三国志の天才軍師諸葛亮は、劉禅に法家思想の韓非子を献上しました。
韓非子は、商鞅と申不害と慎到の思想のコラボレーションを、模索していたのです。3人共、法律家にとっても重大な人物なので、法曹業界志望の人も要チェックでしょう。
そして韓非子は、性悪説荀子の門下でしたが、吃音でも知られていました。吃音であることで、韓非子は悪影響しかなかったのでしょうか。
また韓非子は、同じ法家の丞相李斯と対立してしまいました。秦の始皇帝は、李斯と全く同じ考えだったのでしょうか。
他にも、韓非子が性善説ではなかったことも、説明していきます。性善説で有名な人物は孟子ですが、春秋戦国時代にどのような待遇だったのでしょうか。
韓非子と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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商鞅の法と申不害の術と慎到の勢にわかりやすく解説を加えた法家思想の韓非子
法家の韓非子は、申不害の術と商鞅の法と慎到の勢が、どのように重要かを説明したのです。
そもそも秦国は、商鞅によって法律重視の国家となり、他国に攻められる立場から他国を圧倒する立場に変貌しました。
そして申不害は、韓国で術を実践し、実態と名目を一致させ、他国から攻められない国家運営を行ったのです。
また慎到は、権力の効力を支持しており、韓非子は権力がなければ法治も難しいと主張しました。
商鞅(しょうおう)は、法により秦国を他国より強くし、申不害(しんふがい)は術により韓への侵略を遠ざけ、慎到(しんとう)は権勢効果を唱え、法家の韓非子は法と術と勢を上手く融合させようとしたのです。
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劉備に蜀漢の後事を託された三国志の諸葛亮は劉禅阿斗に韓非子を読ませたのです
三国志の諸葛亮は、劉備に三顧の礼で招かれたほどの人物で、韓非子を高評価していました。
韓非子は、劉備の後継者で息子の劉禅に、諸葛亮から推薦されたほどの内容なので、他の書籍とは一線を画すと言えるでしょう。
そして諸葛亮は、愛弟子馬謖が、街亭の戦いで失敗した際に、韓非子のように法律を重視し、泣いて馬謖を斬りました。
しかし諸葛亮は、劉備のように有能な人材を集められなかったため、北伐を5度も行うだけで最後を迎えたのです。
韓非子は、劉備玄徳(りゅうびげんとく)の軍師臥龍諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)からも評価され、阿斗劉禅公嗣(りゅうぜんこうし)にも読まれたほど法律思想でした。
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三国志の荀彧の祖先荀子の門下で李斯よりも能力が高かった吃音の韓非子
韓非子は、三国志の荀彧の先祖の荀子門下の中で、始皇帝の丞相の李斯よりも能力で秀でていたのです。
しかし韓非子は、吃音で知られており、話す力は劣っていました。
韓非子は、吃音なので、話すことに使うエネルギーをすべて書くことに活用し、韓非子の名著を完成させたのでしょう。
そして荀子は、礼を重視する思想を持っており、韓非子の法家は礼では足りないため、法でもっと厳酷にすべきだと主張したのです。
韓非子は、礼以上に人々を統制しようとしたので、自分自身も、始皇帝や李斯から統御されてしまったのでしょうか。
吃音な韓非子は、始皇帝の丞相の李斯と共に、三国志の荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)の祖先の荀子(じゅんし)に師事し、李斯以上の能力を示しました。
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法家の韓非子は始皇帝のために姚賈を批判しましたがむしろ死因を増やしてしました
韓非子は、姚賈が性格面に問題があり外交能力も低いので、始皇帝に害をもたらしていると主張したのです。
姚賈は、確かに趙から追い出されたことがありますが、秦の策謀が要因でした。
更にはその後は、秦の始皇帝のために趙楚魏燕と、巧みに外交交渉を行っていたのです。
韓非子は、祖国の韓を助けたかったため、外交力のある姚賈を追い落とそうとしたのかもしれません。
そもそも韓非子は、秦での立場が強くないので、まずは姚賈と連携する方が、安全だったのではないでしょうか。
姚賈(ようか)の外交が失敗していると、法家の韓非子は主張しましたが、秦の始皇帝に聞き入れられず、逆に批判され死因を増加させたのです。
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始皇帝から韓非子は高評価されましたが丞相李斯から畏怖され最後を送られたのです
法家の韓非子は、秦の始皇帝から名文と評価されたのですが、立場に固執したい李斯から危険視されました。
李斯はかつて、倉のネズミが裕福だったことで、人は環境が重要であると見抜いた人物です。
ですので、李斯は春秋戦国時代の最強国秦に入国し、丞相にまで出世したのでしょう。
そして韓非子は、文章力は高かったのですが、吃音だったため、李斯の悪行に上手く反論出来なかったのではないでしょうか。
ちなみに李斯は、ライバルを蹴落とし過ぎて、有能な味方も減り、最後は趙高に制圧されてしまいました。
秦の始皇帝は、韓非子の作品に感激しましたが、丞相李斯(りし)は能力を警戒し、立場を守るために韓非子に最期を与えたのです。
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始皇帝の丞相李斯は法家の韓非子を死亡させたため異国人の立場を危うくしてしまったのです
法家の韓非子は、韓の公子だったので、異国人を警戒する秦国で、犠牲となってしまいました。
秦の始皇帝嬴政は、他の国々と敵対していたため、秦を弱体化させようとする異国人も多かったのです。
そして韓非子は、韓を助ける目的で始皇帝に近付いたので、李斯に見抜かれ最後が来ました。
ですが、李斯も異国人だったため、韓非子を最後に追い込んだことで、立場が揺らいだのです。
李斯は地位に拘っていましたが、偉大な始皇帝がいたおかげで、災いがまだまだ遠かったのでしょう。
丞相李斯は、法家韓非子を秦の始皇帝に讒言することで、韓非子を死亡させることに成功しましたが、異国人の秦国での心証を悪化させました。
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孟子の性善説ではなく荀子の性悪説を支持していた法家の韓非子
法家の韓非子は性悪説であり、人々は利己心の塊であり、法律で統制すべきと主張しました。
そして孟子は性善説を唱え、韓非子と反対に人々は元々善人なので、善を伸ばす教育が大事であると述べたのです。
孟子は春秋戦国時代に性善説を語っていたため、現実から乖離しているとして、あまり評価されませんでした。
また、始皇帝の秦国は、商鞅の法治主義以来、法律重視だったため、韓非子の法家を絶賛したのです。
ちなみに、商鞅も韓非子のように権力者に敗れ、自らの法に追い詰められ、悲惨な最後を迎えました。
秦の始皇帝は、性善説の孟子(もうし)の思想以上に、性悪説に立脚した法家の韓非子を尊重したのです。
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まとめ:性善説ではない法家の韓非子(かんぴし)の思想と三国志と秦の始皇帝李斯が死因
韓非子が、性善説よりも性悪説な考えで、法家思想だったことをわかりやすく解説してきました。
もしも韓非子が性善説を採用していた場合、秦の始皇帝からあまり評価されず、李斯からも最後を与えられずに済んだのではないでしょうか。
そして韓非子が、蜀漢の諸葛亮から評判だったことも、説明してきました。諸葛亮は結局、韓非子と同じく、五丈原の戦いであえない最期だったので、韓非子から悪い部分も習ってしまったのでしょうか。
また韓非子は、巧みな弁舌の姚賈から、返り討ちに遭ったことも述べてきました。韓非子が、吃音で苦手な話術ではなく、得意の文章力で勝負していたら、勝っていたのではないでしょうか。
法家韓非子は、秦の始皇帝から高評価な思想の持ち主なので、法律に興味がある人は是非一度しっかり学んでみてください。