垓下の戦いとは!なぜ起こった?天下統一、楚漢戦争わかりやすく解説

垓下の戦いで劉邦が項羽に勝つことで、楚漢戦争が終わり、劉邦の天下統一が達成されました。

前漢の三傑の張良と陳平のおかげで、劉邦は垓下の戦いでチャンスを掴んだのです。項羽は覇王でしたが、亜父范増すら疎んじてしまった武将でした。

そして国士無双韓信が、劉邦陣営でありながら、項羽への攻撃を躊躇していたのです。楚漢戦争が終われば、大将軍は不要となり、立場が弱くなるのではないでしょうか。

また勇猛な彭越も、垓下の戦いに、なかなか訪れませんでした。彭越は盗賊をしていた人物なので、劉邦に付いているのも大利あってこそなのでしょう。

ちなみに、垓下の戦いの読み方は、がいかのたたかいです。

垓下の戦いを詳しく解説していきます!

⇒張良と諸葛亮!世界最強軍師、孔明、太公望、蕭何、韓信、劉備も解説

⇒夏侯嬰!子孫最期、夏侯惇夏侯淵、三国志曹操、韓信能力、呂后も解説

スポンサーリンク
おすすめ中国史商品検索窓口

なぜ垓下の戦いが起こったかというと前漢の三傑の張良と軍師陳平が項羽に最後をもたらす好機だと見抜いていたからです

垓下の戦いは、項羽と劉邦が休戦の約束をした直後に行われた、不意打ちな戦でした。

そもそも項羽は、覇王と呼ばれるほどの勇猛さを誇っており、劉邦軍では勝つのが難しい強敵だったのです。

ですので、劉邦の参謀の陳平と張良は、不義だとしても、項羽を急襲することを進言しました。

また、国士無双韓信が仮の斉王になろうとした際、天下三分の計を行わせないために、劉邦に韓信の斉王即位を認めさせたのも、陳平と張良だったのです。

垓下の戦いは、劉邦と項羽が疲弊した後、前漢の三傑の張良子房(ちょうりょうしぼう)と陳平(ちんぺい)が、西楚の覇王に勝利する千載一遇のチャンスと考え、急に行われた会戦でした。

⇒天下三分の計!意味わかりやすく、失敗愚策、三国志故事成語も解説

垓下の戦いの前の諍いを一旦終えていなかったら劉邦の父親の劉太公は煮殺される可能性がありました

垓下の戦いの直前、西楚の覇王項羽は劉邦の父親の劉太公を煮殺そうとして脅し、楚漢戦争で勝とうとしたのです。

また劉邦は、項羽に妻の呂雉も確保されていたため、劉太公への対処を誤れば、呂雉の命も危険でした。

ただ項羽軍は、兵糧が足りなくなっていたので、劉太公や呂雉を威嚇する手法を、長くは行えない状況だったのです。

ちなみに呂雉も、劉太公と共に無事に生還出来、劉邦の死後天下を掌握し、戚夫人に人豚の刑事件を行いました。

垓下の戦いの前夜、劉邦の父親の劉太公(りゅうたいこう)を、西楚の覇王項羽(こうう)は煮殺さないことを条件に、投降を求めたので、劉邦は項羽と一旦は和解したのです。

⇒戚夫人!人豚の刑事件、呂雉皇后死因、ドラマな最期、自業自得も解説

スポンサーリンク

国士無双韓信は蒯通の天下三分の計を採用しませんでしたが垓下の戦いに積極的には参加しませんでした

垓下の戦いで、劉邦軍は項羽を撃破しようとしましたが、前漢の三傑の韓信は、来てくれませんでした。

韓信は大将軍なので、項羽を倒してしまうと、自身の価値が下がることを認識していたのです。

そして前漢の初代皇帝高祖劉邦は、韓信にしっかり大報酬の確約を行い、大軍を招集することに成功しました。

また後に韓信は、予測していた通り、軽んじられるようになったので、謀反を起こしてしまい、前漢の三傑の蕭何と呂雉皇后に最期を与えられたのです。

垓下の戦いは、劉邦(りゅうほう)が覇王項羽に勝つチャンスでしたが、国士無双韓信(かんしん)が戦後の冷遇を恐れなかなか参戦しなかったため、劉邦は大きい領土を与えることを明約しました。

⇒劉邦と韓信!逸話、ことわざ、名言、最強将軍、子孫、妻、最期も解説

楚漢戦争の垓下の戦いが終結した時期の世界地図の西の場所ではザマの戦いでローマが大勝利を獲得しました

垓下の戦いが終了した同じくらいの時に、ローマの大スキピオは、カルタゴのハンニバルをザマの戦いで破ったのです。

第二次ポエニ戦争の当初は、ハンニバルがアルプス山脈を強引に突破し、トレビアの戦いでローマに大勝していました。

更にハンニバルは、トラシメヌス湖畔の戦いだけでなくカンナエの戦いでも、ローマ軍を殲滅したのです。

しかし、ローマにはスキピオアフリカヌスがおり、ザマの戦いで、ハンニバルのカンナエの戦いを再現し、勝利を得ました。

垓下の戦いで、前漢の劉邦が天下統一した時期に、世界地図の西の地中海付近では、ローマのスキピオアフリカヌスが、カルタゴのハンニバルバルカに、ザマの戦いで大勝したのです。

⇒三国志もうかく!孟獲嫁娘、ベトナム、七縦七擒、諸葛亮、象兵も解説

スポンサーリンク

梁王彭越は劉邦から垓下の戦い参戦を求められましたが活躍の機会が失われることを恐れていました

垓下の戦いは、疲労した項羽を討つ好機でしたが、彭越の礼遇が無くなる危険性もあったのです。

そもそも彭越が劉邦に付いたのは、項羽が秦攻略の功績を、あまり評価してくれなかったからでした。

そして、彭越はかつて盗賊を行っていたので、性格的にも、利に目ざとい人物でもあったのです。

また彭越は、猛将過ぎて謀反の嫌疑をかけられ、塩漬けな最期が来ました。

ちなみに、劉邦から一旦は彭越は見逃されましたが、呂雉が警戒したため、悲惨な末路となったのです。

垓下の戦いは、劉邦軍だけでは不意打ちでも項羽に勝つのは難しかったので、前漢の初代皇帝高祖劉邦は、梁王彭越(ほうえつ)に大量の褒美を誓約しました。

⇒彭越と三国志!能力、高祖皇帝、呂后最後、英布韓信、盧綰子孫も解説

スポンサーリンク

四面楚歌を垓下の戦いで行うことにより劉邦は西楚の覇王項羽の士気を大きく低下させたのです

垓下の戦いでは、まだまだ項羽軍の意気は盛んだったので、劉邦は四面楚歌を指示しました。

項羽は、劉邦軍に囲まれても強く抵抗していましたが、四面楚歌により楚が漢に付いたと思い、落胆したのです。

そして西楚の覇王項羽は、寵愛していた虞美人に別れを告げ、漢軍に突撃しました。

垓下の歌は項羽が虞美人にあげたもので、名残惜しい気持ちと悔しさが滲んだ内容となっています。

ちなみに、虞美人の最後はハッキリしていないので、落ち延びた可能性もあるのです。

垓下の戦いで、劉邦は四面楚歌(しめんそか)作戦で、西楚の覇王項羽の士気を激減させ、愛妾虞美人(ぐびじん)と離れさせるほどに項羽を追い詰めました。

⇒西施!どんな人?眉をひそめることわざ意味、故事范蠡、中国美人解説

西楚の覇王項羽は垓下の戦いで劉邦の天下統一が決したと考え江東から捲土重来しませんでした

垓下の戦いの勝敗は、項羽のその後の生き方も決着させてしまい、楚漢戦争も終わり、劉邦の天下統一が確定したのです。

そして三国志の孫策は、江東の小覇王と称されていたため、孫策が項羽の無念を晴らしたとも言えるでしょう。

孫策は江東で大勢力になるだけでなく、曹操と袁紹が官渡の戦いで一大決戦を行っている最中に、曹操の本拠地に侵攻する手前までいきました。

しかし孫策は、急激な勢力拡大により、恨みも買っていたため、暗殺で最後を迎えたのです。

垓下の戦いで敗北した西楚の覇王項羽は、江東で再起を行いませんでしたが、三国志の孫策伯符(そんさくはくふ)が小覇王として項羽の再来を演じました。

⇒江東の小覇王!孫策伯符死因、意味、太史慈一騎打ち、周瑜呂蒙も解説

スポンサーリンク

まとめ:垓下の戦いがなぜ起こったかをわかりやすく解説と楚漢戦争天下統一と四面楚歌

垓下の戦いが、どのような経緯が勃発し、終決したかをわかりやすく解説してきました。楚漢戦争がもっと長引いていたら、匈奴の冒頓単于が、参戦していたかもしれません。

そして、スキピオ対ハンニバルのザマの戦いと垓下の戦いが、同時期くらいに行われたことも説明してきました。

項羽もハンニバルも一時期は隆盛を極めていたので、大将軍の生き方の難しさも窺えるでしょう。

また、劉邦が四面楚歌を用いて、西楚の覇王項羽の士気を挫いたことも述べてきました。

項羽の部下に、四面楚歌を思い付くような武将がいれば、形勢はまだまだ分からなかったのではないでしょうか。

垓下の戦いは、前漢の劉邦の天下統一を決定的なものとし、項羽や韓信や彭越らの楚漢戦争の将軍たちが没落する、大きいきっけにもなりました。

⇒項荘!剣舞誰、鴻門之会作者、性格、項伯張良、樊噲范増、項王も解説

重要なお知らせ

スポンサーリンク

おすすめ中国史商品検索窓口

 

 

↓中国史大人気関連記事↓

中国史史記と三国志のカテゴリー

-古代中国史の重要語句や故事成語ことわざ