劉邦と劉備!似てる子孫、性格どんな人?三国志関係比較、項羽も解説

前漢の初代皇帝高祖劉邦の子孫が、三国志の蜀漢の昭烈皇帝劉備なのです。

三国志には、劉備だけでなく江東の小覇王と称された、孫策がいます。劉邦の宿敵西楚の覇王項羽の再誕、と言うべき武将なので、若死にが悔やまれるでしょう。

そして、三国志の劉備に優秀な部下がいたように、祖先の劉邦にも前漢の三傑の張良や韓信や蕭何がいました。劉邦や劉備のように皇帝になるには、有能な家臣に慕われなければならないのでしょう。

また劉邦の方が、三国志の劉備よりも度量が広く、仇をも味方と出来たのです。やはり劉備は、劉邦の子孫に過ぎない偉人だったのでしょうか。

劉邦と三國志の劉備を詳しく解説していきます!

⇒劉邦について!どんな性格の人?部下、雍歯、張良、項羽、劉備も解説

⇒三国志劉備玄徳の性格!魅力的な人柄、カリスマ性、エピソードの話

スポンサーリンク
おすすめ中国史商品検索窓口

楚漢戦争で西楚の覇王項羽に勝利した劉邦の子孫が仁義と桃園の誓いで有名な三国志の劉備です

劉邦は西楚の覇王項羽に勝った後、上手く前漢を統治したため、漢は何百年も続き、三国志の劉備が子孫として誕生しました。

しかし後漢の最後の皇帝献帝劉協は、乱世の奸雄曹操に操られ実権は無く、曹操の息子曹丕に皇帝の地位も奪われたのです。

ですので、劉備は蜀漢で昭烈皇帝に即位し、漢を存続させようとしました。

ちなみに、曹丕の子孫の皇帝は、司馬懿の子孫に実権を奪われていき、後漢のように滅んでいったのです。

三国志の劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)の子孫として、献帝劉協伯和(りゅうきょうはくわ)の後漢の流れを絶やさないために、昭烈皇帝に就任しました。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

三国志の劉備は劉邦の子孫の中山靖王の末裔で西楚の覇王項羽から時系列で約400年後に江東の小覇王孫策が出現したのです

劉邦の末裔の中山靖王の子孫劉備が、三国志に現れた際に、項羽の再来と言うべき孫策もいました。

孫策は、凄まじいスピードで江東を傘下に収めたので、別名が江東の小覇王だったのです。

劉備が西の蜀漢から曹操を攻撃し、東の江東から孫策が侵攻していれば、魏は一気に壊滅したのではないでしょうか。

しかし史実での孫策の急速な勢力拡大は、恨みも増幅させており、孫策は敵の残党に討たれ最期が訪れました。

劉邦の子孫中山靖王の末裔劉備が、楚漢戦争の約400年後に登場し、西楚の覇王項羽(こうう)と似ている江東の小覇王孫策伯符(そんさくはくふ)も現れたため、三国志の劉備と孫策が共闘していれば、魏と曹操に勝てた可能性もあるのです。

⇒江東の小覇王!孫策伯符死因、意味、太史慈一騎打ち、周瑜呂蒙も解説

スポンサーリンク

劉邦に前漢の三傑の蕭何や韓信や張良がいたように三国志の劉備にも関羽や張飛や諸葛亮がいたため家臣関係の有能さが似てるのです

劉邦が楚漢戦争で勝者となり、皇帝に即位出来たのは、有能な部下の助けがあったからで、劉備が優秀な家臣に支えられていたことと酷似しています。

そもそも劉邦自体がそこまで優れておらず、歳を取ってもその辺の亭長に過ぎず、劉備も歳を重ねても志を果たせず、髀肉之嘆でした。

しかし劉備は三顧の礼で諸葛亮を招いて、荊州と益州を獲得し、劉邦は楚漢戦争で張良と韓信と蕭何の援護で、項羽に最期を与え天下統一を達成したのです。

三国志の劉備が年齢を重ねても髀肉之嘆(ひにくのたん)でありながら、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の補佐で蜀漢皇帝となったように、劉邦も歳を重ねて亭長だったにも関わらず、優れた前漢の三傑の援助で天下を得たことは、似てるでしょう。

⇒張良と諸葛亮!世界最強軍師、孔明、太公望、蕭何、韓信、劉備も解説

三国志の諸葛亮は主君劉備のために天下三分の計を献策しましたが蒯通は劉邦の大将軍韓信に天下三分の計を進言しました

劉備は、軍師諸葛亮の計略で、荊州と益州を獲得し中国を曹操と孫権と分け合いましたが、劉邦は天下三分の計で部下の国士無双韓信に出し抜かれそうになったのです。

劉邦が漢に左遷された際、国士無双韓信がいたからこそ、項羽軍の雍王章邯に勝ち、魏や趙や斉にも連勝出来ました。

ですので韓信の軍師の蒯通は、韓信が独立しても項羽や劉邦が侵攻不可能と判断し、天下三分の計を述べたのです。

しかし韓信は、劉邦が大将軍に抜擢してくれた大恩を優先しましたが、後に謀反で最期を加えられました。

三国志の劉備は諸葛亮との水魚の交わりな関係で、益州と荊州を掌握し、劉邦は配下の国士無双韓信(かんしん)の軍師蒯通(かいとう)の天下三分の計で、天下を失いそうになったのです。

⇒蒯通!天下三分の計能力、淮陰侯韓信、史記、楚漢戦争ことわざも解説

スポンサーリンク

謙虚で仁義な性格の三国志の劉備も先祖と比較すると仇敵雍歯を上手く待遇出来た劉邦には及ばないでしょう

劉邦は天下を掌握する際に、犬猿の仲だった雍歯にもしっかり褒美を送れるほど、非常に器の大きい性格でした。

しかし劉備は、関羽が呉の孫権に最後をもたらされると、魏の討伐という大志を忘れ夷陵の戦いを行い、大敗したのです。

ここで劉備が気持ちを抑え、呉を許し魏への北伐に共に向かっていたら、劉備の時代に漢が再興していたかもしれません。

また劉備は、魏と直接対決するよりも、呉を併合した後の方が、天下統一し易いとも考えていたのではないでしょうか。

三国志の劉備が、義兄弟関羽(かんう)の恨みで夷陵の戦いを引き起こしたのと異なり、劉邦は宿敵雍歯(ようし)を礼遇することで、家臣の厚い信頼を獲得しました。

⇒劉備は劉邦の子孫?関係性や性格の違いを解説します

スポンサーリンク

三国志の劉備は息子の劉禅よりも諸葛亮を信頼する関係で先祖の劉邦は最後の間際に妻の呂雉皇后に後事を語っていたのです

劉備は子供の劉禅阿斗が皇帝にふさわしくなければ、諸葛亮が成り代わって欲しいと述べ、劉邦は嫁の呂雉に誰が信頼に値するかを力説しました。

劉邦は蕭何や曹参を丞相に推していましたが、劉邦の死後は、呂雉が実権を掌握したのです。

そもそも劉邦が後事を呂雉に言うほどなので、呂雉が真の後継者であることを、劉邦も認識していたのではないでしょうか。

そして呂雉は、対抗勢力だった戚夫人を人豚の刑で始末し、前漢で権勢を極めていったのです。

前漢の初代皇帝高祖劉邦は、呂雉(りょち)皇后に丞相の人事を語ることで、妻の権力掌握を是認し、三国志の劉備は諸葛亮に後事を託すだけでなく、後継者になることも容認しました。

⇒呂雉と三国志!呂不韋エピソード、呂后美人最後、戚夫人人豚も解説

劉邦は始皇帝の巡幸に憧れ子孫の三国志の劉備も天子になることを目指しましたが項羽は嬴政の地位を奪おうとする性格だったのです

三国志の劉備は劉邦の子孫らしく、皇帝の立場を目標にしていたのですが、西楚の覇王項羽は嬴政を凌ごうとしました。

項羽は祖父の項燕が、始皇帝の師の王翦に敗北し、最期をもたらされたので、秦への復讐を生き甲斐としていたのです。

ですので、劉邦や劉備のように、穏便に皇帝になろうとする発言ではなく、嬴政の立場を取ろうという発想になったのでしょう。

そして項羽は、秦への恨みを晴らし役割を終えていくことで、劉邦が台頭し、再び中国が統一されていったのです。

西楚の覇王項羽は、祖先の恨みで嬴政(えいせい)の地位を奪取することを目指しましたが、劉邦と子孫の三国志の劉備は、皇帝の立場を順当に得ようとする性格でした。

⇒始皇帝と劉備!水銀陵墓死因、妻寵姫、子孫日本、本名えいせいも解説

スポンサーリンク

まとめ:三国志劉備は劉邦に似てる中山靖王の子孫と家臣比較と中国の項羽の性格どんな人?

前漢の初代皇帝高祖劉邦と、子孫の三国志劉備が、似てることを解説してきました。劉備が三国志で活躍出来たのは、劉邦の後援があったからでしょう。

そして、天下三分の計で雄飛した劉備と、危険な状況に陥りかけた劉邦の比較も、説明してきました。劉邦は心が広過ぎて、野心家な家臣も多く抱え込んでいたのでしょう。

また、劉邦の後事が結局は妻の呂雉皇后に委ねられ、劉備の大志を継いだのが諸葛亮だったことも述べてきました。有能な君主の元には、自然と優秀な後継者が集まっているものなのでしょう。

劉備は偉大な前漢の初代皇帝劉邦の子孫でしたが、三国志の世界を統一出来るほどの器の大きい性格では、なかったのです。

⇒項羽と三国志!劉邦時系列、呂布、異名最強、性格、項王能力も解説

重要なお知らせ

スポンサーリンク

おすすめ中国史商品検索窓口

 

 

↓中国史大人気関連記事↓

中国史史記と三国志のカテゴリー

-蜀漢の武将