韓非子は優れた法家思想を持っていたために、秦の丞相李斯から死因をもたらされました。
そして法家の韓非子は、吃音で災いを呼び込んでしまったのです。確かに韓非子は吃音なので、文才を高めてはいましたが、結局法律の文才で死亡させられました。
また韓非子は、姚賈の才能を侮り撃退され、最後が近付いたのです。法家思想では姚賈に勝っているという自負心が、没落を招いたのでしょうか。
他にも、君主と対話する難度を、韓非子が把握していたことも説明していきます。韓非子は理論に長けているので、理論だけを提示する生き方なら、生き永らえ易かったかもしれません。
韓非子の死因を詳しく解説していきます!
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目次
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秦の始皇帝嬴政から好評だったことで法家思想の韓非子は丞相李斯からの死因を招きました
韓非子が死亡した理由は、権勢欲の強い李斯がいるにも関わらず、始皇帝嬴政から能力を高く評されてしまったことです。
李斯は自分が上手く出世するために、わざわざ秦を訪れるほど、権力を欲している人物でした。
ですので、韓非子がもしも丞相になってしまうと、李斯の権力が低下するので、嬴政からの好印象は危険な出来事だったのです。
また李斯は、呂不韋から取り立てられているので、呂不韋が嫪あいと趙姫の事件で失脚していなければ、李斯も韓非子への讒言を行い難かったかもしれません。
韓非子の死因は、始皇帝嬴政(しこうていえいせい)に安易に才能を見せてしまい、丞相李斯(りし)の警戒心を煽ったことにあるでしょう。
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韓非子は巧みな法家思想で有名ですが吃音で悩む生涯でもありました
韓非子に残念な最期が来たのは、吃音で文才を磨き、厳格な秦で認められてしまったからでしょう。
吃音があるとなかなか話が出来ないため、韓非子は文章力を鍛えて、思想を力説したのです。
そして韓にはかつて申不害がおり、昭侯韓武の宰相として、他国からの侵攻を遠ざける統治を法家思想で行いました。
韓非子も祖国の韓で、申不害のように宰相を務められれば、無残な最後を遂げずに済んだのではないでしょうか。
ちなみに、三国志の蜀漢を鍾会と共に攻略した鄧艾も、吃音だったと言われています。
韓非子の死因は、吃音を補って余りあるほどの法家思想が、祖国の韓ではなく秦で発見され、李斯と始皇帝嬴政に危険視されてしまったことでしょう。
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丞相李斯と共に性悪説の荀子の弟子として法家思想の韓非子が才能を見抜かれていたことも死亡理由でしょう
韓非子が最後を迎えたのは、李斯に同じ荀子の弟子として、才覚が事前に知られてしまっていたからです。
もしも韓非子と李斯が、違う師に学んでいたら、李斯がすぐに韓非子を死亡に追い込むことも、なかったのではないでしょうか。
そして荀子は性悪説なので、礼によって人々が立派になるべき、と主張しました。
青は藍より出でて藍より青しは、荀子の礼治思想を明確に表している言葉です。
また、性善説として孟子がおり、周辺国との戦で疲労した魏の恵王に、仁者無敵を力説しました。
韓非子の死因は、性悪説の儒家荀子(じゅんし)の弟子を、李斯と同様に務めていたことで、早くから鬼才ぶりを李斯に見通されていたことにあるでしょう。
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孫子こと孫武の子孫の孫臏も法家思想の韓非子のように同門の龐涓に畏怖され最後は来ませんでしたが厳しい冤罪を被りました
韓非子が、同じ荀子の弟子の李斯から有能を恐れられたように、孫臏も鬼谷子で一緒に学習した龐涓から、能力を憂慮されていたのです。
韓非子は、李斯から毒殺されましたが、孫臏は龐涓から、顔に入墨を入れられ足も斬られ厳罰を与えられました。
しかし孫臏は、龐涓から逃げ出すことに成功し、斉で威王や田忌に認められ、桂陵の戦いと馬陵の戦いで龐涓を大敗させたのです。
ちなみに、桂陵の戦いで孫臏は、兵法三十六計の囲魏救趙を活用して、龐涓を撃破しました。
韓非子の死因は、李斯から畏怖されるほどの才覚であり、孫臏(そんぴん)も龐涓(ほうけん)から才能を警戒され冤罪を受けましたが、最終的には龐涓を馬陵の戦いで破り、逆に死亡させたのです。
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姚賈が経歴に問題があり外交が失敗していると法家思想の韓非子は批判し逐客令で最後を迎えていきました
韓非子が死亡したのは、姚賈の弁舌力を軽んじ、無暗に非難したことも要因でしょう。
そして、姚賈は伍子胥や曾参のように、自分が忠や孝に厚い人物だからこそ、他国から待遇されていると述べたのです。
始皇帝嬴政は、韓非子の話を真に受けて、夏の傑のような間違いを犯してはならない、とも姚賈は主張しました。
また逐客令で、秦人以外の外国人への風当たりが強くなっていたこともあり、韓非子は死亡させられたのです。
ちなみに、韓から秦の国力衰退のために、大きな水利工事を行いに来ていた鄭国も、逐客令の犠牲となりそうになりましたが、巨大な水利施設の重要性を力説して、処罰を免れました。
韓非子の死因は、姚賈(ようか)の外交能力の神髄を見誤り、法家思想ではない孝や忠の考えで、返り討ちに遭ったことも理由でしょう。
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秦の始皇帝嬴政は丞相李斯の進言で法家思想の韓非子を死亡させたことをかなり後悔しました
韓非子は、李斯と始皇帝に最後をもたらされましたが、後に嬴政は非常に悔やんだのです。
そして、二世皇帝胡亥を指導していた趙高が暗躍し、秦が崩壊していきますが、韓非子が生きていれば、趙高に対抗し得る法律理論を展開出来たのではないでしょうか。
韓非子を陥れた李斯も、趙高との権力闘争に敗北するため、韓非子が生存していれば、李斯も長生き出来たかもしれません。
また、李斯は自らの地位を守る目的で、始皇帝の本当の後継者扶蘇と蒙恬をも死亡させているので、因果応報な最後とも言えるでしょう。
韓非子の死因は、始皇帝と李斯から来ましたが、嬴政は強く後悔し、韓非子が生き残っていれば、二世皇帝胡亥(こがい)の参謀趙高(ちょうこう)を法家思想で統制出来た可能性もあるのです。
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法家思想の韓非子は自著で始皇帝の説得の難しさを明記していながら嬴政から最後を加えられたのです
韓非子は秦の嬴政から死亡させられましたが、事前に自らの書物に、君主と話す難しさを語っていました。
ですので、史記の司馬遷も、韓非子が始皇帝の説得に失敗して最期を招いたことを、残念がっているのです。
また商鞅も、孝公からは厚遇され、秦を強国化させ魏にも大勝しましたが、次代の恵文王からは厳酷な法家思想を糾弾され、最後を送られました。
法家思想は刑罰を伴うので、恨まれることが多く、悲惨な末路となるケースが多いのでしょう。
韓非子の死因は、始皇帝と話す難易度を悟っていながら、実践出来なかったことも要因と言え、秦を強国化した商鞅(しょうおう)も君主に死亡させられたのです。
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まとめ:法家思想韓非子(かんぴし)の死因と姚賈逐客令最後と吃音生涯エピソードと秦の始皇帝李斯で死亡
韓非子がなぜ、後世に残るほどの法家思想を有していながら、始皇帝嬴政から死亡させられたのかを解説してきました。
韓非子がほどほどの能力であれば、秦で李斯と共に活躍していたかもしれません。
そして、大思想家荀子の弟子だったことが、韓非子の災難の遠因だったことも説明してきました。
あまり有名でない師に習うか、密かに大思想家に教わるかをしなければ、災いが訪れてしまうのでしょう。
また秦の始皇帝嬴政が、韓非子に最後を加えたことを悔んだことも、述べてきました。韓非子が李斯より先に、嬴政に採用されていれば、李斯を逆に始末出来たでしょう。
韓非子は、有能な法家思想で李斯と始皇帝から死因を招いたので、吃音で無能を装う巧妙な処世術も、大事だったのではないでしょうか。