三国志の魏延と諸葛亮は、反骨の相で犬猿の仲なのです。
魏延が反骨の相を持っているので、諸葛亮はずっと警戒していました。どのような事件で、諸葛亮は魏延を油断出来ないと思ったのでしょうか。
そして、諸葛亮の方が主君劉備との関係が深いのですが、魏延は遠慮せずに諸葛亮たちを批判していました。
正直な性格と言うべきか、怖いもの知らずと言うべきなのか・・・
また魏延は、南蛮王孟獲戦でも活躍しました。諸葛亮からどのような策略を授かったのでしょうか。
他にも、魏延は諸葛亮が祈祷をしている際に、出くわしました。魏延と諸葛亮はあまり良い関係ではないのですが、どのような事態が起きたのでしょうか。
三國志の魏延と諸葛亮を詳しく解説していきます!
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目次
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諸葛亮は魏延が頭蓋骨が後ろに飛び出ている反骨の相があると指摘したのです
三国志の魏延には、背信をし易い証な反骨の相があるため、諸葛亮は魏延を疎んじていました。
諸葛亮は魏延が、反骨の相を発揮し劉備を打ち取って、魏に鞍替えすることを危惧していたのかもしれません。
そして、諸葛亮が警戒していたからなのか、魏延は蜀漢を明確には裏切ることはありませんでした。
諸葛亮が魏延の手綱を締めずに、そのままにしていたら、劉備か劉禅が斬られていたのでしょうか。
蜀漢は、敵国魏と比べると強国とは言い難く、魏延なら魏の方が活躍出来たかもしれないのです。
魏延には、劉備から重用してもらった恩があったのでしょうか。
魏延は特徴的な頭蓋骨の反骨の相だったので、諸葛亮から非難されていましたが、蜀漢に仕え続けました。
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魏延が反骨の相を発揮すると警戒されたため息子と子孫まで処刑されたのです
三国志の魏延は、諸葛亮が最後を迎えると、威張ろうとしたので、蜀漢の他の武将たちに打ち取られました。
魏延が、魏国に鞍替えしようとしたという話もありますが、蜀漢に長らく仕えていながら、わざわざ急に魏に付くことは不自然でしょう。
魏延は尊大で威張っていたため、蜀漢の楊儀たちから嫌われていたので、諸葛亮が死去した後を危惧され、魏延は追い込まれたのが真相ではないでしょうか。
そして魏延だけでなく、仇討ちを警戒され、魏延の子孫たちも最期を与えられました。
ですので、魏延の子孫は今はもう存在していないと言えるでしょう。
魏延は諸葛亮の最後が来たので、自分の時代が訪れたと思ったら、楊儀たちに討たれました。
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魏延は豪胆な性格で諸葛亮を臆病と批判したり楊儀を泣かせたりしていたのです
三国志の魏延は、傲慢な性格で自分の正しさで、諸葛亮と楊儀を非難していました。
ですが、魏延は蜀漢随一の武勇を誇っていたので、諸葛亮からの処罰を免れていたのです。
ただ、諸葛亮の死後は、魏延を統括出来る人材がいないため、諸葛亮は魏延の処罰を他の者に命じていました。
特に楊儀は、魏延と何度も衝突していたので、やっと魏延を除けたため喜んだのです。
楊儀は魏延と言う仇敵がいなくなったため、蜀漢の実権は自分だと考えていました。
ですが楊儀は、そうならなかったので、第二の魏延になっていったのです。
魏延文長(ぎえんぶんちょう)は、自分の武勇に自信があったため、諸葛亮や楊儀を普通に批判していました。
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南蛮王孟獲との戦いで魏延が諸葛亮の命で擬兵の計を行ったのです
三国志の魏延は、諸葛亮が南蛮兵の疑り深さを利用した擬兵の計略に、参加しました。
魏延は勇猛な将軍なので、諸葛亮のやり方は気に食わないのですが、命令を遵守したのです。
諸葛亮は腹心の参謀馬謖と共に、南蛮を心から心服させようと考えていました。
ですので、南蛮遠征の目的は敵の殲滅ではなく、孟獲たちの戦意を削ぎ、味方とすることにあったのです。
馬謖は南蛮心服に功績がありましたが、街亭の戦いで無理に登山を決行し、蜀漢軍に大ダメージをもたらしました。
魏延は南蛮王孟獲に、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)から指示された擬兵の計を仕掛けることで、蜀漢の南方平定に貢献したのです。
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劉備の勇猛な義兄弟で五虎大将軍の張飛ではなく魏延が漢中太守就任
三国志の魏延は、漢中という蜀漢の防御の最前線の地位に、抜擢されました。
荊州方面では、劉備のもう一人の義兄弟関羽が活躍していたので、多くの武将たちが張飛の漢中太守就任、と考えていたのです。
そして魏延が、劉備から重用されていたという事情もありますが、張飛が部下に八つ当たりする性格だったため、重要な立場は任せられませんでした。
魏延も、諸葛亮から反骨の相があると批判されてはいましたが、張飛ほどの悪質性が無かったのです。
また元々劉備は、義兄弟の関羽と張飛や趙雲と共に頑張っていたため、諸葛亮でも、張飛の性格を批判するのは難しかったのでしょう。
魏延は、五虎大将軍の張飛を差し置いて、劉備から漢中太守に任命されました。
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諸葛亮が延命の祈祷をしている際に無理に入った魏延
三国志の魏延は、諸葛亮が寿命を延ばすための祈祷をしている儀式の邪魔をしてしまいました。
魏延と諸葛亮は、とことん相性が悪いのでしょう。
ただ、諸葛亮が魏延を反骨の相として非難し続けたため、自分に跳ね返って来た、因果応報とも言えるかもしれません。
諸葛亮は、自分自身が有能な人材を集められなかったので、魏延を使うしかないのです。
にも関わらず、魏延をどうにかして処罰しようとしており、諸葛亮は矛盾していると述べられるでしょう。
劉備は魏延を上手く使っていましたが、諸葛亮にも寛容さがあれば、もっと有能な人材が集まったかもしれません。
魏延は蜀漢のために武勇を示してきましたが、諸葛亮の延命祈祷を妨害してしまいました。
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長沙太守韓玄を見限って斬ったため諸葛亮に警戒された魏延
三国志の魏延は、韓玄よりも劉備に将来性を感じたので、主君韓玄を討って鞍替えしました。
ですが諸葛亮は、劉備から三顧の礼を受け劉備に忠誠を誓っているため、魏延の行動をあまり理解出来なかったのです。
ただ三国志の乱世では、主君をどんどん変えるというのは、良くある話と言えます。
それに劉備自身も、超世の傑曹操に味方したり四世三公の名門袁紹に付いたり、荊州の劉表のところにいたりしているのです。
劉備は、魏延を武勇に優れているとして重用していたのは、主君への裏切りを理解可能な面もあったのでしょう。
魏延は、太守韓玄を斬り落として劉備に味方しましたが、諸葛亮は魏延の裏切りを嫌いました。
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まとめ:三国志の魏延の反骨の相な能力性格と諸葛亮孔明
三國志の魏延は、高い能力を持っていながらも、諸葛亮から信用されていなかったことを解説しました。諸葛亮が疑り深く、慎重な人物だったからなのでしょうか。
魏延は結局、子孫含めて処刑されたことも説明しました。子孫まで処罰されるなら、子孫たちも魏延の性格を矯正すべきだったのではないでしょうか。
そして魏延が、諸葛亮だけでなく有能な楊儀とも対立していたことも述べました。魏延のプライドは、勇敢さと共に災難も呼んだのでしょう。
また、魏延が諸葛亮に最後を与えてしまったことも書きました。魏延と諸葛亮は、最初から因縁の関係なのでしょう。
魏延は反骨の相があったために、賢者な諸葛亮から理解されませんでした、一つの事ですべてが悪になることもあるのでしょうか。