三国志の董卓が、美人の貂蝉に惑わされて破滅したように、戦国四君の春申君も美女李環で最後を迎えていきました。
春申君は、考烈王のために、身を投げ出して強大な秦と対峙したのです。もしも范雎が策士でなければ、春申君は秦王の怒りで、死亡していたのではないでしょうか。
そして、李園の妹が美女だったことで、春申君も翻弄され、最後が訪れたのです。春申君クラスになっても、美人が弱点な武将もいるのでしょう。
また、平原君の食客毛遂が巧みに考烈王を説いたので、春申君が秦軍を攻めたのです。平原君も戦国四君なので、毛遂という隠し玉を出して来たのでしょう。
春申君と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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秦の宰相范雎を欺き後の考烈王を楚に帰国させた春申君は死亡せずに済んだのです
春申君は、使えていた太子完を楚王とするために、秦の昭襄王を怒らせることを恐れませんでした。
昭襄王は、考烈王が勝手に楚に戻ったので、春申君に最期を与えようとしましたが、范雎から説得され見逃したのです。
そして趙の藺相如も、昭襄王が和氏の璧と15城を交換しないと考え、璧を秦王に無許可で趙に戻し、結局春申君と同様に処罰を免れました。
昭襄王は、強大な秦王ですが、他国の賢者に欺かれる面もありながら、寛容でも知られていたのでしょう。
戦国四君の春申君は、宰相范雎(はんしょ)から厳罰を受ける覚悟で、後の考烈王を楚に帰らせ、完璧で知られる藺相如(りんしょうじょ)と同じように無事で終わりました。
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昌文君が考烈王の代わりに人質となることで春申君も楚に帰れたのです
春申君は、考烈王を即位させることに成功しましたが、昌文君を人質としてしまいました。
そして秦には、昌文君以外にも楚の王族として、昌平君もいたのです。
後に昌平君は、蒙恬と李信に大勝利した楚の項燕大将軍に味方し、楚王になり王族の務めを果たしました。
そもそも、秦には王翦がおり、王翦は李信が出陣前に述べていた軍勢の3倍ほどが、楚攻撃に必要と主張していたのです。
しかし始皇帝は、李信の大言壮語を信じてしまい、王翦が引退したので、昌平君は王翦の件で始皇帝を諫めた、と伝わっています。
戦国四君の春申君は、昌文君(しょうぶんくん)を身代わりとすることで、考烈王の就任を実現させたのです。
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李園は美人な妹李環で春申君に取り入るだけでなく考烈王をも篭絡しましたが危険な最後が訪れました
春申君は、李環が美女だったので重用し、妊娠させているにも関わらず、考烈王に譲ったとされています。
そして李園は、春申君からは甘く見られていましたが、謀略に長けており、考烈王の息子幽王の出生の秘密を決死の思いで、守ろうとしていたのです。
また朱英は、李園の黒い策謀に気付いており、主君の春申君を助けようとしました。
しかし春申君は、李園の腹黒さを見抜けず、楚王に最期が来ると、一気に李園から討たれてしまったのです。
戦国四君の春申君は、考烈王を騙し李環の妊娠を隠していたと伝わっていますが、本当の味方の朱英の献策を退けてしまい、食客の李園(りえん)の罠に気付かず、最後が来ました。
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史記の作者司馬遷は春申君が李園に最後を与えられたのは老いたりであると非難したのです
春申君は、かつて秦の昭襄王と范雎から誅殺されることを顧みずに、考烈王を楚に帰らせました。
ですので、李園の悪巧みを制圧することも、春申君であれば出来たのではないか、と司馬遷は主張していたのです。
そして李園自体も、楚の王族の負芻から斬られ、因果な末路となりました。
また楚の大将軍項燕は、秦の大軍に勝ったこともありましたが、結局王翦に敗北し、楚王の負芻も秦に囚われたのです。
ちなみに、項燕の孫が西楚の覇王項羽なので、後に楚は復活し、秦を滅ぼしました。
戦国四君の春申君は、考烈王を助けた賢者でしたが、晩年は史記の司馬遷(しばせん)から老いたり、と批判されるほど失策が目立ったのです。
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呂不韋は秦の天下統一を妨げようとする春申君の合従軍を函谷関の戦いで負かしました
春申君は、楚の国力を頼みとして、秦を攻撃しましたが、結局呂不韋に敗北したのです。
そして秦攻撃の合従軍には、燕の英雄楽毅と共に斉を滅亡間近に追い込んだ、劇辛に勝利した趙の龐煖も参加していました。
劇辛は、龐煖を侮り、衰退していた燕を更に弱体化させてしまったのです。
また趙は、龐煖が頭角を現す前には、廉頗がおり、長平の戦いで弱くなった趙を率い、燕の大軍に勝ってもいました。
燕は楽毅が生きていた頃が、最盛期と言えるのではないでしょうか。
戦国四君の春申君は、劇辛(げきしん)を打ち負かした龐煖(ほうけん)と共に呂不韋軍と善戦しましたが、函谷関の戦いで敗れ、楚を衰えさせたのです。
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戦国四君の平原君が嚢中の錐で有名な毛遂の弁舌で考烈王と合従したため春申君は秦を追い払ったのです
春申君は、白起に大敗させられた楚を再び強国とし、味方の趙を救うために、秦を攻撃しました。
そして趙も、趙括が白起の策を見抜けず長平の戦いで大敗北していたので、平原君は楚と合従したのです。
また、趙の窮地には魏の信陵君も来ており、孟嘗君以外の戦国の四君が勢揃いして、秦に対抗しました。
秦は商鞅の法治で強国に変化したため、法治と戦国四君の戦いだった、とも述べられるでしょう。
ちなみに、後に趙高が、法治を悪用して秦を崩壊させたため、法治であれば上手くいくとは言えなさそうです。
戦国四君の春申君は、平原君(へいげんくん)の食客の毛遂(もうすい)の要請に応え、信陵君(しんりょうくん)と共に強国秦に勝利しました。
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虞卿の献策により楚の王族の悪影響を避けるために春申君は根拠地を楚の首都から遠ざけました
春申君は、考烈王の元で権力を振るっており、楚の王族から批判され易かったため、拠点を楚の都から離したのです。
そして、春申君に進言した虞卿は、魏斉が范雎から恨みを買っていた際に、身を挺して守ろうとしました。
范雎は、戦国四君の信陵君からも畏怖されるほどの宰相だったため、虞卿が何を大事にしていたかがハッキリ分かるでしょう。
また平原君も、魏斉を庇いましたが、強国秦の昭襄王から拘束される憂き目にも、遭いました。
戦国四君の春申君は、秦の宰相范雎に憎まれていた、友人の魏斉(ぎせい)を身を投げて保護した虞卿(ぐけい)の策で、楚の都から距離を置いた場所に拠点を持ったのです。
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まとめ:戦国四君の春申君(しゅんしんくん)の故事と三国志と老いたりな最後死亡と史実の昌平君
春申君が、どれくらい戦国四君な実力を発揮したかを、解説してきました。孟嘗君も生きていれば、戦国四君で秦を打倒出来たのではないでしょうか。
そして、楚の王族の昌文君が秦に残ることで、春申君が助かったことも説明していきます。春申君はその時すでに、楚の王族を凌駕する存在だったのでしょう。
また、春申君でも、呂不韋に勝つのは難しかったことも述べてきました。呂不韋もたくさんの食客を集め、戦国四君と競っていたため、呂不韋を入れると戦国五君と言えるかもしれません。
春申君が若い頃に、戦国四君と呼ばれるのにふさわしい働きで楚王を救出し、いつの間にか老いたりに突入していたのです。