蒯通!天下三分の計能力、淮陰侯韓信、史記、楚漢戦争ことわざも解説

蒯通は、楚漢戦争のことわざ国士無双の異名を持っていた、韓信の軍師として、天下三分の計の献策も行いました。

天下三分の計を蒯通から聞いた韓信は、結局聞き入れなかったのです。しかし韓信は後に謀反で、劉邦から最後を与えられてしまいました・・・

そして蒯通は、韓信に無理に斉を攻撃させることで、大名声を獲得させたのです。ですが、斉王を劉邦に帰順させていた酈食其は、犠牲となりました。

また、国士無双韓信に斉王即位を提案したのも、蒯通だったのです。初めは劉邦も批判しましたが、最終的には韓信は斉王となり、名実共に劉邦や項羽と並べるほどになりました。

蒯通を詳しく解説していきます!

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前漢の三傑の韓信は蒯通の天下三分の計ではなく劉邦から大将軍にしてもらった恩を選びました

蒯通は、韓信の大将軍としての実力があれば、劉邦と項羽に対峙出来るだけでなく、皇帝にもなれると思っていたのです。

しかし国士無双韓信は、劉邦から大出世させてもらった大恩に感服していたため、蒯通の計略を採用しませんでした。

そして蒯通は、天下三分の計が受け入れられなかったので、後々を考え狂人になったフリをしたのです。

また韓信は、若い頃のニート生活を助けてくれた人々を、貢献度に応じて報奨しました。

韓信がもっと恵まれていたら、人からの恩をあまり重視せず、蒯通の計略を使えたのではないでしょうか。

蒯通は、国士無双韓信(かんしん)の将来のために、劉邦(りゅうほう)から独立し項羽(こうう)とも距離を置く戦略を提示しましたが、韓信が想像以上に劉邦に恩を感じていたので、失敗しました。

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国士無双韓信に蒯通は劉邦と項羽と共に天下を三分する計略を述べたのです

蒯通は、楚漢戦争で項羽と劉邦が、一進一退を繰り返していたため、主君の韓信が第三勢力となる作戦を提案しました。

そもそも劉邦が辺境の漢王から、項羽の部下の三秦の章邯を倒し、勢力を拡大出来たのは、大将軍韓信がいたからです。

ですので、国士無双韓信が斉王として自立した場合、劉邦と項羽から攻められる可能性は低い、と言えました。

しかし韓信は、人からの恩讐関係を重視し過ぎて、大将軍としての能力が、劉邦や項羽に及ぼす影響への考慮が、あまり出来ない人物だったのです。

蒯通は、天下三分の計により、前漢の三傑国士無双韓信と西楚の覇王項羽と劉邦が、牽制し合うことが望ましい、と考えていました。

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斉王田広を劉邦に投降させた酈食其に最後を与えてでも蒯通は国士無双韓信を躍進させたのです

蒯通は、酈食其が田広を軍門に降らせているにも関わらず、韓信の劉邦からの斉攻の指示が解除されていない、と主張しました。

そもそも劉邦は、最初は韓信に斉の攻撃を命じているので、劉邦は韓信と酈食其を競わせてしまったのです。

そして酈食其は、田広に武装解除させていたのに、同じ劉邦の部下の韓信が斉を攻撃したため、斉王から煮られて最期を迎えました。

酈食其は、斉王田広を説得する能力はありましたが、乱世にいながら、蒯通と韓信の動きを読み切る能力には、欠けていたのでしょう。

蒯通は、主君の国士無双韓信が、酈食其(れきいき)に負けないために、劉邦の斉攻撃命令を上手く利用し、韓信に斉を制圧させたのです。

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三国志の曹操の祖先の曹参は蒯通の献策を聞き賢者を集め斉で善政を行いました

蒯通は、天下三分の計を聞き入れなかった韓信を見限り、曹参に鞍替えしていたのです。

曹参は、斉を統治するために、蒯通の進言を参考にし、成功させました。

そして、陳勝呉広の乱の際に曹参は、秦の丞相李斯の息子李由に、最期を送る戦果も、得ているのです。

また、楚漢戦争の功績で曹参よりも上とされた、蕭何が亡くなった後も、曹参は蕭何の優れた法制度を、大事にし続けました。

ちなみに、韓信を国士無双と称し、劉邦におすすめしたのが、蕭何だったのです。

蒯通は、韓信から曹参(そうさん)に乗り換え、前漢の三傑の蕭何(しょうか)の良い法制度を尊び仁政を行った、曹参の斉統治に貢献しました。

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韓信は斉王即位を劉邦から非難されましたが蒯通と張良と陳平からは支持されました

蒯通は、劉邦が項羽との戦いで疲弊していたため、韓信が斉王に就任することを断れない、と計算していたのです。

劉邦の軍師の陳平と張良も、韓信の要求を断り劉邦を見限ると危険だと考え、韓信の斉王即位を擁護しました。

そして韓信は、斉王になれるという蒯通の進言を劉邦が激怒すると予測し、斉の仮王になりたいと申し出ていたのです。

実際劉邦は非常に怒ったのですが、陳平と張良から足を踏まれたため、韓信を仮王ではなく斉王としました。

また、劉邦が楚漢戦争で項羽に勝ち、前漢の高祖皇帝になれたのも、張良や陳平らの有能な軍師がいたからでしょう。

蒯通は、楚漢戦争で困窮した劉邦に、国士無双韓信の斉王就任の要請を拒絶する力が無いことを、見抜いていたのです。

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張耳と陳余に蒯通は進言し趙の秦側の役人の身の保障を約束させ趙を一気に制圧したのです

蒯通は、趙にいる秦の役人が、陳勝呉広の乱で立場が危うくなり、身の危険を感じていることを利用し、趙を張耳と陳余に確保させました。

秦は厳酷な法の統治を行っていたため、役人を憎む人々も多く、秦の役人はいつ斬られるかと怯えていたのです。

ですので、蒯通は秦の役人を張耳たちに降伏させ、張耳に秦の役人の保護を確約させることで、戦わずして趙を占領してみせました。

ちなみに、張耳と陳余は、初めは廉頗と藺相如のように刎頸の交わり関係だったのですが、後に不和となり、互いに命を狙う仲に陥ってしまったのです。

蒯通は、秦の役人が趙の人々に恨まれていることを巧みに使い、張耳(ちょうじ)と陳余(ちんよ)に秦の役人の身の安全を保護させ、趙を秦の支配から解放しました。

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劉邦から天下三分の計で批判されたので蒯通は盗跖の犬が聖天子堯でも吠えるように主君の韓信に尽くしただけだと弁解しました

蒯通は、かつての主君の韓信が、謀反に失敗し、天下三分の計の話を述べたため、劉邦から尋問されたのです。

そして蒯通は、陳勝呉広の乱から楚漢戦争時は、皆が自分や主君の栄達を望んでいたので、劉邦と強く対立したかったわけではない、と主張しました。

また、劉邦と戦うような発言で処罰するなら、他の武将たちも罰するべき、と蒯通は述べたのです。

ちなみに、劉邦は韓信だけでなく、英布や彭越などの前漢の有名な功臣であっても、粛清していった人物でした。

ですので、蒯通のように巧みな話術を展開しなければ、どんどん劉邦から最後をもたらされる危険性が、あったのです。

蒯通は、韓信に天下三分の計を献策したことを、劉邦に責められたので、劉邦を堯に韓信を盗跖に自らを犬に例え、最後から免れることに成功しました。

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まとめ:蒯通(かいとう)の天下三分の計な能力と史記の楚漢戦争ことわざの国士無双な淮陰侯韓信

蒯通がどのような状況で、天下三分の計を提案し、上手くいかなかったかを解説してきました。三国志の諸葛亮の天下三分の計も、結局劉備が三国を統一出来なかったので、失敗と言えるのではないでしょうか。

そして蒯通が、劉邦の腹心の曹参に仕え、斉の徳政に尽くしたことも説明してきました。韓信が天下三分の計を採用していれば、曹参ではなく韓信が、斉での善政で有名になっていたかもしれません。

また、韓信が謀反で劉邦から最後を与えられ、かつて蒯通が劉邦に盾突いていたことが、露見したことも述べてきました。

韓信が献策を聞かなかった際に、すぐに離れていたことも、蒯通が劉邦からの処罰を免れることが出来たポイントでしょう。

蒯通は、大将軍韓信を文字通り国士無双な武将へと大出世させ、更には天下を獲得させる寸前まで到達させた、名参謀だったのです。

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