三国志の呂布奉先の軍師と言えば、陳宮でしょう。
かつて陳宮は、曹操を救ったことがあります。ドラマチックな運命的な出会いだったのでしょうか。
そして、曹操の冷酷な性格に嫌気が差した陳宮は、呂布たちを味方として曹操と戦を始めました。曹操なら簡単に、陳宮に勝てたのでしょうか。
また陳宮は、知略能力に長けていることが、知られています。呂布の参謀に陳宮がなれば、連戦連勝なのでしょうか。
賢人な陳宮も、欠点があったのです。その欠点のせいで、呂布軍の起死回生の策が、発動出来ない事態に陥りました。
有能な軍師は、どのような際も策が出せるようにすべきでしょう。
三國志の陳宮を詳しく解説していきます!
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英雄曹操の志を評価して助けた陳宮
三国志の陳宮は、専横な董卓に返り討ちに遭った曹操を援助し、逃亡に協力しました。
- 冷酷な性格の曹操に見切りを付けた陳宮
- 陳宮と曹操の奇妙な関係と最期
曹操は、宝剣の七星宝刀で、董卓を殺害しようとしたわけですが、董卓も手練れなため、バレたのです。
そして、曹操と陳宮は、曹操の知人の呂伯奢の元にたどり着きました。
ですが、呂伯奢の言動が怪しかったため、先手必勝で呂伯奢たちに最後を与えたのです。
しかし、曹操と陳宮の勘違いだった可能性が高い、とされています。
ちなみに、曹操は宝剣として、倚天の剣と青釭の剣も、保持していたのです。
曹操クラスの英雄になるためには、伝説の剣を何本も持っているべきなのでしょう。
陳宮は、超世の傑曹操孟徳の大志に感じ入り、董卓から逃げ切る手伝いをしました。
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冷酷な性格の曹操に見切りを付けた陳宮
三国志の陳宮は、一旦は曹操に味方しましたが、呂伯奢とのやり取りでの残酷な曹操の性格に失望し、離れていきました。
曹操は疑心暗鬼に陥り呂伯奢を倒すことで、平穏を得たわけですが、私が天下を裏切っても天下の人に私を裏切らせはしない、という風に述べたのです。
身勝手な発言と言えますが、曹操が後に超世の傑と評価されたことを考えると、何か大きい考えを持っているようにも取れるでしょう。
そして、陳宮は曹操の危険性に気付いたため、曹操が寝ている間に暗殺しようとしました。
ですが、陳宮は曹操をかなり大きいと感じたからか、陳宮は己が卑怯だと感じたからなのか、曹操を暗殺しなかったのです。
陳宮は、呂伯奢(りょはくしゃ)の事件で、曹操の冷酷で残酷な性格を垣間見たので、斬ろうとしましたが、結局見逃しました。
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陳宮と曹操の奇妙な関係と最期
三国志の陳宮は、曹操を見限り戦い続けたのですが、曹操は陳宮を味方としたい、と考えていました。
曹操はかつての友諠を重んじる人物で、陳宮が曹操に敗れた際も、陳宮を生かしておきたかったのです。
そして曹操は最後の問答で、陳宮に負けた理由を追求しました。
陳宮は自分は正しいことを考えたが、主君の呂布が聞かなかったから、という風に述べたのです。
陳宮は自分の役割を終えたと思ったのか、曹操に家族を託して処刑されました。
能力の高い軍師で陳宮のように、残念な末路となった者も多いです。主君選びも、策の内とすべきでしょう。
陳宮は、曹操のように世直しを志しましたが、性格の不一致から対立し、結局は最後を迎えたのです。
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張邈と呂布を味方として曹操に対抗した陳宮
三国志の陳宮は、曹操の親友で名士の張邈と飛将軍呂布奉先と共に、曹操と戦いました。
そもそも張邈は曹操と親しかったのですが、呂布を評価したために、呂布と不和な袁紹に嫌われ、袁紹と懇意な曹操とも仲が悪くなっていったのです。
張邈は曹操からの身の危険を感じていたことと、曹操に対抗するチャンスを感じ取ったため、陳宮呂布と共に曹操を倒そうとしました。
張邈たちは、かなり曹操を追い詰めたのですが、曹操には優秀な部下が揃っていたため、攻めきれなかったのです。
曹操からやり返され、張邈は上手く逃げ切れず、最後が訪れました。
張邈孟卓(ちょうばくもうたく)は、呂布奉先陳宮と一緒に曹操を見限って対立しましたが、結局最期が来たのです。
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飛将呂布を主君とした陳宮と取られた劉備
三国志の陳宮は、武勇に秀でた赤兎馬の呂布奉先と共に、乱世を駆け抜けました。
- 名門袁術と飛将呂布を協力させたい陳宮の能力
- 陳宮と高順の仲が良くなかったための最後
ですが、呂布は裏切りで自己愛にあふれた人物なので、陳宮の進言をあまり聞かないのです。
仁義な劉備の部下張飛の油断に付け込んで、劉備の領域を奪いました。
元々は劉備のところに転がり込んだわけですが、陳宮たちは、劉備に小さい領域を守らせたのです。
劉備は、不満を述べるどころか、むしろ甘んじて受けました。
劉備は漢帝室再興を掲げていたため、自分自身が呂布の元で恥をかくのも、いとわなかったのでしょう。
結局劉備は最後の方で、蜀漢の初代皇帝に就任したのです。
陳宮は呂布と共に、劉備の元に訪れましたが、逆に領土を乗っ取りました。
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名門袁術と飛将呂布を協力させたい陳宮の能力
三国志の陳宮は、呂布奉先と袁術を同盟させることで、曹操や他の勢力に対抗しようとしました。
呂布は一旦は、袁術と婚姻同盟となりそうになりましたが、呂布たちの強大化を恐れる曹操陣営の陳珪に、妨害されたのです。
曹操は呂布に、地位を与えることで手懐けて、袁術との同盟を破談させました。
呂布は、目先の利益を追い求めて裏切りを繰り返したので、ここでも悪い癖が出たのでしょう。
陳宮は確かに良い話を見つけるのですが、呂布を上手く動かす能力は無かったのです。
呂布は、人材収集家の曹操すら持て余す武将なため、陳宮では操れなかったのでしょうか。
陳宮は、袁術と呂布を結び付けて大勢力になろうとしましたが、曹操の策略に邪魔されました。
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陳宮と高順の仲が良くなかったための最後
三国志の陳宮は、高順と気が合わないので、起死回生の作戦を行えずに、最期となりました。
陳宮と呂布と高順は、下邳城に追い込まれた際に、城の内と外で二手に分かれ、一発逆転を模索したのです。
ですが、陳宮と高順がいがみ合っていたので、呂布の妻や美女貂蝉(ちょうせん)が、二手に分かれる作戦を批判しました。
陳宮は策を使う以前に、人との対応に問題があったということでしょう。
陳宮は、後世では偉大とされる曹操とも、性格の相性が良くなかったので、結構選り好みの大きい人物だったのでしょうか。
陳宮は、高順との相性の悪さから、呂布や他の美人からも危惧され、どんでん返しの動きが出来ませんでした。
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まとめ:三国志の陳宮公台(ちんきゅうこうだい)
三國志の陳宮がどれくらいの能力で、どのような最期だったかを解説してきました。たとえ知略に優れていても人間関係に通じていなければ、能力は出せないのでしょう。
曹操は超世の傑と評価されているので、陳宮たちに最終的には勝利しました。曹操と戦う事自体が、無謀なのでしょうか。
そして陳宮が、武勇に長けていて裏切りな性格の呂布に付いたことも、語りました。陳宮なら、他の主君も選び放題だったのではないでしょうか。
陳宮は真面目な賢人と言えるため、呂布をどこか放っておけない、と思ったのかもしれません。
賢人な陳宮も、高順とは特に、上手くいかなかったことも書きました。重大な欠点を抱えていると、土壇場で破裂するものなのでしょうか。
陳宮は、能力が高く賢いにも関わらず、なぜか実力が発揮し難かった偉人なので、その理由を考えてみるべきでしょう。