しょかつかく!諸葛恪性格、瑾、孔明どんな人?一族、誕、陸遜も解説

巧みな話術で身を立て、過ぎた弁舌で身を亡ぼしたのが三国志の諸葛恪です。

諸葛恪の父諸葛瑾が、孫権から外見をからかわれた際に、諸葛恪は賢さを発揮しました。こういう受け答えが道を切り開くのでしょう。

そして、天才諸葛亮孔明と諸葛瑾の比較も行っています。なんと、諸葛恪は諸葛瑾が上だと呉の主君に述べたのです。

また、狗と評価された諸葛誕も説明していきます。名声を獲得した諸葛誕に待つのは、輝かしい未来だったのでしょうか。

他の諸葛一族も読めます。仙人な女性や諸葛亮の子供も登場します。知っておくと、三国志がより理解しやすくなるでしょう。

三國志の諸葛恪を詳しく解説していきます!

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諸葛恪の機転で保たれた父の面目

三国志諸葛恪は、父諸葛瑾の顔が長いことで、主君孫権からからかわれ馬に父親の名前を書かれましたが、の馬という風に付け足すことで、馬をむしろ獲得したとされています。

  • 夷陵の戦いの英雄陸遜(りくそん)から注意された諸葛恪
  • 費禕(ひい)に論戦を挑む諸葛恪と将来を見通した孫権

諸葛恪は、臨機応変で他人を出し抜くずば抜けた賢さと言えるでしょう。

また、相手に勝つような発言をしているので、負けず嫌いな性格とも述べられます。

果たして、機転だけで勝ち続ける事が出来るのでしょうか。

諸葛恪は合肥新城の戦いで、良い所まで行ったのですが、失敗し、その責任を他人のせいにしたため、一気に没落しました。

諸葛恪は、他人を丸め込む論法に長けており、頭が良いと言われていましたが、自らの失敗まで弁舌で取り繕おうとしたため、人望を失いました。

⇒馬謖とは?諸葛亮孔明なぜ泣いて斬る?街亭の戦い、登山の誤算も解説

夷陵の戦いの英雄陸遜(りくそん)から注意された諸葛恪

三国志の諸葛恪は、大きいところを押さえれば良いという考えでしたが、陸遜は見落としている小さい重要事項もあると述べたのです。

諸葛恪は、弁舌をまくし立てて煙に巻く論法を得意とし、人をないがしろに平気ですることがありました。

陸遜が生きている内は、大問題になることはあまりなかったのですが、とうとう諸葛恪が大将軍として出陣する機会が訪れてしまったのです。

魏の城を上手く追い詰めて降伏を促したところ、後数日くらい防御しておくと親族たちが罪にならないので待って欲しいと言いました。

ですが、これが罠で、防御に難があったため時間稼ぎをしていただけだったのです。

諸葛恪は、最終的には敵の時間稼ぎに騙されてしまい、誤魔化しきれずに、最後が訪れてしまいました。

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費禕(ひい)に論戦を挑む諸葛恪と将来を見通した孫権

三国志の諸葛恪は、いつも通り得意の弁舌で、蜀漢の費禕をやり込めようとしましたが、費禕は上手く対応して、むしろ呉の主君孫権に認められました。

孫権は費禕を高評価し、蜀漢で出世してあまり会えなくなるだろうと予言したのです。

そして費禕は、遊び惚けていながらも激務をこなせるほどの高い能力を持っていました。

費禕の仕事の後任者は、仕事が大変過ぎて、まったく余裕がなかったためです。

また蜀漢には、事務作業に長けた楊儀と武勇に優れた魏延がいたのですが、犬猿の仲でした。

費禕は2人をしっかり管理して、蜀漢のために奉仕するよう仕向けていたのです。

費禕文偉(ひいぶんい)は、すごい能力があり諸葛恪の弁舌に応酬しながらも、孫権から高評価を獲得しました。

⇒呉の初代皇帝孫権!エピソード、妻、孫策孫堅、性格、晩年死因も解説

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諸葛恪の父諸葛瑾以下!?な諸葛孔明はどんな人?

三国志の諸葛恪は、孫権から父と諸葛亮孔明の評価を問われた際に、主君選びが正しいので、父諸葛瑾が上と述べました。

呉の主君孫権は、諸葛恪の弁舌を評価すると共に、非常に喜びました。

諸葛亮孔明は、三国志の当時から賢者として評判が高い人物だったため、孫権はさしもの諸葛恪も、何も言えないと思っていたのでしょう。

父諸葛瑾の株を上げるだけでなく、呉の主君孫権を諸葛亮孔明の主君劉備より上であるとも言っている名言です。

ただ、諸葛瑾は息子の賢さを危ぶんでもいました。予言は的中し、諸葛恪の失敗により、諸葛一族は大ダメージを受けてしまいました。

天才諸葛亮孔明と父諸葛瑾子瑜(しょかつきんしゆ)の人物評の際、主君選択の考え方で孫権を出し抜いたのが、諸葛恪でしょう。

⇒しょかつりょう!天才諸葛亮孔明とは?名言、劉備、龐統、魏延も解説

諸葛恪の父の諸葛瑾は忠誠心厚い人物

三国志の諸葛瑾は、能力が高いだけでなく、呉への忠義でも高評価でした。

呉の主君孫権は、諸葛瑾の弟の天才諸葛亮孔明も手に入れようとしていました。

諸葛瑾に要請すると、自分が主君に忠誠を誓っているように、弟孔明も劉備に心の底から味方しています、という風に答えたのです。

諸葛瑾は、弟諸葛亮孔明の忠誠心を汚すような行いを嫌ったのでしょう。

そして、関羽が打ち取られたため、呉に攻めてきた劉備を諸葛瑾は、道理で説き伏せようとしましたが、失敗してしまいました。

ですが、劉備の侵略も大敗に終わったので、諸葛瑾が正しかったと言えます。

諸葛瑾は、真面目で誠実な人柄で、主君孫権からも重用されていました。

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狗と評された諸葛誕公休(しょかつたんこうきゅう)

諸葛恪の父諸葛瑾は虎、天才軍師諸葛亮孔明は龍、諸葛誕は狗と言われていました。

なぜ、他の2人はすごい例えなのに、諸葛誕は狗なのでしょうか。

狗とは功狗で、真面目な働き者という意味です。

狗なので、主人次第では善にも悪にもなるということでしょう。

そして諸葛誕は、周りからも認められていましたが、魏の明帝は虚名と述べ、批判しました。

結局明帝が言う通り、諸葛誕は本物ではなく、諸葛誕の乱を起こして自滅したのです。

曹操や劉備などの良い主に出会っていれば、善な狗として終われたのでしょうか。

三国志の諸葛恪の親戚の諸葛誕は、高い名声を得ましたが、名声に押しつぶされ、破滅の道に陥っていきました。

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諸葛誕の息子の諸葛靚(しょかつせい)は父への孝行を忘れませんでした

三国志の諸葛靚は、父諸葛誕が反乱に追い込まれたため、呉に送られ援助要請を行いました。

父諸葛誕は、同僚や親しい知人が権力闘争に敗れ去っていく中で、不安にかられ反乱を起こしたのです。

諸葛靚が呉に行った甲斐があり、呉は諸葛誕の援軍に数万の軍勢を派遣しました。

ただ、諸葛誕討伐軍に策謀家鍾会がいたことにより、呉が援軍として出撃させた武将が鍾会側に寝返るという事態が、発生したのです。

前漢の三傑の一人に大賢者張良がいましたが、諸葛誕の乱での鍾会の謀略は、張良クラスと評されました。

諸葛誕は敗れてしまいましたが、諸葛靚は呉に留まることでセーフだったのです。

諸葛靚は、父諸葛誕を助けられませんでしたが、後世でも評判な孝行を行い続けました。

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諸葛一族の諸葛果(しょかつか)と諸葛瞻(しょかつせん)と諸葛攀(しょかつはん)

三国志の諸葛一族には、仙女とされている諸葛果と諸葛亮孔明の息子で後継者の諸葛瞻と諸葛恪の甥の諸葛攀がいます。

諸葛果は諸葛亮孔明の娘で、仙術を身に付けたとされているのです。ただ、ハッキリと存在したとは言えません。

諸葛瞻は、若い時から聡明で、まさに諸葛亮の子供な人物でした。ですが、早くから完成してしまった感があり、そのままの流れで戦死したのです。

諸葛攀は、なんとあの天才諸葛亮孔明から育ててもらいました。本気を出したら、諸葛亮クラスの知略を繰り出したのでしょうか。

一口に諸葛一族と言ったとしても、魏と呉と蜀のそれぞれに属していました。

三国志の諸葛攀と諸葛果と諸葛瞻は、諸葛一族の人々です。

⇒諸葛亮孔明の子孫と現在は?子供たち、逸話、モデル?三国志の裏話

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まとめ:三国志の諸葛恪元遜(しょかつかくげんそん)の性格と一族

三国志の諸葛恪が、どれくらい弁舌巧みで、才覚を有していたかを解説してきました。話術を習得したい人も、参考になるところが多いでしょう。

諸葛恪の父諸葛恪は、優れた人格で呉の主君孫権に評価されていたことも、説明しました。人格を磨くことで出世したい人にも、役立つ内容でしょう。

そして、他の諸葛一族たちにも言及しました。天才諸葛亮孔明以外の諸葛一族も、活躍していたのです。

虚名を博し乱を起こしてしまった諸葛誕も、記載しました。諸葛誕がそもそも蜀漢や呉に仕えていたら、反乱せずに済んだのでしょうか。

諸葛恪は、非常に口達者にも関わらず破滅したので、話術に長けている者の危うさの要因を見つけると良いでしょう。

⇒三国志とうがい蜀攻略!鄧艾妻、司馬懿、しょうかい、きょういも解説

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