文醜!官渡の戦いぶんしゅう、関羽かゆう、顔良、じゅんいくも解説

三国志の文醜は、武神関羽に匹敵する武将でしょう。

文醜の武力は天下に轟いており、孔子の末裔の孔融からも畏怖されていました。孔融は後に曹操から処刑されていますが、文醜への評価も正しかったのでしょうか。

そして文醜は、汜水関の戦いで暴れ回った、華雄クラスの猛将だったのです。華雄は武神関羽に瞬殺されましたが、文醜は最後どうなったのでしょうか。

また文醜は、張良な荀彧から弱点を見抜かれていました。文醜は官渡の戦いの一大決戦で、弱点を克服出来たのでしょうか。

他にも、文醜と同等くらいの武勇の顔良のイケメンも、述べていきます。顔良がなぜイケメンか気になる人も必見でしょう。

三國志の文醜を詳しく解説していきます!

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文醜は孔子の子孫の孔融からも高評価でした

三国志の文醜は、曹操陣営の孔融から恐れられており、文醜との合戦を避けるべき、と主張していたのです。

文醜の主君袁紹と敵の曹操は、反董卓連合の際は、友好関係にあったのですが、今後の後漢の運営方針で対立しました。

そして袁紹は、北方の白馬将軍公孫瓚を破り大勢力となったので、曹操に簡単に勝てると考えていたのです。

対する曹操は、袁紹よりも小さい勢力ながらも、後漢の献帝劉協を確保しているので、権威な軍勢を繰り出せました。

ちなみに、袁紹にも後漢皇帝劉協を獲得するチャンスはありましたが、袁紹は無理には確保しなかったのです・・・

文醜は、孔子の末裔孔融文挙(こうゆうぶんきょ)から畏怖される武将であり、主君の袁紹は曹操に勝てるほどの大勢力を保有していました。

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汜水関の戦いの猛将華雄(かゆう)に匹敵していた文醜と顔良

三国志の文醜は、汜水関の戦いで、反董卓連合の猛将を立て続けに斬った華雄、と同じくらいの強さでしょう。

汜水関の戦いで、敵の華雄が活躍していたので、袁紹は文醜と顔良を連れて来るべきだった、と述べていました。

そして華雄は、結局劉備の義兄弟関羽に、一瞬で斬られたのです。

華雄は、鶏を斬るのになぜ牛刀を使うのか!?と主張していたのですが、牛刀とは呂布の武勇を指しています。

ちなみに呂布は、関羽と張飛と劉備が三人同時に攻撃してきても、跳ね返せるくらいの武勇を誇っていました。

四世三公の名門袁紹は、汜水関の戦いで華雄(かゆう)が怒涛の一騎打ちを見せたので、文醜の到来を望んだのです。

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文醜は界橋の戦い(かいきょうのたたかい)で易京の白馬将軍公孫瓚を追い詰め趙雲とも死闘を演じました

三国志の文醜は、主君袁紹のために、公孫瓚を打ち取る寸前にまで追い込んだのです。

公孫瓚は、選りすぐりの白馬軍団を持っており、周辺の異民族からも恐れられていました。

その公孫瓚を追い詰めた文醜は、白馬軍に匹敵する武勇とも言えるでしょう。

そして文醜は、後の五虎大将軍趙雲とも戦いました。

趙雲は長坂の戦いでも曹操軍の中に飛び込み、劉禅を救出した英雄です。

劉備が後に、蜀漢の皇帝に即位出来たのは、文醜クラスの武勇な趙雲がいたからでしょう。

界橋の戦いで文醜は、白馬将軍公孫瓚伯珪(こうそんさんはくけい)をかなり追い詰めましたが、英雄趙雲子龍(ちょううんしりゅう)に妨害されました。

⇒公孫瓚!白馬将軍、配下能力、易京、劉虞、袁紹呂布、劉備趙雲も解説

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文醜と顔良は曹操の軍師荀彧(じゅんいく)から蛮勇に過ぎないと述べられていたのです

三国志の文醜は、武勇に優れていましたが、曹操の参謀荀彧は欠点を見抜いていました。

荀彧は曹操から、漢の三傑張良に似ている、と言われていたほどの軍師です。

そして顔良は、官渡の戦いで味方とはぐれた際に、関羽に斬られました。

顔良は、文醜と同じくらいの武力とされていましたが、孤立したことで知力不足が露呈したのです。

また袁紹の軍師沮授は、顔良の知略不足に気付いており、単独行動の危険性を主張していました。

結局袁紹は、部下の欠点を言われても、上手く対策出来なかったのです。

顔良と文醜は、袁紹配下の猛将でしたが、曹操(そうそうもうとく)の張良子房(ちょうりょうしぼう)な荀彧から弱点を見破られ、官渡の戦いで関羽に討たれました。

⇒曹操の最後!死因すごさ、天才最期、息子劉備、関羽首、三国志も解説

文醜は顔良ほどのイケメンでないことでも有名です

三国志の文醜は、名前に醜いが入っているので、イケメンでないと言われています。

反対に顔良は、名前が顔が良いなため、イケメンとされているのです。

そして文醜と顔良が、所詮蛮勇であると見通していた曹操の軍師荀彧は、イケメンと伝わっています。

禰衡は、曹操の部下たちも非難し続けていたのですが、荀彧を弔問が最適と述べました。

つまり荀彧は、弔問にふさわしいほど外見のクオリティが高い、と評価しているということです。

文醜は、名前でイケメンでないと述べられていますが、顔良(がんりょう)は名前から荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)は禰衡(ねいこう)の発言からイケメンとされています。

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官渡の戦いで軍需物資の略奪に気を取られ関羽に斬られた文醜

三国志の文醜は、敵の軍需物資を確保することで、軍勢が分散してしまい関羽に簡単に討たれたのです。

曹操の軍師は、文醜の武勇は警戒すべきだが、知略には乏しいことに気付いていました。

文醜は、戦での目先の利益にこだわって、武勇が上手く発揮出来なくなってしまったのです。

そもそも文醜は、顔良の雪辱のために出撃していました。ただの怒りでは、戦に良い影響は無いのでしょう。

ちなみに、関羽の義兄弟劉備も、関羽が孫権軍に討たれた際に復讐戦を行い、夷陵の戦いで大敗したのです。

文醜は、全体の利益を見通せず関羽雲長(かんううんちょう)に斬られ、顔良の敵討ちを果たせなかっただけでなく、主君袁紹本初(えんしょうほんしょ)が官渡の戦いで敗北する要因となってしまいました。

⇒がんりょう!顔良最強能力、ぶんしゅう、関羽かゆう、イケメンも解説

袁紹の息子袁尚は文醜と同様に曹操の策で討たれました

三国志の文醜の主君袁紹の子供袁尚は、官渡の戦いで敗れたので、曹操に対抗するために、遼東の公孫康を利用しようと企んだのです。

公孫康は遼東付近で、中国の中央から独立した勢力圏を持っていました。

そして公孫康は、初めは袁紹の子供袁尚を厚遇していたのですが、曹操に攻撃を受ける危険性に気付いたのです。

袁尚も、公孫康と連携するのではなく、公孫康の軍勢を奪おうと目論んでいました。

公孫康は、袁尚を不意打ちにし首を曹操に送ることで、遼東支配を確固たるものとしたのです。

官渡の戦いで、文醜の主君袁紹の息子袁尚も追い込まれ、再起を賭け遼東の公孫康の元を訪れましたが、逆に討たれました。

⇒公孫淵!能力、乱滅亡、燕王、遼東、日本卑弥呼、孫権、司馬懿も解説

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まとめ:三国志の最強な能力の文醜(ぶんしゅう)と官渡の戦いの関羽

三國志の文醜が、どのような武将で、どのような末路だったかを解説してきました。文醜に有能な軍師が付いていれば、異なる末路だったのではないでしょうか。

そして文醜が、公孫瓚との戦でも活躍したことを説明してきました。公孫瓚を打ち取れなかったのが、文醜の武勇の限界とも言えるでしょう。

また、文醜が官渡の戦い以前に、曹操の軍師荀彧から欠点を指摘されていたことも、記載してきました。

やはり、文醜の袁紹陣営よりも、曹操の配下武将の能力の方が高かったのでしょうか。

他にも、文醜の主君袁紹の子供袁尚に、あえない最後が来たことも語ってきました。官渡の戦いで曹操に敗れているので、何をやっても駄目なのでしょう。

文醜は顔良と並び評された武人ですが、官渡の戦いで策を見抜けなかった、知略不足の武将でもあるのです。

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