三国志の世界には、劉備や曹操などの英雄だけでなく犯罪者もおり、その連中をまとめ上げたのが張燕です。
張燕が率いたのは、黒山賊ですが、なんと何十万もの大軍でした。結局中身は大した連中ではないですが、何十万もいると凄さはあるでしょう。
そして張燕は、飛燕とも呼ばれていました。素早い動きで活躍した張燕ですが、スピードがあると必ず良いのでしょうか。
また、劉備の部下で有名な趙雲が、なんと黒山賊にいたとされているのです。どういう経緯で、趙雲が張燕と共にいたのでしょうか。
他にも、黒山賊に似ている白波賊も書いていきます。同じ賊でもいろいろいるので、ごっちゃにならないように注意しておいてください。
三國志の張燕を詳しく解説していきます!
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目次
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盗賊団や犯罪者の集まり黒山賊の張燕
三国志の張燕は、アウトローな連中を統括する人物で、黒山賊と呼ばれる集団は、数十万人ほどいました。
犯罪の集団ですから危険ですが、見方を変えると、悪い奴が一カ所に集まっているので、管理しやすいとも言えるでしょう。
そして黒山賊は危険なので、後漢朝廷は討伐軍で攻めました。ですが、なかなか倒せなかったのです。
黒山賊の代表の張燕は、後漢朝廷に自分から投降しました。
後漢政府は、勝利していないにも関わらず黒山賊を制圧出来たので、張燕に褒美を与えるしかなかったのです。
後漢朝廷は、悪な董卓が牛耳ったり野蛮な黒山賊を懐柔したりで、本当に衰退していると述べられるでしょう。
黒山賊の張燕は、後漢朝廷に何回も戦で勝利しましたが、結局降参することで、地位を獲得しました。
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後漢で専横な董卓と争い白馬将軍公孫瓚と組んだ黒山賊の張燕
三国志の張燕は、一応後漢側だったため董卓と戦い、公孫瓚に味方しました。
董卓は、盟主袁紹の反董卓連合軍に敗れ去ったのです。黒山賊の張燕の読みは、当たっていたと言えるでしょう。
そして、白馬将軍公孫瓚に付いたことで、四世三公の名門袁紹と争うことになりました。
公孫瓚は易京に巨大な防御陣を築いたことで、袁紹に持久戦で勝とうとしたのです。
ですが、袁紹が地下道を作る事で、易京を攻略してしまい、公孫瓚も最後を迎えました。
袁紹も後には官渡の戦いで、曹操に敗れますが、易京戦では上手く奇策で勝ったのです。
黒山賊の張燕は、董卓と戦い袁紹とも勝負しましたが、味方の公孫瓚伯珪(こうそんさんはくけい)が敗れてしまいました。
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黒山賊の張燕は超世の傑曹操に味方し素早いので飛燕と高評価でした
三国志の張燕は、時代の覇者である曹操に付くことで、黒山賊の仲間が戦死する中、上手く生き残りました。
そして張燕は、迅速な動きで評判だったため、飛燕とも呼ばれていたのです。
曹操軍には電光石火な夏侯淵もいたので、曹操陣営では動きが早いと評価され易いのでしょう。
伝説的な兵法家孫子も、兵は拙速を尊ぶと述べています。
どんな物事も、とにかくどんどん先に進んで行くのが、望ましいのかもしれません。
ただ、定軍山の戦いで、夏侯淵は自らが率先して行う迅速さの弱点を突かれ、最後が来ました。
敵の軍師法正がかなり賢いので、夏侯淵の弱味だけのせいではないかもしれませんが・・・
黒山賊の張燕は、スピード感のある行軍で、飛燕と称賛されていたのです。
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蜀漢の五虎大将軍趙雲が張燕の黒山賊に参加していた噂があります
三国志の張燕の黒山賊には、なんと劉備から高評価な趙雲がいたとされているのです。
黒山賊は、最盛期には何十万もの大軍だったため、その時に趙雲がいたのかもしれません。
白馬将軍公孫瓚の元に一時期趙雲がおり、黒山賊張燕と公孫瓚が提携していた時もあるのです。
趙雲は、黒山賊は犯罪者の集団なので、さすがにヤバいと考えて、公孫瓚に付いたのでしょうか。
ちなみにその後に、趙雲は公孫瓚も見限り、劉備に鞍替えしています。劉備は、蜀漢の初代皇帝となるので、当たりと述べられるでしょう。
趙雲は、かっこ良いイケメンで立派な人物と、多くの人が考えていますが、どちらが本当の姿なのでしょうか・・・
黒山賊の張燕の元に、趙雲子龍(ちょううんしりゅう)がいたと言われており、今ままでの趙雲像が覆る人もいるかもしれません。
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人中の呂布馬中の赤兎の名を知らしめさせられた黒山賊の張燕
三国志の張燕は、黒山賊の大軍を率いていながら、小軍勢の呂布に大敗しました。
- 張燕以外の黒山賊の張白騎と于毒と孫軽
- 白波賊の頭目は韓暹で黄巾の乱に便乗していました
呂布は董卓と仲違いした後、名門袁紹に付いていたのです。
袁紹は黒山賊張燕と戦っていたため、呂布が攻撃し何回も連続で急襲し、黒山賊軍を壊滅させました。
呂布は功労者ですが、袁紹は扱いきれず、袁紹自身も呂布に攻撃されたのです。
そして呂布は、乱世の奸雄曹操とも激戦を行いますが、結局人を裏切り過ぎて処刑されました。
呂布が、かなりの裏切り者で悪という点を見ると、黒山賊でも張燕を率いて活躍出来たかもしれません。
黒山賊の張燕は、袁紹に味方した呂布奉先(りょふほうせん)から激しい攻撃を受け、敗北しました。
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張燕以外の黒山賊の張白騎と于毒と孫軽
三国志の張燕の黒山賊には、于毒と張白騎と孫軽もいました。
張白騎は、白馬に乗っていることが多い者だったので、白騎と名付けられたのです。
今の日本では姓名があるのが普通ですが、昔の中国ではちゃんとした名前が無い者もいました。
黒山賊は、罪人の寄せ集めなので、勝手に凄そうな名前を名乗ることで伯を付けようとしたのです。
そして黒山賊には、眭固(すいこ)もいます。眭固は長らく暴れ回っていましたが、占い師から名前といる場所が良くないと忠告を受けたのです。
眭固は、予測通りすぐに最後が来てしまいました。
張燕のいた黒山賊には、眭固と張白騎だけでなく、孫軽と于毒も所属していたのです。
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白波賊の頭目は韓暹で黄巾の乱に便乗していました
三国志の黒山賊張燕以外にも、白波賊の韓暹が勢力を拡大していたのです。
太平道の張角が、後漢朝廷を倒すために黄巾の乱を起こしましたが、韓暹も漁夫の利を得ようとしました。
そして白波賊の韓暹は、いつの間にか後漢側になり、献帝を助けたことで、大将軍に就任したのです。
ですが、韓暹は白波賊の気分で好きに論功行賞を行ったため、後漢役人といさかいになりました。
また、日本の源平合戦の際に、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より先に京都に攻め上ったのが、木曽義仲です。
木曽義仲は、朝廷から朝日将軍に任命されると、好き勝手にしたため、後には朝廷から嫌われました。
白波賊の韓暹(かんせん)は、後漢のために働いたので出世しましたが、日本の朝日将軍木曽義仲と同じような末路となったのです。
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まとめ:三国志の張燕(ちょうえん)は飛燕な黒山賊
三国志の張燕が、黒山賊としてどのような活躍をしたかを解説してきました。どんな集団でも、どこかが突き出ていればセーフなのでしょうか。
張燕が、なぜか悪なはずの董卓と戦ったことも説明しました。同じ悪でも質が違うのでしょうか。董卓が死去した後も、張燕は結構長生きしています。
そして張燕は、安牌と言える曹操に付いたことも書きました。張燕は生粋の悪というよりも、強い方に付く悪なのでしょうか。
また呂布が、黒山賊の張燕を簡単に撃破したことも記載しました。呂布がいなければ、黒山賊ももっと続いていたかもしれません。
罪人の集団に過ぎない黒山賊が有名なのは、張燕の手腕かもしれません。