三国志の後漢の最後の皇帝献帝劉協は、乱世の奸雄曹操に翻弄されていましたが、秦の二世皇帝胡亥は趙高に操られていたのです。
秦の始皇帝は胡亥を気に入っていたため、巡幸でも一緒だったのですが、裏目に出ました。扶蘇を随行させていれば、秦帝国は安泰だったのではないでしょうか。
そして、胡亥の皇帝即位に尽力した趙高は、母親のせいで宦官だったのです。趙高が心理的に屈折していたからこそ、秦で法の悪政を行ってしまったのでしょうか。
また、秦では長らく法治だったのですが、胡亥は失政により、変更しなければならなかったのです。章邯は元囚人の軍勢で、反乱に対処し一定の成果を獲得しました。
胡亥と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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始皇帝は胡亥を可愛がっていたため丞相李斯と趙高と共に巡幸に連れて行きました
胡亥は、始皇帝の子供の中でも寵愛が深かったので、巡幸のお供を許されていたのです。
そして始皇帝にも最後が近付き、扶蘇を後継者とする遺言状が、作成されました。
ですが、趙高は悪知恵を働かせ、李斯を抱き込み、胡亥を二世皇帝にする策を展開したのです。
また扶蘇は賢い人物でしたが、始皇帝を敬い過ぎており、胡亥と李斯と趙高の策謀を見抜けず、最後に追い込まれました。
ちなみに、扶蘇の元にいた蒙恬は、扶蘇に届いた始皇帝の命令を疑い、再確認すべきと主張してはいたのです。
二世皇帝胡亥は、秦の始皇帝の息子の中でも重用されていたため、本当の後継者扶蘇(ふそ)に最期を与えるチャンスがありました。
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趙高は母親が罪を被り宦官とさせられましたが胡亥の後ろ盾となり二世皇帝即位に貢献しました
胡亥は、扶蘇を出し抜いて始皇帝の後継者となりましたが、趙高の強力な支持があったのです。
趙高が、万里の長城建造で知られる蒙恬や、他の秦の有力者をスムーズに始末したからこそ、胡亥は二世皇帝に就任出来たと言えます。
ただ、あまりにも胡亥と趙高は、処罰をし過ぎたため、秦の内部の敵対勢力が減少し、最終的に趙高が胡亥に最後を送る事態に突入しました。
そして死ぬ間際に胡亥は、皇帝を引退し庶民になれれば充分だ、とまで主張していたのです。
しかし趙高は、胡亥の助命を許さなかったため、胡亥は人を見る目が曇っていたと言えるでしょう。
二世皇帝胡亥は、宦官趙高(ちょうこう)がいたからこそ扶蘇に後継者争いで勝てましたが、趙高の手法のせいで、無残な最期となったのです。
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趙高はかつて蒙毅から厳罰を与えられそうになったので胡亥を操り蒙恬と一緒に最後に追い詰めました
胡亥は、蒙毅が二世皇帝就任を邪魔していたと信じていたため、蒙恬と蒙毅を激しく糾弾したのです。
そもそも趙高は、罪を犯してしまった際に、蒙毅から死罪にさせられそうになったので、憎んでいました。
そして、蒙毅が胡亥の皇帝即位を妨害していたというのも、趙高が蒙毅を排除するための口実、に過ぎなかったのではないでしょうか。
また丞相李斯も、胡亥と趙高の悪から逃れることが出来ず、趙高の悪事を厳しく批判したために、逆に残酷な刑罰を受けてしまったのです。
二世皇帝の胡亥は、趙高の蒙毅(もうき)への恨みを晴らす処罰に利用され、有能な蒙恬(もうてん)と蒙毅にも最後を与えてしまいました。
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陳勝呉広の乱が起きてしまったので胡亥は法治を改変し章邯に大軍を与えたのです
胡亥は、政治の乱れで陳勝呉広の大反乱が発生したため、商鞅の変法以来の法治を変更し、章邯に元囚人の大部隊を提供しました。
しかも陳勝呉広の乱では、難攻不落と言われていた函谷関まで周文に攻略されてしまい、秦の滅亡が迫っていたのです。
そして章邯は、周文を倒すだけでなく、西楚の覇王項羽の叔父項梁にまで勝利しました。
ですが、秦の悪政により章邯は進退窮まり、結局項羽に降伏し、三秦となったのです。
胡亥は、趙高の謀略で二世皇帝に就任したに過ぎなかったため、陳勝呉広の乱に対処しきれず、法治を無理に変え章邯(しょうかん)に鎮圧させましたが、章邯も西楚の覇王項羽(こうう)に鞍替えしてしまいました。
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趙高と二世皇帝胡亥の悪政により秦の領土が縮小したため子嬰は秦王に就任しました
胡亥は、趙高に操られていることに気付かず、たくさんの賢者を粛清してしまったので、秦は天下統一しているとは言い難い状態になったのです。
そして趙高は、胡亥から失政の責任追及が行われることを恐れ、先手を打ち胡亥を斬りました。
子嬰は、趙高が悪心であると考えていたため、わざと趙高を出向かさせ、最後を送ったのです。
また、項羽が秦に突入して来た際、子嬰は降伏したのですが、項羽は秦に恨みを持っていたので、一族共々斬られました。
胡亥は、始皇帝には及ばない人物で、趙高に利用され秦の領土を減らしてしまったので、子嬰(しえい)は秦王とさせられましたが、趙高を葬ることには成功したのです。
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秦を滅ぼす胡を始皇帝は匈奴だと考えていましたが結局二世皇帝胡亥のことだったのです
胡亥は、秦の滅亡の要因でしたが、始皇帝は胡が秦に災難をもたらすと聞いた際に、匈奴のことだと見なしていました。
秦の始皇帝は、部下の蒙恬に命じ匈奴を討伐させ、蒙恬は万里の長城を整備して匈奴対策を入念に行ったのです。
そして、秦の混乱と楚漢戦争の動乱で、匈奴が放置されたため、とうとう匈奴には冒頓単于が現れました。
冒頓単于は、楚漢戦争を制した前漢の初代皇帝高祖劉邦を、白登山の戦いで圧倒したのです。
結局始皇帝は、本当の胡を倒せず、匈奴にもとどめを刺せていませんでした。
胡亥は二世皇帝でしたが、秦を大きく弱体化させてしまい、始皇帝が聞いていた、胡が秦に悪影響をもたらすという予言通りになってしまったのです。
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始皇帝の一族の子嬰は蒙恬や蒙毅が胡亥と趙高から責められた際に守ろうとしました
胡亥は、二世皇帝の地位に固執していたので、蒙恬や蒙毅がいなくなり秦が危うくなることが、分からなかったのです。
そして趙は、何度も秦に戦で勝利したことがあったのですが、名将李牧がいたからでした。
しかし趙王は、李牧が自らの地位を脅かす存在であると見なし、処刑したため、趙は一気に滅亡してしまったのです。
また趙の郭開は、秦の趙高と同様に人を陥れることに長けており、完璧の藺相如と並び評された廉頗将軍も、郭開の被害者でした。
二世皇帝胡亥は目先の利益を重視し、趙高の話に惑わされ、賢者子嬰の話を聞き入れず、かつての趙のように名将蒙恬と蒙毅を失い、秦を著しく衰退させたのです。
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まとめ:始皇帝の息子胡亥(こがい)の能力と三国志と趙高母親と子嬰で秦領土最後
胡亥が、趙高と共にどのような悪事を行ったかを、解説してきました。趙高自身も長期的な展望が欠けていたので、結局は悲惨な末路だったため、悪は控えるべきなのでしょう。
そして、趙高は私憤を晴らすために、胡亥を利用したことも説明してきました。胡亥がもっと賢ければ、趙高を正せたかもしれません。
また、子嬰は胡亥が秦を衰退させたせいで、皇帝になれなかったことも述べてきました。一度天下を統一しても、逆戻りしてしまうなら、無理に統一しない方が、秦を長続きさせられたのではないでしょうか。
胡亥は、趙高の巧みな謀略で二世皇帝になれましたが、能力が伴っていなかったため、秦の領土を大きく失わせた暗君と言えるでしょう。