三国志の呉の孫権の祖先には、孫子こと孫武がおり、孫武の子孫には孫臏もいるのです。
孫臏は、競馬にも長けており、田忌将軍に大儲けさせました。どのような物事でも、すべてを完璧にこなそうとするよりも、ある程度欠けている方が、上手くいくものなのでしょう。
そして、仇敵龐涓と激突した孫臏は、巧みな兵法で疲弊させ大敗させました。孫臏のやり方は、兵法三十六計にも名を連ねているほどの手法なので、学ぶ意義も大きいでしょう。
また、北伐で馬陵の戦いを再現した、諸葛亮の兵法も説明していきます。名将張郃も、孫臏兵法には対抗出来なかったのでしょう。
孫臏と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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田忌将軍に競馬で1敗させることで全体では勝たせた孫臏の兵法
孫臏は、上等の馬に下等を中等の馬に上等を下等の馬に中等を選択することで、田忌に1敗2勝させました。
すべてで勝つことは難しいが、小さい敗北を行うことで、全体的には勝つ、これこそ孫臏兵法なのでしょうか。
そして孫臏は、競馬での兵法的勝利もあり、長年他国を油断させていた斉の威王からも認められていました。
また斉の威王は、お金で無理に人望を高めていた不正役人を処罰しているため、人を見る目は確かでしょう。
有能な孫臏だからこそ、威王という名君に、出会えたのではないでしょうか。
孫臏は、兵法を応用して競馬で全体的な勝利を獲得し、人物眼に優れた斉の威王からも評判だったのです。
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兵法三十六計の囲魏救趙により桂陵の戦いで宿敵龐涓に勝利した孫臏
孫臏は、魏が強力な軍勢を趙攻めに出陣させることで、国内が手薄になっていることを利用したのです。
そして龐涓は、趙の都の邯鄲をかなり追い詰めていましたが、孫臏軍が魏の都を攻撃したため、孫臏に向かわなければならなくなりました。
しかも龐涓は、魏の大梁を守るために、急いで行軍したので到着した際には、軍全体が疲れてしまっていたのです。
孫臏は、龐涓が戻って来ることを予測していたので、疲労回復の時間を与えず、魏軍を撃破しました。
強力な軍隊も、疲弊したり陣形が崩れたりしていると、思うように力が発揮出来ないのです。
桂陵の戦いで孫臏は、囲魏救趙の兵法で趙の邯鄲を解放させただけでなく、疲弊した龐涓(ほうけん)に大勝し捕縛しました。
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三国志の袁紹の部下の郭図は孫子クラスの兵法家である曹操に孫臏の囲魏救趙を行いました
三国志の郭図は、官渡の戦いで兵糧庫が猛攻を受けたので、曹操の本陣を急襲すれば食糧が守れると主張したのです。
かつて趙が魏の龐涓から攻撃された際に、孫臏が魏の都を攻めることで、龐涓軍を迎え撃った兵法を活用したのでしょう。
ですが、曹操は本陣よりも袁紹の兵糧庫を確保する重要性を認識し、攻められても耐えられるくらいの防御を施していました。
また袁紹配下の張郃は、曹操の本陣を攻める策が失敗するので、兵糧庫救援が大事であると述べていましたが、袁紹から本陣攻撃を命じられ、結局上手くいかず曹操の味方に鞍替えしたのです。
孫臏の囲魏救趙を三国志の官渡の戦いで実演した郭図公則(かくとこうそく)は、兵法の形だけを真似ていたため、張郃を離反させただけでなく曹操の兵糧庫占領も招いてしまいました。
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韓を救援すると見せかけ孫臏は再度魏の都に攻め込みましたが急に退却し竈の数を減らしました
孫臏は、桂陵の戦いと同様に、まずは魏を攻撃したのですが、魏の防御が固かったので即座に本国に戻ろうとしたのです。
龐涓は、孫臏が策を間違え斉に退却しようとし、斉軍が逃げているため竈の数が減少していると判断し、軽装備で一気に追い付こうとしました。
しかし、竈の数を減らすのも孫臏の策だったので、龐涓は逆に追い詰められ、最後を迎えたのです。
ちなみに、龐涓は弓で射られる際に、訪れた樹をランプで照らすと、龐涓ここに死すと書かれていました。
孫臏にここまで操られていた龐涓はまるで、孫臏の敵国の部下のような存在、と言えるでしょう。
馬陵の戦いで孫臏は、撤退しているように見せかけ、竈を減少させ、龐涓を誘い出し上手く最期をあげたのです。
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第四次北伐の祁山の戦いで諸葛亮は張郃に孫臏と同じ兵法で最後を送りました
三国志の諸葛亮は、官渡の戦い以来、魏で活躍していた名将張郃に北伐で、孫臏兵法により勝利したのです。
そもそも蜀漢軍は、李厳が食糧供給に失敗したため、諸葛亮も撤退を始めていました。
張郃は策が多い諸葛亮を警戒し、追撃をしない方針でしたが、司馬懿に攻撃を命令されたのです。
そして張郃が諸葛亮に近付くと、張郃がこの木の元で最期を迎える、と記載してありました。
三国志の張郃儁乂(ちょうこうしゅんがい)は、祁山の戦いで司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)から蜀漢軍の追撃を命じられ、攻めたところ諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の孫臏兵法に掛かり、龐涓と同じ最期が来たとされています。
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孫臏は百里を利に囚われ急行すれば将を亡くし五十里を利のために急襲すれば軍勢を失うという名言を述べ龐涓を死地に誘い込んだのです
孫臏は、囲魏救趙の兵法で桂陵の戦いで大勝利したように、龐涓にわざと侮らせ、魏軍を弱体化させました。
孫子に戦わずに勝利するという兵法がありますが、孫臏が戦う前に毎度龐涓を上手く行軍させているのは、孫子の兵法にも合致するやり方と言えるでしょう。
そして龐涓は、昔から孫臏の才覚を畏怖していながら、結局刑罰を与え恨みを養ってしまっただけだったのです。
龐涓が謙虚になり孫臏を師と仰ぎ、兵法を習っていたら、斉ではなく魏が覇者となったかもしれません。
ちなみに魏国は、元々は魏に仕えており秦を法治国家に導き大国化させた商鞅、にも見放され撃破されたのです。
孫臏は孫子の末裔らしく、戦わずして勝つ兵法を実践し、龐涓を巧みに遠路行軍させ、復讐に成功しました。
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龐涓は孫臏が有能だったので将来を警戒し黥刑と臏刑を与えました
孫臏は、龐涓より能力が高かったのですが、龐涓の策謀を見抜けず刑罰を受けさせられてしまったのです。
臏刑を受けたため、孫臏は名前に、臏が入っているのでしょう。
そして、孫臏は斉に脱出し、鳴かず飛ばずの故事成語で有名な斉の威王から、高評価されました。
また、楚漢戦争で活躍した西楚の覇王項羽の部下の英布も、黥面賊と言われながら王に即位した武将です。
たとえ黥刑を受けたとしても、諦めず才能を有していたら、孫臏や英布のように、かつてよりも飛躍するのかもしれません。
孫子の子孫の孫臏は、龐涓の邪心を見通せなかったため、臏刑と黥刑を施されましたが、斉で威王から師事されたのです。
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まとめ:孫臏(そんぴん)の兵法の内容をわかりやすくと三国志と春秋戦国時代の龐涓の竈
孫臏が、どのような兵法を展開することで、龐涓を翻弄し最後に追い込んだかを解説してきました。
龐涓がいなければ、孫臏が本気にならず、ただの孫子の子孫として終わっていた可能性はあるでしょう。
そして、三国志の官渡の戦いで孫臏兵法を披露した郭図も、説明してきました。同じ兵法を利用しても結果が異なるため、上辺だけを活用するのは、兵法でも危険ということでしょう。
また孫臏は、龐涓を無駄に行軍させ、戦う前からダメージを与えていたことも記載してきました。孫臏の兵法であれば、どこの軍隊を率いたとしても、勝利を獲得出来るのではないでしょうか。
宿敵龐涓に勝利することで、自らの兵法の優秀さを天下に知らしめた孫臏は、春秋戦国時代を代表する兵法家でしょう。