三国志で乱世の奸雄曹操から評価された曹一族で、虎豹騎を率いたのが曹真です。
曹真は、武勇に優れた武将で虎退治でも有名とされています。曹真を重用した曹操は、やはり人材収集家と言えるでしょう。
そして、曹真と共に虎豹騎を活用したのが、曹一族の曹休です。曹休は劉備軍や孫権軍と戦ったのですが、結局どうなったのでしょうか。
また、曹真と諸葛亮が勝負した戦いも説明していきます。諸葛亮は狼顧の相の司馬懿とも競えた逸材ですから、曹真も戦うだけでやっとだったのでしょうか。
他にも、曹真の息子の曹爽も書いていきます。曹爽は虎豹騎曹真の子供ですから、さぞや凄い武将だったのでしょうか。
三國志の曹真を詳しく解説していきます!
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目次
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曹操の一族の選りすぐりの親衛隊曹真は虎を倒した虎豹騎の指揮官
三国志の曹真は、自らで虎を射抜いたこともあるほどの武勇を誇っており、虎豹騎を統率していました。
定軍山の戦いで、敵を侮っていた夏侯淵が、蜀漢軍の黄忠と軍師法正に最後を与えられたのです。
そして曹真と徐晃は、劉備軍の他の武将を打ち負かすことで、曹操軍の動揺を抑え込みました。
徐晃は、武神関羽と打ち合いをし、互角以上の武勇を示した武将なのです。
また徐晃は、呉楚七国の乱を制圧した前漢の名将周亜夫に似ている、と曹操に高評価でした。
曹操は、自らの親衛隊長典韋をいにしえの豪傑悪来と名付けていたので、曹操の名付け癖が出たのでしょう。
曹真は虎豹騎を統括し、周亜夫な徐晃と共に曹操の部下として活躍したのです。
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曹真と共に虎豹騎を率いた曹休は石亭の戦いで騙されました
三国志の曹真の曹一族には曹休がおり、虎豹騎で勇名を馳せたのです。
武都の戦いで曹休は、劉備軍の偽装を見抜いて撃破しました。
張飛たちは隠密を見せかけていたので、劉備軍の急所を攻撃したのです。
しかも五虎大将軍の張飛だけでなく馬超も敗走させたため、曹休は名将と言えるでしょう。
そして名将のはずの曹休は、呉との石亭の戦いで周魴の迫真の演技を信じてしまい、大ダメージを受けたのです。
いにしえの大兵法書孫子にも、兵は詭道なりとあるため、見抜けない曹休の能力の低さが問題かもしれません。
曹真と一緒に虎豹騎を用いた曹休文烈(そうきゅうぶんれつ)は、劉備軍には勝ちましたが、呉には敗れました。
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赤壁の戦いの因縁を晴らすために出陣した曹丕軍の曹真の濡須口の戦い
三国志の曹真は、曹操の大敗である赤壁の戦いの雪辱のためにも、呉に攻め込みました。
魏は大国なので、かなり曹真軍が優勢に展開したのですが、呉の朱然が踏ん張ったのです。
朱然軍は食糧不足に陥りましたが、それでも厳酷に部下たちを統制したことで、曹真たちの攻撃を防御しました。
そして呉の朱然は、関羽を打ち取った呂蒙からも高評価だったのです。
呂蒙は関羽の尊大さを逆に利用して、わざと油断を誘い荊州を取り戻しました。
ですが、呂蒙が関羽に最期をもたらしたことで、蜀漢の君主劉備の恨みを買ったので、呂蒙はいつの間にかあの世に行ったのです・・・
虎豹騎の曹真は、濡須口の戦いで呉軍に健闘しましたが、朱然の統率力に勝てませんでした。
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司馬懿と共に曹丕の後継者曹叡(そうえい)を託された曹真
三国志の曹真は、曹丕の後は明帝曹叡に仕え、曹一族としての存在感を発揮しました。
- 曹真の息子の曹爽は司馬懿と共に曹芳(そうほう)を支えたのです
- 狼顧の相(ろうこのそう)司馬懿を侮っていた曹真の息子の曹爽の末路
- 虎豹騎曹真の息子曹爽を司馬懿から助けようとした大司農桓範
蜀漢の諸葛亮の北伐で、司馬懿が活躍したことは知られていますが、実は曹真も戦果を上げているのです。
曹真は陳倉の戦いで、諸葛亮の行軍ルートを予見していました。
少し前に諸葛亮と馬謖が、街亭の戦いで敗北していたので、陳倉が狙い目と判断する、と曹真は考えたのです。
予見が当たり、魏軍は曹真の指示で防御を固めていたため、司馬懿と同じくらいの知力の諸葛亮を撃退出来ました。
諸葛亮は大賢者と言われることが多いですが、やはり魏国とは国力差が大き過ぎたのでしょうか。
曹真は、神謀な諸葛亮の進軍先を見切り、事前に防御を行うことで、見事勝利したのです。
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曹真の息子の曹爽は司馬懿と共に曹芳(そうほう)を支えたのです
三国志の曹真の子供の曹爽は、魏の3代目皇帝曹芳の補佐をしていました。
曹爽は、魏の実力者司馬懿にも丁重な対応をしていたので、トラブルも初めは少なかったのです。
ですが、曹爽は自分の意見をより一層政治に反映させるために、かつての後漢の大将軍何進の孫の何晏を引き立てました。
曹爽は、何晏らを重用し、重鎮司馬懿を政治から締め出したのです。
司馬懿は狼顧の相という狡猾さを持っているため、一見何事も無かったかのうように引退して見せました。
ちなみに、何晏は司馬懿たちに敗れた後、自分だけが助かろうとして、かつての仲間に過酷な刑罰を行いましたが、司馬懿から結局処刑されたのです。
曹真の子供の曹爽は、魏の中心的な人物司馬懿に配慮していたように見せかけ、権力を拡大しました。
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狼顧の相(ろうこのそう)司馬懿を侮っていた曹真の息子の曹爽の末路
三国志の虎豹騎の曹真の息子曹爽は、司馬懿を政治から追放することに成功した、と考えていました。
確かに重鎮司馬懿を遠ざけられたのですが、曹爽たちには軍略も政治力も欠けていたのです。
曹爽たちは蜀漢軍との戦いに大敗し、責任問題に発展しました。
そして狼顧の相の司馬懿は、高齢で弱ったフリをすることで曹爽を油断させ、曹爽たちが本拠地を出払った隙に、政府の実権を掌握したのです。
曹爽は、司馬懿の動きを予期しておらず、対策を講じる間もなく、司馬懿側に敗れました。
虎豹騎曹真の子供曹爽(そうそう)は、司馬懿を中央から追いやれば勝ちだと思っていましたが、海千山千の司馬懿に最後は負けたのです。
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虎豹騎曹真の息子曹爽を司馬懿から助けようとした大司農桓範
三国志の曹真の子供曹爽は、司馬懿から後に最後を与えられる事を見抜けませんでした。
司馬懿が高平陵の変で、曹爽たちが中央から出かけた際に実権を握り、曹爽の権限を取り上げたのです。
桓範は、司馬懿が後に曹爽たちに最後をもたらすことを見通しており、必死に曹爽の決起を促しました。
そして大司農桓範は、曹爽の父曹真の偉業も知っており、曹真を持ち出して批判しましたが、結局曹爽の態度は変わらなかったのです。
司馬懿は狼顧の相なしたたか武将なので、曹爽に一旦は甘い対応をして油断させました。
すると突然、曹爽が謀反を企んでいたという証拠が現れ、曹爽と桓範は処刑されたのです。
曹爽は、大司農桓範から強い助言をもらったにも関わらず、軍勢を集められなかったため、司馬懿から最後を与えられました。
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まとめ:三国志の曹真子丹(そうしんしたん)の虎豹騎と曹一族
三國志の曹真は、他の曹一族と共に劉備や孫権と戦ったことを解説してきました。曹真の活躍は、虎豹騎がいてこそではないでしょうか。
曹真と同じように虎豹騎を統率した曹休が、劉備軍に勝利したことも説明しました。呉よりも蜀漢攻略に力を入れていれば、曹休ももっと力を出せたかもしれません。
そして、司馬懿と曹一族が、初めは良い協力関係にあったことも書きました。曹真という実力者だったからこそ、司馬懿もうかつには手出し出来なかったのでしょうか。
また、曹真の子供曹爽が、結局狼顧の相司馬懿に、不意を突かれたことも記載しました。超世の傑曹操は司馬懿に気を許してはならないと言っていましたが、このことだったのでしょう。
曹真はやはり、虎豹騎が印象的な武将なので、かっこいい名前に惹かれる人も好きな武将ではないでしょうか。