三国志の黄祖は、江東の虎孫堅に、落石で最後を与えたことで有名です。
孫堅は、江東の虎と称されるほどの名将でしたが、黄祖の落石攻撃に敗れました。黄祖は孫堅に勝利した勢いで、どんどん登り詰めたのでしょうか。
そして黄祖が、乱世の奸雄曹操すら批判で圧倒した、禰衡に激怒したことも説明していきます。黄祖が大人物になりきれなかったのは、禰衡処刑に表れているのかもしれません。
また黄祖は、名将甘寧への対処を誤ったせいで、災難を呼び込みました。甘寧は張遼と並び評される武将なので、黄祖は人を見る目が無かったのでしょう。
他にも、黄祖と江東の小覇王孫策のバトルも、述べていきます。孫策は覇王項羽な覇気で、黄祖に簡単に勝ったのでしょうか。
三國志の黄祖を詳しく解説していきます!
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目次
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江東の虎孫堅は荊州八俊の劉表軍に一旦勝利しましたが黄祖の落石で最後を迎えました
三国志の黄祖は、主君の劉表が孫堅に敗れても諦めず、巧みに伏兵を操り落石で勝ったのです。
そもそも孫堅は、虎牢関の戦い後に、伝国の玉璽を見つけたと伝わっており、玉璽により袁紹から狙われていました。
そして、四世三公の名家袁紹は、荊州の劉表に孫堅を攻めさせたのです。
孫堅が黄祖に敗れたのは、玉璽の災いに飲み込まれたためとも言えるでしょう。
ちなみに、虎牢関の戦いでは、飛将軍呂布と関羽張飛劉備の三人が、同時に一騎打ちしたと言われています。
荊州の劉表景升(りゅうひょうけいしょう)の部下の黄祖は、呂布に勝利したこともある孫堅文台(そんけんぶんだい)を伏兵で追い詰め、落石で最期を与えました。
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孫策の兄弟の孫権に黄祖は敗北しましたが部下の甘寧が活躍したのです
三国志の黄祖は、孫堅の仇敵なため息子の孫権からも攻撃されましたが、甘寧が奮闘しました。
甘寧は勇猛だったので、孫権配下の凌操に最後を与え、黄祖を助けたのです。
ですが、黄祖は甘寧を厚遇しなかったため、甘寧は孫権に鞍替えしました。
そして甘寧は後に、合肥の戦いの張遼と比肩し、魏に張遼がいるのなら呉には甘寧がいる、とまで評価されたのです。
魏の曹操も呉の孫権も、人材を厚遇していたからこそ、張遼や甘寧が集まり貢献してくれたのでしょう。
黄祖は、孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)の部下凌操を甘寧が打ち取ったにも関わらず、甘寧興覇(かんねいこうは)を軽んじたため、後の災いを招きました。
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禰衡は批判癖で曹操からも嫌われていましたが黄祖からはとうとう最後を送られました
三国志の黄祖は、禰衡が息子の黄射から好印象だったため、禰衡を高評価していましたが、批判癖がひどすぎたので、最期を与えたのです。
禰衡は、乱世の奸雄曹操の元でも、有能な曹操の部下たちを酷評し続けていました。
また曹操は、太鼓芸で禰衡を辱めようとしたのですが、失敗した際も堂々と太鼓打ちを行ったため、逆に曹操が出し抜かれたのです。
超世の傑曹操は、禰衡の態度を憎悪していましたが、自分で処刑すると悪名が立つので、黄祖の主君劉表の元に禰衡を届けました。
黄祖は、禰衡正平(でいこうせいへい)を歓迎していたのですが、禰衡が非難を繰り返したため、曹操孟徳(そうそうもうとく)の思惑通り最後をあげてしまったのです。
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黄祖は江東の虎孫堅に勝ち小覇王孫策に対抗出来たので過小評価すべきではないでしょう
三国志の黄祖は、勇将な孫堅と孫策に渡り合った武将なため、過小評価しないように気を付けるべきです。
小覇王孫策は、江東周辺を凄まじいスピードで獲得しましたが、荊州は黄祖がいたためなかなか得られませんでした。
そして劉備の軍師諸葛亮は、天下三分の計で、劉備に荊州を領有させたがっていたのです。
黄祖が荊州で頑張っていなかった場合、江東の孫氏がもっと早く荊州を確保し、諸葛亮の計略がまったく成立しなかった可能性もあるでしょう。
黄祖は、勇猛な孫堅に落石で勝利し、江東の小覇王孫策伯符(そんさくはくふ)に抵抗出来、孫権の勢力拡大を阻んでいたため、過小評価してはならないと言えます。
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黄祖には一族に定軍山の戦いで夏侯淵を斬った五虎大将軍の黄忠もいます
三国志の黄祖には、同族に黄忠がおり、黄忠は猛将夏侯淵に勝ったほどの名将だったのです。
黄忠は、元は劉備の敵で、劉備の義兄弟関羽と一騎打ちをして、互角だったほどの武人でした。
そして黄忠は、主君韓玄が劉備の軍門に下り、勇猛だったこともあり五虎大将軍に就任したのです。
五虎大将軍には、黄忠以外にも、関羽と張飛と趙雲と馬超がいます。
また黄忠は、劉備と曹操の一大決戦の定軍山の戦いにも出陣し、見事に曹操の腹心夏侯淵を討ちました。
ちなみに、定軍山の戦いでは、黄忠の軍師法正の方を高評価する意見も多いです。
黄祖の一族黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)は、五虎大将軍の一人に名を連ねるほどの武将で、定軍山の戦いでも活躍しました。
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甘寧は主君孫権の恨みを晴らすためにかつての主君黄祖に最後をあげたのです
三国志の黄祖は、名将甘寧を厚遇出来なかったため、孫権の部下として現れた甘寧に敗北しました。
黄祖が昔、江東の虎孫堅を討ったことが、大きく報いとなって返って来たのでしょう。
そして、黄祖は他にも、後に武神関羽を確保する呂蒙軍にも敗れていました。
呂蒙は武勇一辺倒で、呉下の阿蒙と揶揄されていましたが、勉強をし続けることで、名将に変化した人物です。
また、孫氏一族は、黄祖が仇敵であることで、自軍の武将たちが活躍する場として、利用することも出来たのではないでしょうか。
黄祖は、甘寧を失ったことで、孫堅の仇討ちを行いたい孫権の勇猛な部下たちに、対抗出来なくなり、命まで無くしてしまいました。
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江東の小覇王孫策は父孫堅の仇敵黄祖を圧倒していました
三国志の黄祖は、江東の虎孫堅に落石で最後を与えていたので、子供の孫策から執拗に狙われていたのです。
孫策は、小覇王と呼ばれるほど覇王項羽に似ており、武勇で江東を席巻していました。
しかし孫策は、急激に勢力を拡大させ、江東の頭目をどんどん打ち取ったので、大きな恨みも買っていたのです。
そして曹操の軍師郭嘉は、孫策の異常な勢力伸長から、暗殺を招き、最後が来ることを予測しました。
また孫策は、于吉仙人とも戦っており、于吉を斬ったことで妖術で、死に導かれたとも言われています。
黄祖は、孫策から苛烈に攻められましたが、持ちこたえることで、江東の小覇王を暗殺に追い込めました。
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まとめ:三国志の黄祖(こうそ)の能力過小評価と甘寧と孫堅孫策の死因
三國志の黄祖が、過小評価すべきではないほどに、勇将と対抗出来ていることを解説してきました。
黄祖が、曹操の部下に加わっていたら、黄祖が荊州を統治出来たのではないでしょうか。
そして黄祖が、江東の小覇王孫策に猛攻されながらも、防御し続けたことも説明してきました。乱世で生き残る武将は、しぶとく忍耐強い人物なのかもしれません。
また黄祖が、甘寧の才能を正当に評価していなかったことも、述べてきました。反対に、劉備はわざわざ諸葛亮の元に三度も訪れているため、人物採用がどれほど結果を変えるかを示しているでしょう。
黄祖は、江東の虎孫堅や小覇王孫策に匹敵すると言える、大人物ではないでしょうか。