蒙毅!死亡最期、兄蒙恬将軍、秦国趙高、父親蒙武、祖父蒙驁も解説

万里の長城の監督で知られる蒙恬の弟蒙毅は、趙高に最後を与えるチャンスを逃したせいで、報復されました。

蒙毅が、かつて趙高を罰しようとしたため、憎まれており、兄の蒙恬にも飛び火したのです。秦は趙高の悪法で崩壊しますが、蒙恬が生きていれば、違う未来もあったのではないでしょうか。

そして、二世皇帝胡亥の父親始皇帝の親族子嬰は、蒙毅と蒙恬への不当な処罰を防ごうとしました。胡亥ではなく子嬰が二世皇帝であれば、蒙毅も蒙恬も生き残っていたのではないでしょうか。

また蒙毅は、伍子胥と白起が最後を与えられるべきでなかったように、自分にも寛大な処置があるべきと語ったのです。

しかし時すでに遅しで、胡亥と趙高の法律の悪用は、秦壊滅まで続きました。

ちなみに、蒙毅の読み方は、もうきです。

蒙毅を詳しく解説していきます!

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二世皇帝胡亥の指導を行っていた趙高が重罪となったので蒙毅は法の通りに最後を送ろうとしたのです

蒙毅は、胡亥の教育をしていた趙高が、大きな罪を得たので、法律に則って最期をあげようとしました。

しかし、趙高が法律に精通していたため、始皇帝嬴政は、許し復帰させたのです。

始皇帝嬴政が、息子の胡亥の指南役にするくらいなので、元々趙高は嬴政から好印象だったのでしょう。

ちなみに、胡亥も後々には、趙高が危ない人物であることに気付きましたが、趙高に先手を打たれ、望夷宮の変であえない最期を迎えたのです。

蒙毅は、二世皇帝胡亥(こがい)の指導役だった趙高(ちょうこう)に、法律の通り最後をもたらそうとしましたが、始皇帝嬴政から趙高が厚遇されていたため、恨みを買って終わりました。

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蒙毅の祖父蒙驁は歴戦の勇将でしたが戦国四君の信陵君の合従軍に敗れたのです

蒙毅の祖父の蒙驁は、闘将だったのですが、信陵君魏無忌の連合軍には勝てませんでした。

そもそも信陵君は、兄の安釐王から警戒されていたので、魏から離れていたのですが、魏が猛攻を受けていたため帰国し合従軍で、秦を攻略したのです。

そして魏は、一時的に優勢になったのですが、信陵君に恨みのある晋鄙の元部下たちが讒言したので、結局信陵君は、安釐王から遠ざけられ酒色におぼれ最期が来ました。

有能な人物でも、良い主君に巡り合えなければ、むしろ才能が仇となるのでしょう。

蒙毅の祖父の蒙驁(もうごう)は、猛将でしたが、戦国四君の信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)の合従軍に敗北し、信陵君は才能を安釐王に畏怖され無念な最後を遂げたのです。

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真の後継者である扶蘇を死亡させたので胡亥は蒙恬を釈放する予定でしたが蒙毅を憎んでいた趙高に後押しされたのです

蒙毅は、以前趙高を法律に従って処刑しようとしたので、兄弟の蒙恬の立場も不利にしてしまいました。

始皇帝嬴政は、胡亥ではなく扶蘇を次の皇帝に即位させたかったのですが、扶蘇はかつて焚書坑儒を諫言し過ぎたため、蒙恬の元に来させられていたのです。

そして趙高と李斯は、胡亥を二世皇帝とするために、始皇帝嬴政の指示と偽って、扶蘇に自害を命じ成功しました。

また蒙恬は、扶蘇と自分に届いた自殺の命令が、偽書だと疑っていたので、強く抵抗したのです。

蒙毅は、かつて趙高を法律に沿って処罰を与えようとしたため、胡亥から許してもらえそうだった蒙恬(もうてん)をも、最期に巻き込んでしまいました。

⇒扶蘇!始皇帝正室、昌平君逸話、胡亥蒙恬、娘子供時代、苗字も解説

丞相李斯は蒙毅の兄の蒙恬よりも才能が劣っていたため胡亥と趙高に加担して蒙恬を最期に追い込みました

蒙毅の兄蒙恬は、優れた能力だったので、丞相李斯から対抗されることを恐れられ、謀略で責め立てられたのです。

蒙恬は、自害を求める始皇帝からの文書を、偽物だと見通したのですが、真の後継者の扶蘇は簡単に受け入れてしまいました。

そして李斯は、立場を守ることに成功したかに見えたのですが、趙高の悪巧みは留まるところを知らなかったのです。

趙高は陳勝呉広の乱に、李斯の息子の李由が味方していた、と胡亥に主張し聞き入れられ、李斯は腰斬な最後が来ました。

蒙毅の兄の蒙恬は、高い能力を有していたため、丞相李斯(りし)から陥れられる原因を作ってしまいましたが、李斯も趙高の策謀で最期が訪れたのです。

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秦の始皇帝嬴政の一族の子嬰は蒙恬と蒙毅が胡亥から最期をもたらされそうだったので庇ったのです

蒙毅は、蒙恬と共に有能な武将として評価されていたため、子嬰は胡亥に釈放することを求めました。

子嬰は、幽繆王が勇将李牧に最後をもたらしたことで、趙の滅亡を促進したと主張したのです。

李牧は、名将王翦でも容易くは勝てないほどの武将だったため、秦は郭開を財物で味方として李牧を謀殺しました。

また、かつて郭開は、完璧の故事で有名な藺相如と刎頸の交わりだった、廉頗を想像以上に老いていると悼襄王に見なさせ、闘将廉頗を趙に戻らせないようにもしていたのです。

蒙毅は、万里の長城を管理していた蒙恬と共に、知将として評判だったので、子嬰(しえい)は二世皇帝胡亥に助命を嘆願しました。

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蒙恬と李信に勝った項燕は昌平君を楚王に迎えましたが蒙毅の父親の蒙武と王翦に敗北しました

蒙毅の父の蒙武は、息子の蒙恬と李信に勝利した項燕を、王翦と共に打ち負かしたのです。

また項燕は、秦にいた楚の考烈王の息子の昌平君を楚王に即位させ、王翦と蒙武に対抗しました。

しかし項燕と昌平君は、天下統一間近の秦軍の勢いに飲み込まれ、死亡したのです。

そして昌平君には、叔父に昌文君がおり、昌文君も秦に仕えていながら、楚の危機により楚王就任依頼が訪れたと伝わっています。

昌文君は、楚の滅亡あたりで最期が来ているので、秦に楚王即位を警戒され、最後を与えられたとも推測出来るでしょう。

蒙毅の父親の蒙武(もうぶ)は、子供の蒙恬と李信が負けた項燕に、雪辱を果たすことが出来、王翦(おうせん)と一緒に楚を滅ぼしました。

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昭襄王が白起に最後を与え呉王夫差が伍子胥に最期をもたらしたことが間違いだったように蒙毅を処刑することも過ちであると自ら述べたのです

蒙毅は、拘束され死期が近付くと、白起と伍子胥の事例で再考を求めました。

白起は長平の戦いで趙括に勝ち、趙の国力を弱体化させた名将でしたが、范雎に恐れられ昭襄王からは指示に従わないことで、非難されていたのです。

また伍子胥は、越王勾践が本当の敵であると、呉王夫差に何度も忠告していましたが、煙たがられて生涯を閉じました。

ちなみに越王勾践は、呉王夫差に敗北してから、臥薪嘗胆な覚悟で呉王に奉仕し、夫差王の油断を引き出し勝利したのです。

蒙毅は、呉王夫差が伍子胥(ごししょ)を死亡させ越王勾践に大敗し、昭襄王が白起(はくき)を死亡させ有能な大将軍を失ったように、自分を無闇に処罰することは危険であると主張しました。

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まとめ:蒙毅(もうき)と兄蒙恬将軍の死亡最期と秦国趙高と祖父蒙驁父親蒙武

蒙毅が、なぜ秦国で始皇帝嬴政から重用されていながら、痛ましい最後が来たかを解説してきました。趙高と出会わなければ、もっと良い末路だったかもしれません。

そして、蒙毅の祖父の蒙驁が、信陵君に負けたことも説明してきました。趙高は、蒙毅の祖先が必死に守った、秦を壊滅させた真の悪臣と言えるでしょう。

また、秦の丞相李斯が、蒙毅の兄蒙恬の才覚を畏怖し、胡亥と趙高の悪事に参加したことも述べてきました。

蒙毅や蒙恬が才能を隠せるほどの賢人であれば、李斯が敵に回ることも無かったかもしれません。

蒙毅は、兄蒙恬と共に優秀でしたが、趙高のねじ曲がった性格を見通せず、悲惨な最期を迎えた武将だったのです。

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