黄月英夫人!発明、インド美人?三国志諸葛亮孔明の妻奥さんも解説

黄月英夫人は、夫の諸葛亮孔明に比肩するレベルの天才でした。

諸葛亮の北伐では木牛流馬が活躍しましたが、黄月英夫人の発明と伝わっています。木牛流馬以外にも、もっといろいろ発明してくれていたら、簡単に北伐で勝てたのではないでしょうか。

そして黄月英夫人は、中国美人ではなくインドな女性だった、とも言われています。諸葛亮が、異民族の孟獲たちを手懐けられたのは、妻も異民族だったからかもしれません。

また三国志の黄月英夫人は、貂蝉クラスの美女でなかったため、美人計をせずに済んだのです。必要以上に秀でていると、人に利用されてしまうのでしょう。

ちなみに、黄月英の読み方は、こうげつえいです。

三國志の黄月英夫人を詳しく解説していきます!

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木牛流馬とカラクリうどんを発明した諸葛亮孔明の奥さんの黄月英夫人

黄月英夫人は、カラクリうどんの発明で諸葛亮を驚かせるだけでなく、木牛流馬で蜀漢の北伐を援助しました。

ある時、諸葛亮の元を武将が訪れたところ、作っていないはずのうどんが運ばれて来たのです。

ですので諸葛亮が確認すると、なんと黄月英夫人のカラクリがうどんを製造していました。

また諸葛亮は、弱国の蜀漢で北伐を行う際に、黄月英夫人が発明した木牛流馬を役立てたのです。

しかし、孔明の北伐が威勢を振るったのは、初めの頃だけで、後の北伐はあまり成果が出ませんでした。

三国志の黄月英夫人の発明のおかげで、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は、北伐を何度も行えただけでなく、武将の待遇も上手くいったのです。

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インド風な茶色の肌と金色の髪だったため黄月英夫人は中国美人とは評価されなかったのです

黄月英夫人は、中国古代四大美女のような外見ではなかったので、三国志の世界で美人とは見なされませんでした。

そして中国古代四大美女の西施は、沈魚美人と称され、魚が虜になり泳げないほどだったと言われているのです。

ただ、西施は優れた美人だったために、天才的な発明で諸葛亮に貢献した黄月英夫人と異なり、呉王夫差に美人計を仕掛けなければなりませんでした。

ちなみに西施は、呉王夫差が最後を迎え役割を終えると、危険視され長江に投げられたとされています。

三国志の黄月英夫人は西施(せいし)と違い、越王勾践(こうせん)と范蠡(はんれい)のために、呉王夫差(ふさ)を誘惑出来るほどの沈魚美人ではなく、賢者だったので、夫の諸葛亮孔明に尽くせたのです。

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劉備軍には黄月英夫人並に外見が良くなく天才であり落鳳坡で最後を迎えた鳳雛龐統もいたのです

黄月英夫人と似ている存在として、諸葛亮孔明と並び称された龐統がいます。

龐統は、水鏡司馬徽からも鳳雛として高評価で、諸葛亮は臥龍や伏竜と呼ばれていました。

そして龐統は、容貌が立派でなかったので、初めは劉備からも厚遇されませんでしたが、数十日ほどかかるはずの業務を一気に完了させることで、劉備を驚嘆させたのです。

また益州攻略の際に、龐統は劉備の的盧馬に乗っていたので劉備だと思われ、落鳳坡で最期が来ました。

三国志の黄月英夫人は、鳳雛龐統士元(ほうすうほうとうしげん)と境遇が近しく、龐統は当初外見で劉備玄徳(りゅうびげんとく)に冷遇されましたが、奇才の片鱗を見せることで、劉備から厚遇されるようになったのです。

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三国志の貂蝉は中国古代四大美人だったので黄月英夫人と異なり王允に董卓と呂布を翻弄させられました

黄月英夫人は、外見よりも頭の良さを評価されていた女性であり、貂蝉が美貌により、呂布と董卓を操る生き方を強いられたのと異なっていたのです。

黄月英夫人はあまり美人ではなかったからこそ、貂蝉のような悲劇を体験せずに済んだのではないでしょうか。

荘子も、何も無いから役立つ無用の用を主張しているのは、貂蝉のような美人が利用されるケースがあるからでしょう。

ちなみに、黄巾の乱の太平道張角に、太平要術の書を渡した南華老仙は、荘子が仙人化した存在とされています。

黄月英夫人は、三国志の閉月美人の貂蝉(ちょうせん)のような美女ではないので、董卓仲穎(とうたくちゅうえい)や呂布奉先(りょふほうせん)を色仕掛けで仲違いさせる危険も、冒さずに済んだのです。

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落雁美人の王昭君は黄月英夫人のように美人でないと誤解され匈奴の単于の奥さんとなりました

黄月英夫人は、孔明の嫁選びとからかわれるレベルの外見で、王昭君もあまり美人でないと思われていたのです。

ですので、単于の妻になるために匈奴に送られたわけですが、実は王昭君は、中国古代四大美女と称されるほどの美人でした。

王昭君は美女なだけでなく内面も優れていたため、絵師に袖の下をあげず、美人でない姿で描かれてしまっていたのです。

ちなみに羞花美人の楊貴妃は、中国古代四大美女なだけでなく、世界三大美人でもあります。

黄月英夫人は、三国志で美女でないと伝わっており、悪い絵師に描かれた際の落雁美人王昭君(らくがんびじんおうしょうくん)も、美女でないと誤解されていました。

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諸葛亮孔明は奥さんの黄月英夫人の発明の虎戦車で南蛮の孟獲軍を制圧したのです

黄月英夫人は、諸葛亮が南蛮征討を成功させられるように、虎戦車を提供しました。

南蛮の孟獲軍には、猛獣を軍勢としていた木鹿大王がおり、猛将魏延や趙雲を翻弄したのです。

ですので黄月英夫人は、猛獣のような外観の虎戦車を夫の孔明に渡し、孟獲軍獣たちを動揺させ木鹿大王を倒しました。

そして諸葛亮は、孟獲に兵法三十六計の欲擒姑縦を用いることで、南蛮軍を心服させたのです。

また、諸葛亮の弟子な馬謖が、南蛮遠征の際に心を攻撃することを献策しました。

黄月英夫人は、発明した虎戦車を夫の諸葛亮に使わせることで、木鹿大王(ぼくろくだいおう)を討たせ、南蛮の孟獲(もうかく)を帰服させていったのです。

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黄月英夫人の父親の黄承彦は夷陵の戦いで諸葛亮孔明の石兵八陣に難儀していた陸遜を援助したのです

黄月英夫人の父の黄承彦は、諸葛亮の石兵八陣に苦戦していた陸遜を助けました。

諸葛亮の目的は、魏を倒し後漢を復興させることなので、同盟者に成り得る陸遜に致命傷を与えたくなかったのでしょう。

また夷陵の戦いは、蜀漢の皇帝劉備が、関羽と張飛の件の恨みを利用して、呉を獲得しようとしたものでした。

劉備が呉に勝利するという意見も多い中、呉の陸遜には長期的な戦略があり、火攻めが大成功したことで、蜀漢は総崩れで終わったのです。

黄月英夫人の父親の黄承彦(こうしょうげん)は、劉備に大勝利した陸遜伯言(りくそんはくげん)が、孔明の石兵八陣に困惑していたので救い、後の蜀漢と呉の連盟に貢献しました。

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まとめ:黄月英(こうげつえい)夫人とは?と諸葛亮孔明の奥さんの発明と三国志のインド美人?

黄月英夫人が美人かどうかと、諸葛亮の奥さんとしてどのように活躍したかを、解説してきました。そもそも、天才軍師孔明の妻になれるだけでも、凄いのではないでしょうか。

そして、諸葛亮の嫁の黄月英夫人と、外見内面が似ていた鳳雛龐統も説明してきました。外見で蜀漢復興は難しいため、人材は、奇才かどうかで判断すべきなのでしょう。

また、黄月英夫人と異なり、落雁美人と称された王昭君が、匈奴に嫁がされたことも述べてきました。美女として生まれたとしても、正当に評価されるとは限らないのでしょう。

黄月英夫人は、木牛流馬や虎戦車の発明で、諸葛亮孔明の奥さんを立派に務めた、頭脳美人だったのです。

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