三国志の苦労した残念な人物と言えば、王允でしょう。
王允は若い頃から、王を支えられるくらいの才能を有していると思われていました。曹操の我が子房な荀彧も、王佐の才と言われていたので、そういうイメージでしょう。
そして王允は、董卓という強大な悪と対峙していましたが、娘には絶世の美女貂蝉がいました。美人貂蝉を利用し、王允はどのように立ち回ったのでしょうか。
また王允は、董卓の暴政を打ち負かした後に、才能あふれる蔡邕も処刑したのです。なぜ、能力の高い蔡邕を罰しなければならなかったのでしょうか。
他にも王允が、乱世の奸雄曹操に宝剣をあげることで、董卓を負かそうとしたことも説明していきます。曹操は超世の傑と高評価なので、董卓くらい容易に斬ったのでしょうか。
三國志の王允を詳しく解説していきます!
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目次
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大王を補佐するのにふさわしいと高評価された王允
三国志の王允は、後漢の名士から、皇帝を助けるのに適切な才能を持っていると言われました。
王允は後に、董卓の専横の中でも生き残り、大志を遂げるので、評価が正しかったのでしょう。
そして王允は、悪な役人がいた際に適切に処罰しました。
ですがその悪な人物が力を有していたので、王允の上司が亡くなってしまったのです。
王允は自らの行いの責任を感じ、丁寧な喪を行いました。
また、王允は董卓が最後を迎えた後、残党達に厳罰を加えました。他人がためらうほどの正義を示せたわけですが、過ぎた正しさは身を亡ぼすのではないでしょうか。
王允は、王を援助可能なほどの能力の高さを持っていたのです。
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張角の黄巾の乱に内通していた十常侍張譲を非難した王允
三国志の王允は、後漢朝廷の正義のために、権力者の張譲の問題を追及しました。
十常侍の張譲はかつて、自分の黄巾の乱への関与を主張する人物を処刑しているのです。
ですので、王允の責めたても上手くごまかし、張譲は逆に王允に罪を擦り付けました。
そして十常侍張譲は、大将軍何進と敵対し、何進は董卓を都洛陽に招聘したのです。
結果的に張譲に最後を与えられましたが、何進もあえない最期を迎えました。
何進が亡くなった後に董卓が暴政を行っているので、何進も生きていたら、十常侍の方がマシな存在だったと考えたかもしれません。
王允は、専横な十常侍張譲を批判し、後の張譲退場に貢献したのです。
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王允は呂布を娘の美女貂蝉で味方としたことで董卓へ最期を与えられたのです
三国志の王允は、暴政を行う董卓を倒すために、飛将軍呂布を自らの娘の美人貂蝉で確保しました。
董卓はかつて呂布を獲得するために、李儒からの献策で、名馬の赤兎馬を呂布にあげたのです。
呂布は赤兎馬を得たので、義理の父親である丁原を討ちました・・・
呂布は今度は、王允から娘の美女貂蝉をもらったので、董卓を斬ったのです・・・
このような裏切りを繰り返していくと、呂布自身にもその責任が返って来るのではないでしょうか。
ちなみに李儒は董卓に、呂布に美人貂蝉を譲るべきと進言してはいます。王允の作戦勝ちと言えるかもしれません。
王允は、美人な娘貂蝉の美貌で呂布奉先をたらしこみ、悪な董卓を上手く排除しました。
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王允の娘貂蝉は古代中国四大美人なので絶世の美女でしょう
三国志の王允は、董卓を倒すために娘の貂蝉を使いましたが、貂蝉は絶世の美女と言うべき存在だったのです。
美女貂蝉がいなければ、王允が董卓から呂布を奪い、董卓を討つのは難しかったでしょう。
そして呂布は董卓を倒した後に、美人貂蝉と共に乱世を暴れ、黒山賊張燕を簡単に打ち負かしたので、人中の呂布馬中の赤兎と称されました。
呂布は、義理の父親であるはずの董卓を私利私欲で見限ったように、何度もメリットで裏切りを行ったので、逆に追い詰められたのです。
城に追い込まれた呂布は、最後のチャンスであるはずの軍事行動を、美女貂蝉から部下が裏切るかもしれない、と注意されて止めたので、自らも終わりが来ました。
王允の娘貂蝉は、勇者呂布の命運を左右するほどの絶世の美女だったのです。
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董卓から重用された蔡邕(さいよう)にも最後をあげた王允
三国志の王允は、董卓の悪政を一掃するため、董卓から支持されていた蔡邕も処罰しました。
蔡邕は、董卓に加担していたというよりも、董卓に無理に働かされていたのです。
ですが、王允は蔡邕をとにかく処刑することで、董卓一派を追い出すという強い決意を天下に示しました。
蔡邕は名声と能力を併せ持った人物だったため、王允への非難も増加したのです。
そして王允は、かなり高齢の董卓の母や年若い董卓の娘の董白も処刑しました。
王允の行動は、後漢朝廷の力がある時代であれば、支持された可能性はあるでしょう。
王允は、董卓の一族だけでなく、董卓一味と見なせる才人の蔡邕にも、最後をもたらしたのです。
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王允が董卓の残党に強い対応を取ったため李傕(りかく)と郭汜は賈詡(かく)の策で長安を攻めました
三国志の王允は、後漢の政治を正すために、董卓の勢力を根こそぎ処分しようとしたので、郭汜と李傕が攻撃して来たのです。
李傕と郭汜は、主君董卓が討たれたので、初めは王允の軍門に降ることを望んでいました。
しかし、王允が李傕と郭汜も処罰しようとしていると知り、王允を逆に倒したのです。
そして賈詡は、後に曹操の後継者問題を解消するほどの賢人なので、意味なく悪を行う人物ではないと言えます。
賈詡は、李傕と郭汜に味方したというよりも、2人に恩を売ると同時にその軍勢で長安を確保し、これ以上の戦を終わらせようとしたのでしょう。
王允は、董卓の後に董卓のような人物を出現させないために、強力な処罰を決行したのですが、逆に残党に敗れました。
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超世の傑曹操に七星宝刀を託すことで董卓を討とうとした王允の逸話
三国志の王允は、悪政を行う董卓に真正面からだと勝てないので、曹操に七星宝刀を預けたのです。
曹操はかなり前の先祖から後漢朝廷で、重用されている家柄なので、董卓の暴虐を憎んでいました。
曹操は董卓の腹心の呂布を自らの馬があまり良くないので、交換に探しに行かせることで、董卓を孤立させたのです。
董卓を七星宝刀で刺す千載一遇の好機が訪れたのですが、曹操が討とうとしたところ、七星宝刀が光り董卓に気付かれました。
曹操は董卓に、七星宝刀を献じるためだったと述べ、その場は誤魔化しましたが、すぐにバレ追われる身となったのです。
王允は乱世の奸雄曹操に、悪政な董卓を討ちたい思いを七星宝刀を渡すことで授けましたが、失敗しました。
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まとめ:三国志の王允子師(おういんしし)と絶世の美女な娘貂蝉に操られた呂布と董卓
三國志の王允が、美人貂蝉を上手く扱うことで、専横な董卓に勝利したことを解説してきました。
王允は若い頃から正義を行っていましたが、強力な悪には結局、策略を使うしかなかったのでしょう。
そして王允が、董卓の側にいた文化人蔡邕まで、苛烈に罰したことも説明しました。
もしかしたら王允には、董卓をやっつけることしか、見えていなかったのかもしれません。
また、王允が董卓の部下の李傕と郭汜に敗れたことも書きました。何かを行うには、それに伴う軍事力がなければ、成し遂げられないのでしょう。
王允は、志がありながら強大な悪に妨害された人物なので、感銘を受ける人も多いのではないでしょうか。