諸葛誕!狗の乱、寿春、性格、能力、子供息子、諸葛亮、司馬師も解説

三国志の諸葛誕は、狗と評価された名将なのです。

諸葛誕は狗ですが、諸葛瑾は虎で諸葛亮は龍という凄い評価でした。諸葛誕だけなぜ狗なのでしょうか。

そして諸葛誕は、四聡八達としても名声を博していました。名声を獲得するのは良い事ですが、果たして本当に諸葛誕は、名声をゲットしていたのでしょうか。

また諸葛誕は、時の権力者司馬一族とも深い関係がありました。権力者まで味方にしていれば、諸葛誕の将来は安泰ではないでしょうか。

他にも諸葛誕が、乱の際に息子を利用したことも記載していきます。狗な諸葛誕も、決死の覚悟で反乱を実行したのでしょう。

三國志の諸葛誕を詳しく解説していきます!

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魏は諸葛誕の狗、蜀漢は諸葛亮の龍、呉は諸葛瑾の虎を獲得しました

三国志の諸葛誕は、龍や虎のような強く立派な存在ではなく、狗と称されたのです。

狗というのは、吠えている犬を意味しているわけではなく、巧狗という忠誠心の高さを意味しています。

確かに諸葛誕は、諸葛亮や諸葛瑾よりは見劣りするかもしれませんが、高評価な武将です。

そして蜀漢の諸葛亮孔明は、臥龍と呼ばれており、龐統の鳳雛と同じくらいの知略とされています。

諸葛亮か龐統のどちらかを得れば天下を獲得出来る、とまで言われていました。

また、諸葛瑾の主君孫権の父孫堅は、江東の虎と評価を受けていました。呉は、たくさんの虎が住む場所だったのでしょう。

諸葛誕は功狗の狗と名付けられ、諸葛瑾の虎と諸葛亮の龍とも張り合えたのです。

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諸葛誕は四聡八達のひとりであり夏侯玄や李勝や鄧颺と共に名声を得ました

三国志の諸葛誕は、狗だけでなく四聡八達としても、有名な武将なのです。

そして、定軍山の戦いの最後で有名な夏侯淵の息子夏侯覇は、魏朝廷の異変をいち早く察知し、蜀漢に亡命しました。

四聡八達の夏侯玄は、夏侯覇の親戚でしたが先が見えず、司馬一族の権力に押し潰されたのです。

また李勝は、司馬懿仲達と権力争いをしていた曹爽に味方しており、司馬懿の演技を見抜けませんでした。

鄧颺は、不思議な力で評判な管輅から死が近い事を予言されていながら、対策を怠ったのです。

凄い名声を獲得しても、本質が素晴らしい人物になったわけではないのでしょう。

諸葛誕と李勝と夏侯玄と鄧颺の四聡八達たちは、有能でしたが、皆悲惨な終わり方をしました。

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明帝曹叡は四聡八達の諸葛誕たちを絵に描いた餅と非難したのです

三国志の諸葛誕は、四聡八達と大評判でしたが、魏皇帝曹叡には虚名を見抜かれていました。

明帝曹叡は、劉曄から始皇帝や武帝に近い存在であると高評価な人物だったのです。

始皇帝は法律で7か国を統括した偉人であるため、諸葛誕たちも法で取り締まられてしまうのでしょうか。

そして劉曄は、劉備が益州地域を掌握する前に曹操が攻めるべきと進言し、隴を得て蜀を望まないと却下されました。

ですが後に、劉備が大勢力となり、曹操配下の勇将夏侯淵を定軍山の戦いで討ったのです。

四聡八達の諸葛誕は、皆から評価を得ていましたが、始皇帝と武帝な曹叡元仲(そうえいげんちゅう)には、本質を見透かされていました。

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諸葛誕は司馬師の弟司馬伷に娘を嫁がせていたのです

三国志の狗な諸葛誕は、司馬一族と親密な間柄だったため、王淩と毌丘倹と文欽を制圧しました。

王淩は星占いで、自らが大出世する事を予見し、乱を起こしたのです。

ですが、ただの絵空事に過ぎず、王淩は司馬懿にすぐに鎮圧されました。

司馬懿は、諸葛亮ですら攻略の難しい人物だったので、王淩では無理なのでしょう。

そして、皇帝は曹氏一族なのですが、司馬師や司馬昭が台頭してきたので、毌丘倹と文欽は、曹氏一族を盛り立てるために、乱を行ったのです。

諸葛誕は、毌丘倹と文欽から反乱への加担を求められましたが拒絶し、司馬一族と共に乱を撃破しました。

諸葛誕は、司馬一族の親戚だったため、大規模な反乱が発生しても加わらず、鎮圧に協力したのです。

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寿春三叛の最後に結局乱を引き起こした諸葛誕の最期

三国志の諸葛誕は、魏王朝と司馬一族のために、王淩と毌丘倹と文欽の反乱を鎮圧しましたが、自分自身も乱を行いました。

  • 反乱の援軍のために呉に送られた諸葛誕の息子諸葛靚
  • 反乱で追い詰められているにも関わらず内部対立を激化させた諸葛誕

司馬一族は、自分たちの権力を盤石とするために、以前排除した曹爽の残党たちや敵対勢力に厳しい対応をしたのです。

諸葛誕は、司馬昭に警戒されていることに気付き、先手必勝で反乱を決行しました。

そして魏は呉とも争っていたため、諸葛誕の乱の援軍に呉軍も訪れたのです。

ですが司馬昭たちは、諸葛誕軍の2倍以上の軍勢を用意していたこともあり、諸葛誕を一気に制圧しました。

ちなみに、諸葛誕が最後を迎えた後に残された何百人もの兵は、忠誠心が非常に高かったため、諸葛誕は田横に近いとも評価されたのです。

諸葛誕は、王淩や毌丘倹や文欽と共に反乱を起こさず、追い込まれて決起したため、自滅してしまいました。

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反乱の援軍のために呉に送られた諸葛誕の息子諸葛靚

三国志の諸葛誕は、乱を成功させるために、子供の諸葛靚を呉に預けました。

諸葛靚のおかげで、呉から数万もの援軍が来訪したのですが、魏には鍾会がいたのです。

鍾会は後に、前漢の三傑の張良子房と評価されるほどの知略を有していました。

そして鍾会は、諸葛誕への呉の援軍の中に、魏に鞍替えしてきた者の親戚がいることを発見したのです。

その親戚たちが魏に付いたせいで、呉では親戚の一族を処刑する話が出ているという噂を流しました。

すると、諸葛誕の軍勢から魏に帰服する者が、増加したのです。

諸葛誕は、息子の諸葛靚まで利用し、反乱を上手くいかせようとしましたが、鍾会の策略に破れました。

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反乱で追い詰められているにも関わらず内部対立を激化させた諸葛誕

三国志の諸葛誕は、乱の最中に、元々険悪だった数少ない味方の文欽を討ちました。

諸葛誕は、敵の司馬昭の見事な包囲に焦り、攻撃を繰り返したのですが、突破出来なかったのです。

ですので、文欽に責任を転嫁し、事態を収拾しようとしました。

そして、文欽の息子には文鴦もいたのですが、なんと魏軍の軍門に下ったのです。

司馬昭は文鴦を上手く利用するために、文鴦を処罰せずに、諸葛誕側に宣伝させました。

文欽の子供でも処刑されなかったので、諸葛誕側から司馬昭に付く者が激増したのです。

諸葛誕は、反乱中にも関わらず文欽仲若(ぶんきんちゅうじゃく)を斬り、司馬昭に味方する者を増加させてしまいました。

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まとめ:三国志諸葛誕公休(しょかつたんこうきゅう)の狗の乱と能力と性格

三國志の諸葛誕が、魏のために忠誠を尽くしながらも、反乱に加担したことを解説してきました。

諸葛誕が、蜀漢や呉に亡命してから反乱を起こせば、大成功もあり得たのではないでしょうか。

そして諸葛誕が、名声を獲得しながらも、明帝曹叡から批判されていたことも説明してきました。

曹叡の後から魏王朝は目立って衰退するので、諸葛誕は魏王朝の栄枯盛衰も見たのでしょう。

また諸葛誕が、寿春三叛の最後の反乱を行ったことも記載しました。心理的に追い詰められてから、諸葛誕は反乱を起こすので、諸葛誕は計画性のあまりない人物と言えます。

諸葛誕は、狗と評価された忠実さゆえに、いつの間にか乱を起こした残念な人物でしょう。

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