三国志の呉の大皇帝孫権の兄孫策は、覇王項羽に似ていたので江東の小覇王と言われていましたが、項羽はどのような偉人だったのでしょうか。
まずは、劉邦と項羽が戦った時代と、三国志の時代の時系列を、把握しておくと分かりやすいでしょう。
三国志の後漢皇帝は献帝劉協ですから、どちらが先かは書かずとも、自明ではないでしょうか。
そして、呂布と項羽の最強具合が近かったことも、説明していきます。呂布は、曹操も最後を与えることを惜しんだほどの勇将です。
また、覇王項羽が小覇王孫策と性格面で似ていたことも、記載していきます。性格が近いからこそ、孫策は小覇王と評価されていたのかもしれません。
項羽と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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項羽と劉邦の楚漢戦争は時系列では三国志の400年ほど前の出来事です
覇王項羽と前漢の初代皇帝高祖劉邦は、三国志の乱世の400年ほど昔に活躍していました。
当初は、項羽が始皇帝の後の秦国を滅亡させ、項王に就任し、劉邦も項羽の部下として漢王の地位を与えられる存在だったのです。
しかし項羽は、自分のお気に入りかどうかで秦滅亡後の論功行賞を行ったので、本当は戦果を上げていた者たちが不満を抱きました。
そして、項羽への不満を上手く利用したのが、劉邦だったのです。
劉邦は、武力で項羽に勝つのは容易でないと知っていたので、項羽の部下を段々と鞍替えさせる作戦を展開しました。
三国志の英雄の曹操孟徳(そうそうもうとく)や劉備玄徳(りゅうびげんとく)が現れる400年ほど昔には、前漢の初代皇帝高祖劉邦と覇王項羽の激しい楚漢戦争もあったのです。
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三国志の龐統が益州の劉璋を斬ろうとしたように軍師范増は覇王項羽のために劉邦に最後を送ろうとしました
劉邦は覇王項羽に先んじて秦を滅亡させ、項羽に無断で裁断を始めたので、劉邦は鴻門の会で弁明したのです。
そもそも項羽と劉邦の主君の義帝が、先に漢中に入り秦を滅ぼした者を王とする、と述べていました。
義帝の考え方を踏まえると、劉邦が項羽に従うべきなのですが、覇王項羽は義帝だけでなく劉邦のことも部下のように考えていたのです。
そして三国志の世界でも、劉備が益州を獲得しようとした際に、鳳雛龐統が魏延を利用して、益州の君主劉璋を討とうとしました。
鴻門の会で劉邦は、覇王項羽の軍師范増から警戒され斬られそうになりましたが、三国志の益州の劉璋が鳳雛龐統の魔の手から逃れられたように、セーフだったのです。
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西楚の覇王項羽と三国志の飛将軍呂布は最強レベルが同じくらいだったのです
覇王項羽は、前漢の三傑のひとり国士無双韓信から、凄まじい威圧力があると評価されていました。
呂布は、虎牢関の戦いで、武勇に優れた関羽と張飛だけでなく劉備と戦っても、破れないほどの最強さがあったのです。
そして項羽は、戦の実力から西楚の覇王と言われており、呂布も優れた軍事的な才覚から、前漢の李広と同じく飛将軍と称されていました。
また呂布は、自己愛から義理の父親の董卓を裏切っており、覇王項羽も重要な論功行賞で自らとの関係性を重視していたのです。
武勇に優れていると、他を度外視しても成立する、と考えてしまうのでしょうか・・・
三国志の飛将軍呂布は、西楚の覇王項羽クラスの最強な武勇を持っており、自己利益を重視な性格も項羽と似ていました。
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三国志の孫策は西楚の覇王項羽と迫力が似ていたので江東の小覇王と評価されていたのです
項羽は、連戦連勝な大将軍だったので覇王と称され、孫策も江東で連戦連勝だったため、項羽の再来として、小覇王と称されていました。
そして、項羽が西楚の覇王を名乗った際に、秦を率先して滅ぼしたので、皆が項羽の覇王就任を称賛していたのです。
しかし孫策は、中国全体の江東を掌握したに過ぎない際に、許貢から警戒され、覇王項羽に近いと述べられてしまいました。
孫策が覇王ではなく、小覇王とされているのは、項羽になりきれていないためなのです。
三国志の孫策伯符(そんさくはくふ)は、項羽に似ていると言われていましたが、覇王項羽ほどの最強さではなかったので、江東の小覇王の称号が災いを招きました。
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江東の小覇王な三国志の孫策は覇王項羽と性格面も似ていました
西楚の覇王項羽は、宋義を急に斬り軍を掌握するほどの苛烈な性格だったので、孫策が仙人于吉への信仰を止めさせるためにすぐに斬るほど激しい性格だったことと、共通していると言えるでしょう。
宋義は、項羽の主君義帝からも信任されていたので、秦との戦を悠長に構えていました。
しかし項羽は、今この瞬間に秦を攻めてこそ、勝機が見出せると考えていたのです。
また、兵士たちが苦しんでいるにも関わらず、宋義は息子のために大宴会を行ったため、項羽は即座に宋義を討ちました。
そして小覇王孫策は、于吉信仰を警戒しており、周りの反対を無視して于吉を処刑したのです。
覇王項羽は、正しいと考えたことを誰にも相談せずに行う過激な性格を有しており、江東の小覇王孫策が周りの反対を押し切って仙人于吉に最後を与えた過激な内面とも、近しいでしょう。
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後漢の皇帝献帝劉協が三国志の曹操の傀儡だったように覇王項羽は義帝を利用していたのです
三国志の乱世の奸雄曹操は、周の文王のように最後まで献帝劉協に仕えましたが、覇王項羽は義帝に最期を与えてしまいました。
そもそも秦の圧政に抵抗していたのは、陳勝呉広の乱なのです。
しかし陳勝たちは、かつての王族の力を味方に付けなかったため、反乱は失敗しました。
覇王項羽の軍師の范増は、楚の王族の子孫である羋心を担ぎ出すことで、秦を倒す軍を一気に強大化させたのです。
項羽は、楚の王族の力で秦を滅亡させたにも関わらず、自分が好きに振る舞うために、義帝羋心を始末しました。
覇王項羽は、秦を滅亡させて不要になったと感じたため、曹操が献帝劉協を重用したのと反対に、義帝に最後を与えましたが、劉邦たちに強く攻撃される理由も作り出してしまったのです。
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四面楚歌となった西楚の覇王項羽のように三国志の四世三公の名門袁術は仲王朝を建国し孤立しました
覇王項羽は、戦に勝利するだけで長期的な展望がなかったため、周りから故郷の楚の歌が聞こえて来るまでに、追い詰められたのです。
楚の歌が大きく聞こえて来たので項羽は、味方のはずの楚の人々が漢に鞍替えした、と考えました。
そして三国志の袁術も、覇王項羽が将軍の家柄であることに固執して、四面楚歌に陥ってしまったように、名家の驕りで皇帝に即位し後漢の武将たちを敵としてしまったのです。
後漢朝廷は、権威が失墜していたとはいえ、献帝劉協に忠誠を誓う者もおり、袁術程度の実力では献帝に成り代われない、と思う意見が多数でした。
三国志の袁術は、覇王項羽が名門の驕りで四面楚歌となり没落したように、傲慢な皇帝就任が袁術滅亡の要因となってしまったのです。
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まとめ:項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)と三国志時系列と最強能力な項王の性格
西楚の覇王項羽の時代と三國志の時代が、どれくらい似ていたかを解説してきました。
項羽が三国志の時代に舞い降りていたら、超世の傑曹操を瞬殺していたかもしれません。
そして、覇王項羽クラスと称された江東の小覇王孫策の逸話も、説明してきました。孫策が楚漢戦争にタイムスリップしていたら、項羽の天下が継続したのではないでしょうか。
また、項羽が乱世の奸雄曹操のようには、皇帝を利用出来なかったことも述べてきました。武力が高いだけでは、天下を経営するのは難しいのでしょう。
項羽は、最強な異名西楚の覇王を名乗っていたので、三国志の有能な将軍が好きな人も、好める人物ではないでしょうか。