三国志の武神関羽を打ち取ったのが、呉の呂蒙将軍なのです。
呂蒙は元々将軍だったわけではなく、しっかりチャレンジすることで、出世の機会を得ました。チャレンジ精神が、呂蒙を大人物にしたのかもしれません。
そして、呂蒙は勉強家としても知られています。無学と侮られていた呂蒙は、驚くべき勉強量により、周りで有名な賢者からも見直されたのです。
また、呂蒙は関羽に勝利したことが死因となってしまった、と言われています。武神な関羽を討つと、どのような災難があったのでしょうか。
ほかにも、呂蒙から認められた秘めた鬼才陸遜も、ご紹介しています。陸遜は呉国をどのように導き、蜀漢の軍勢に対抗したのでしょうか。
呂蒙子明(りょもうしめい)がどのように凄い功績があるかを詳しく解説していきます!
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目次
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呂蒙は猛勉強の末、呉の賢人魯粛に逆に教えられるほどになりました
三国志の呂蒙は、武将と3日くらい会わなければ、新しい目で見なければならないという風な名言を残しています。
故事成語では、男子三日会わざれば刮目(かつもく)して見よと言うのです。
呂蒙は元々は、字も分からないほど学がありませんでした。
そこからかなり勉強し、賢者魯粛(ろしゅく)にすら荊州地域での作戦を享受出来るくらいにまで、到達したのです。
今まであまり学が無かったからとあきらめずに、努力出来るところが、呂蒙の素晴らしい才能でしょう。
ちなみに、呂蒙は元々呉下の阿蒙と侮られていました。呉下の阿蒙も、故事成語として使われることが多いです。
呂蒙は、わずか3日で成長するほどの勉強家で、故事成語になるほどの人物でした。
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貧乏をバネに武勇を示した豪傑呂蒙
三国志の呂蒙は貧乏な家ですが、卑屈にならずにむしろ積極的に軍事を行うことで、豪気さを見せました。
今あまり経済的に豊かでない人も、呂蒙のように業務をきっちり行うことで、認められていくでしょう。
そしてある時呂蒙は、人から侮られた際に、豪気さも相まって斬ってしまいました。
ここで終わりかと思ったら、小覇王孫策と引見出来、高評価されたのです。
孫策自身が、若い時に名門袁術の元で忍従の時を過ごし、軍事を上手くこなして飛躍したため、呂蒙の境遇に共感しやすかったのでしょう。
呂蒙は経済的に困窮していましたが、軍事で結果を出していき、豪傑として好評を博していました。
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武神関羽を打ち取る偉業を得たのが死因な呂蒙
三国志の呂蒙は、関羽を見事負かしましたが、関羽を死去させたことで、呉の君主孫権から死に追い込まれたとされています。
- 無名な大器陸遜を任命した呂蒙
- 関羽の復讐で怒り狂った劉備と迎え撃つ陸遜
関羽雲長(かんううんちょう)に呉が勝ったというのは、一見すると良いことに思えるでしょう。
ですが、呉は複雑な状況に置かれていました。
曹操の魏が強大な勢力を誇っており、呉の1国では太刀打ち出来なかったのです。
蜀漢の関羽を打ち取ると、義兄弟で蜀漢の君主の劉備が激怒し、蜀漢と連携出来ないどころか、攻め込まれる危険性もあります。
案の定、劉備が何十万もの大軍を率いて、呉に攻めてきて、夷陵の戦いとなりました。
呂蒙は、関羽に勝利するという大戦果を獲得しましたが、呉の複雑な事情から死因も獲得したと言われています。
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無名な大器陸遜を任命した呂蒙
三国志の呂蒙は、才気あふれるがまだあまり人に賢さを知られていない陸遜で、関羽を出し抜きました。
関羽は、兄である劉備以外の者を見下すような対応をすることが、結構あったのです。
呉の主君孫権の息子と関羽の娘の縁談の際も、侮辱な発言をした上で破談させました。
陸遜伯言(りくそんはくげん)は、関羽の侮り癖を調子づかせ、荊州の守りを手薄に導くために、関羽を称える文書を送ったのです。
術策にハマった関羽は、荊州の防御にほころびが生ずるほどの軍勢を率いて、魏国を攻めました。
呉の陸遜たちはその間隙を縫って、荊州を得て、関羽も打つ負かしたのです。
呂蒙は、陸遜という無名の賢者を推薦することで、武神関羽を手玉に取りました。
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関羽の復讐で怒り狂った劉備と迎え撃つ陸遜
三国志の呂蒙の後任で、呉軍を率いることになった陸遜は、夷陵の戦いで英雄劉備玄徳と激突しました。
陸遜は呂蒙と異なり、武勇や将軍的な能力ではなく、優れた知力を活用したのです。
関羽を調子づかせたように、劉備にもどんどん攻め込ませて、戦線を拡大させ防御を弱体化させました。
そして勝機が訪れた途端、陸遜は諸将に火攻めを命じたのです。
また、夷陵の戦いの戦闘中陸遜は、実績があまりないため、呉の諸将からかなり批判されていました。
陸遜の強靭なメンタルと勝利への確実な計算が、英雄劉備に勝つという結果をもたらしたのでしょう。
陸遜伯言(りくそんはくげん)は、劉備の怒りの炎を上手く利用して奥深くに引き込み、火計で壊滅させました。
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呂蒙の策略能力、三国志の黒田官兵衛
三国志の呂蒙は、劉備と孫権の荊州争奪戦で、劉備側の武将を策略で降伏させました。
劉備は魏の曹操を打ち負かすために、益州から定軍山へ、荊州から関羽が魏領へ侵入していたのです。
呂蒙は劉備陣営の郝普(かくふ)に、劉備が敵軍に取り囲まれてしまい、関羽も劣勢という偽報を流しました。
危ない状況と誤解した郝普は、呂蒙に降ったのです。
ちなみに、実は呂蒙の方が、主君孫権から形勢不利なので帰還するよう、命じられていました。
そして、日本の戦国時代に似ている話があります。
本能寺の変があり、秀吉は主君信長を失ってしまったのですが、大国毛利氏と戦中だったのです。
秀吉は軍師黒田官兵衛と相談し、毛利側に信長の死を隠して和睦を持ちかけ、上手く成功させました。
呂蒙は、不利な情勢を隠して敵の武将を心理的に追い詰め、降らせたのです。
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三国志呂蒙と呂不韋(りょふい)と呂布は同じ名前ですが・・・
三国志の呂蒙と同じ呂であり、秦国で絶大な権力な相国呂不韋と飛将呂布奉先は、血縁関係にありません。
ただ、三国志の世界にも呂不韋の子孫がおり、呂凱が末裔と言われています。
呂不韋は、始皇帝の父に援助し大商人から秦の権力者にのし上がっていきましたが、呂凱は、蜀漢に忠節を尽くし続けました。
呂不韋が結局権勢を誇り過ぎて追い込まれてしまったため、子孫の呂凱は、国への忠義心を優先したのでしょうか。
そして、呂布は裏切りを繰り返したため、ずば抜けた武勇があったにも関わらず、処刑されていきました。
呂蒙も呂不韋も呂布も、本人たちにとっては不本意な終わり方をしている点では、似ているでしょう。
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まとめ:三国志の呂蒙子明(りょもうしめい)の故事成語と名言を誕生させたほどの勉強能力
三國志の呂蒙が、無学な武将から知略も備えた名将に進化していったことを語りました。
今あまり知識がない人も、呂蒙のように猛勉強すると、博学にいつの間にか、なっているでしょう。
そして、武神な関羽を打ち取ってしまったことで、蜀漢の劉備から非常に恨まれたことも説明しました。
呂蒙が関羽を討たなければ、三国志は蜀漢の天下だったのでしょうか。
また、呉では呂蒙の後任として、有能な策士の陸遜が登場したことも書きました。日頃から人材発掘と人材育成を行っていると、陸遜な才人が現れるのでは?
他にも、呂蒙と似ている名前の呂不韋と呂布の関係性も論じました。名前が似ているからといって、深いつながりとは限らないということです。
呂蒙は、経済的に良くない環境から出世した将軍なので、夢のある武将とも言えるでしょう!