武将は、基本的には項羽を指しています。
他にも、武力ある孫策に対抗した于吉仙人も、記載していきます。小覇王な孫策も、仙人には勝てなかったのでしょう。
三國志の厳白虎を詳しく解説していきます!
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東呉の徳王厳白虎は山賊か盗賊の頭目?
三国志の厳白虎は、小悪党の頭に過ぎない、と見なされていました。
孫策が江東あたりに攻めて来た際も、孫策は他の敵武将を討伐することを優先し、厳白虎を後回しにしたのです。
他の有力武将が孫策に敗れていったため、残党で集まり抵抗しましたが、簡単に負けました。
その後も厳白虎はしぶとく抵抗していたのですが、結局最後はどうなったかは不明なのです。
そして、厳白虎は東呉の徳王と号していました。呉の東のあたりの有徳な王様という非常に美名なのです。
厳白虎が江東の戦いで孫策たちに、どんどん負け続けたため、名前負けしていると言えるでしょう。
厳白虎は、実力者孫策と戦ったことがありますが、せいぜい野盗の頭目と思われていました。
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厳白虎の残党を利用した陳登(ちんとう)
三国志の陳登は、江東の孫策に対抗するために、厳白虎の残党に働きかけました。
東呉の徳王の残党はすぐに壊滅し、陳登の元に孫策軍が迫ったのですが、持ちこたえていると、孫策が討たれたのです。
孫策は江東の戦いで、実力者をどんどん倒して俊足で、制圧したため、残党の恨みも大きかったのでしょう。
そして、江東あたりは、孫策の弟の孫権の統治するところとなりましたが、曹操が陳登をもっと援助していれば、陳登配下の可能性もあったのです。
陳登は40歳くらいで最後が来たため、もっと長生きしていたら、江東が孫氏のものではなかったかもしれません。
陳登元龍(ちんとうげんりゅう)は、江東を獲得しようとして厳白虎軍を活用しましたが、失敗しました。
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厳白虎の弟厳輿の最期
三国志の厳輿は、孫策を恐れる厳白虎のために和睦に訪れましたが、戯れで殺されました。
- 人気に嫉妬した孫策に最後を与えられた于吉
- 孫策(そんさく)は小覇王と呼ばれていましたが蔑称と言えます
そもそも厳輿は、厳白虎の陣営で武力が高い人材だったのです。
その武勇に優れた厳輿が、孫策にいつの間にか敗れたことで、厳白虎軍は瓦解しました。
そして、孫策と厳輿が会った際に、急に孫策が剣を抜き驚かせ、なぜかその後に小刀を厳輿を投げつけたのです。
もしかしたら、孫策は厳輿を試し、あまりにも小心だったため、そのまま最後を与えてもセーフと思ったのではないでしょうか。
ここでは孫策が勝利しましたが、どんどん実力者を倒していったので、実力者の家臣達から恨まれてもいたのです。
厳白虎の弟の厳輿は、孫策と和解しようとしたのですが、孫策との力試しに敗れました。
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人気に嫉妬した孫策に最後を与えられた于吉
三国志の于吉は、江東あたりで道教を極め、人民救済を行っていましたが、あまりにも信仰され過ぎたため、孫策から煙たがられ処刑されました。
于吉は仙人のような存在で不思議なパワーを持っており、孫策に無理な要求をされてもことごとく解決したのです。
ですが、逆に孫策から警戒され于吉は最後を迎えました。
道教に無為という考え方がありますが、于吉は有の凄さを見せ過ぎたため、自らが無となってしまったのでしょうか。
ちなみに、于吉は死後に孫策を呪い、孫策が厳白虎の家臣から付けられた傷を増幅させ、葬ったと伝わっています。
于吉(うきつ)は、道教の力を獲得していましたが、孫策から畏怖され打ち取られてしまいました。
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孫策(そんさく)は小覇王と呼ばれていましたが蔑称と言えます
三国志の孫策は、昔の偉人項羽に似ていたため、小覇王と評価されていましたが、蔑称と述べられるでしょう。
小覇王は、スモールな覇王という意味なので、覇王の項羽の蔑称と言えるためです。
かつて項羽は楚を掌握していたため、西楚の覇王と称されていました。
孫策も江東という楚の領域あたりを獲得していたので、似ている部分も多いでしょう。
それに、項羽は一時的に中華全土を勢力下に収めましたが、孫策は江東あたりで最後を迎えました。
項羽のスケールが小さくなったバージョンが、孫策で差し支えないでしょう。
孫策も上手く対処していれば、覇王の道もあったのでしょうか。
孫策伯符(そんさくはくふ)は、小さい項籍羽(こうせきう)と評せるため、小覇王なのです。
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東呉の徳王厳白虎に董襲が最後を与えたとされています
三国志の董襲が、厳白虎を打ち取ったという話があるのです。
厳白虎は最期は不明とされていることも多いのですが、武勇に長けた董襲が、打ち取り首を手土産に孫策に味方したと言われています。
そして、董襲は水戦にも能力を発揮し、孫家の仇である黄祖の水軍を勇敢さで打ち負かしたのです。
ただ、董襲はその後、曹操の水軍と戦う際に無理に船に居座ったため、溺れて最後となってしまいました。
その人物に最期が訪れるのは、その武将の長所が短所と変わる時なのでしょうか。
ちなみに、董襲は人柄への評価も高い武人だったのです。
董襲元代(とうしゅうげんだい)は、厳白虎だけでなく黄祖にも勝ちましたが、水戦で最期が来てしまいました。
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始皇帝崇拝を廃止した会稽太守王朗の政治
三国志の会稽太守王朗は、会稽あたりで古来より信仰されていた始皇帝を徳が足りていないとして、祀りを止めさせました。
王朗は始皇帝のような偉人に対しても、徳をもって相対する人物だったのです。
乱世という無道の空間で生き残れたのは、王朗が徳を頼んでいたからでしょうか。
そして、孫策が江東で勢力を拡大し、会稽付近にも現れたため、王朗の部下は脱出を進言しました。
ですが、王朗は孫策を甘く見たので、他の武将たちと連携して、孫策に対抗してしまったのです。
抵抗むなしく王朗は孫策に負けたため、大人しく謙虚に降伏したところ大丈夫でした。
会稽太守王朗景興(おうろうけいこう)は、民を徳で導き、敵対した孫策からも許され、長生きしたのです。
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まとめ:三国志東呉の徳王厳白虎(げんはくこ)の江東の戦い
三國志の厳白虎が、孫策たちと戦い敗北してしまったことを解説してきました。徳王よりも孫策の方が、偉かったからでしょうか。
厳白虎の弟厳輿は、武力の高い人物だったことも記載しました。孫策の武力が、優れ過ぎていただけなのかもしれません。
そして、厳白虎が敗れても、影響力を利用した陳登などがいたことも説明しました。厳白虎はやはり、大きい人物だったのでしょうか。
また、孫策といにしえの項羽が、同じような存在だったことも述べました。劉邦の再来も、三国志にはいたのでしょうか。
他にも、王朗という徳な政治家も語りました。どのような状況でも有徳な人物は、助けがあるのでしょうか。
東呉の徳王厳白虎は、謎な立ち位置の江東の武将なので、楽しく学べるでしょう。