張飛死因!最後エピソード、死亡逸話、最期どんな人?劉備関羽も解説

三国志劉備の義理の弟としても有名なのが、張飛でしょう。

張飛は性格が暴力的で、適当に下の者に当たり散らしていました。張飛ほどの有名武将でも、変なことをしていると危ない結果になるのでしょう。

そして、張飛は戦で功績を得たにも関わらず、太守就任になりませんでした。どんなに実績があっても、性格が危険だと難しいのでしょう。

また、張飛の義兄弟の関羽や劉備の死因も、説明していきます。張飛と深い関係の二人なので、張飛の死因も深く理解するのにも役立つでしょう。

ちなみに、張飛の字は翼徳(よくとく)と益徳(えきとく)があるのです。

三國志の張飛の死因を詳しく解説していきます!

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張飛は気軽に部下を罰していたことが死因となりました

三国志の張飛は、部下を侮り立場で簡単に処罰していたので、憎まれて最後となったのです。

張飛は万夫不当の豪傑なので、真正面から戦えば負け知らずと言えます。

ですので、張飛を憎んでいた范彊と張達は、張飛が寝ている時に斬ったのです。

張飛に少しでも部下を思いやる気持ちがあれば、最期はもっと先だったでしょう。

そして、張飛は范彊と張達以外の部下にも、キツい対応だったため、いずれは誰かに処刑される運命だったのかもしれません。

しかも張飛は、強烈な対応をした部下を周りに普通に配置していました。

他人の心が分からない人は、人を率いる資格が無いのではないでしょうか。

張飛は暴力的な言動で部下を酷使したので、自業自得で亡くなりました。

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張飛に最後を与えた范彊と張達の最期


三国志の張飛を暗殺した范彊と張達にも、上司殺害にふさわしい悲惨な末路が待っていました。

范彊と張達は、張飛の首を手土産に呉に降伏したのですが、呉王孫権は蜀漢と戦いたくないと考えていたのです。

呉の孫権は、范彊と張達を労いつつも、蜀漢の報復を警戒し、范彊と張達を軟禁状態にしました。

結局劉備は、復讐に呉に攻め込んで来て、張飛の子供の張苞に打ち取られたのです。

張飛の首を取らずに、范彊と張達が呉に亡命していた場合、そのままセーフだったかもしれません。

他にも、魏や他の異民族の元であれば、范彊と張達が、逃げ切れたのではないでしょうか。

范彊(はんきょう)と張達(ちょうたつ)は、張飛への恨みを晴らしましたが、張飛の息子の張苞に仕返しされました。

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漢中で張郃に勝利したにも関わらず張飛は太守になれませんでした

三国志の張飛は、漢中で魏の名将張郃を謀略で打ち負かしましたが、漢中の防備を任せてもらえなかったのです。

  • 関羽の死因は呉と争って見下し真価を見落としたことでしょう
  • 劉備の死因は関羽と張飛が無念な最期を遂げた事と言えます

劉備は、張飛が部下にキツい性格を警戒しており、漢中という重要地域の防御は、張飛には難しいと考えていました。

そして魏延を反骨の相があるとして、諸葛亮は危惧していたのですが、武勇に優れているため、劉備は高評価していたのです。

劉備は、漢中太守の件で張飛の問題点を認識していながら、矯正出来ていませんでした。

劉備が張飛を常にもっと近くに置いておけば、無残な最後にはならなかったでしょう。

張飛は、魏延に漢中太守を奪われていながら、自らの性格を直さず、後の死因となってしまったのです。

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関羽の死因は呉と争って見下し真価を見落としたことでしょう

三国志の張飛の兄の関羽は、呉と対立のある荊州地域を統括し、呉の人々を侮っていたことで、最後が来たのです。

張飛は地位や能力のある人物を敬いましたが、関羽はずば抜けた才能や絆が無ければ、武将を甘く見ていました。

そして、関羽は北方の魏の領土も狙っていたので、何とか軍勢を魏の方面に向けたかったのです。

呉には呂蒙と陸遜がおり、関羽の望みを叶えるかのように、下手に出た書面を関羽にあげました。

元々関羽は呉の武将を見下していたので、やはりこの者たちは大した人物ではなかった、と確信したのです。

張飛と義兄弟の関羽は、呉の作戦を見抜けず、魏に軍勢を使い過ぎたことで、呉から攻められ、亡くなりました。

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劉備の死因は関羽と張飛が無念な最期を遂げた事と言えます

三国志の劉備は、信頼していた関羽と張飛が、天寿ではなく呉の関係者に討たれたことで、自らの最後も近付きました。

劉備は関羽が呉の呂蒙に打ち取られたことで、報復の戦準備をしていた矢先、張飛も反逆され最期となったのです。

劉備は非常に動揺すると共に、呉への復讐を固く決意しました。

そして、劉備は何十万もの軍勢を繰り出して、呉に攻めかかったのです。呉の主君孫権も恐れおののき、和睦を希望したのですが、劉備の怒りが収まることはありませんでした。

一気に劉備が呉を併合するかと思ったら、呉には陸遜という切り札がおり、劉備軍を充分に引き付けて火計を仕掛けて負かしたのです。

劉備は、張飛や関羽と仁義で深く結び付いていたことが、逆に死因となったと言えます。

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張飛は関羽の敵討ちのためにすぐに白装束を作る事を命じ死が来ました

三国志の張飛は、深い絆な関羽のことしか眼中になく、白装束がどれくらいで完成するかを考える余裕がなかったのです。

しかも、部下を体罰でどんどん脅したため、敵に報復する前に敵を増やしてしまいました。

そして、張飛は酒癖が悪く、関羽のことの気を紛らわせる酒で更に態度が悪化していたのです。

漢中の戦では張郃を翻弄した張飛の酒作戦も、関羽のことでの怒りでは、する気にもならなかったのでしょう。

かつて張飛はお酒で失敗し、呂布に領土を奪われたように、今度は自らの命を部下に取られたのです。

張飛は、呉への仕返しのための白装束の無理強いで、部下を追い詰めてしまい、自らに刃が戻ってきました。

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張飛の有名な逸話と言えば長坂の戦いの大喝エピソードでしょう


三国志の張飛は長坂の戦いで、曹操の大軍に対して強烈な喝を見せることで、劉備の死地脱出を助けました。

張飛が決死の覚悟で、大喝しなければ、長坂の戦いが劉備の死因になったかもしれません。

そして、張飛は身長190cmくらいなので、本気で喝したら、どのような軍隊も恐れるでしょう。

また張飛の妻は、夏侯淵の息子の夏侯覇の親戚、と言われています。

後に夏侯覇が蜀漢に落ち延びて来るため、非常に因果な結婚と述べられるでしょう。

張飛が長生きして魏に攻め込んでいたら、夏侯覇がその時に呼応したかもしれません。

張飛は、長坂の戦いで劉備の死が近付いた際に、大喝で敵軍に対抗し、皆の安全を守りました。

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まとめ:三国志の張飛(ちょうひ)の死因と最期

三國志の張飛の死因が、どのようなものだったかを解説してきました。身から出た錆という故事成語がありますが、まさに張飛のことでしょう。

そして、張飛が部下ばかり痛めつけていたことも説明しました。いわゆる弱い者いじめですから、張飛はただの問題児でしょう。

また、張飛は関羽が最後となったことで、気が狂い、部下に更に強烈になったことも記載しました。

関羽が生きていれば、蜀漢が中華を統一する未来も、あり得たのではないでしょうか。

関羽が最後となった時点で、劉備と張飛の将来も決定したと言えるでしょう。

他にも、張飛の生前のエピソードも書きました。張飛の輝いていた逸話があるだけに、最期は非常に残念と述べられます。

張飛は三国志で人気な武将ですから、死因も知っておくべきでしょう。

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