三国志の宦官十常侍と似ている害悪が、趙高でしょう。
趙高は、法律の能力が高かったため始皇帝に高評価され、胡亥の指導を任されました。胡亥が趙高ではなく、蒙恬や李斯を師としていれば、秦の未来は明るかったかもしれません。
そして、胡亥にどんどん良い思いをさせることで、趙高は秦を意のままに操っていきました。現代でも、良い話には裏があることが多いので、注意すべきでしょう。
また宦官の趙高は、陳勝呉広の大反乱が起きても、私利私欲を優先していました。秦の最期の良心と言うべき丞相李斯は、難局を乗り切れたのでしょうか。
他にも、指鹿為馬の故事成語の語源も、説明していきます。趙高の悪事は大き過ぎたので、故事成語にまで影響を与えているのです。
趙高と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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秦の始皇帝の息子胡亥の教育係を務めた宦官の趙高の能力
趙高は、法律に精通していたため、始皇帝の子供の胡亥を指導する役割を与えられました。
そもそも秦は、孝公が商鞅を重用して以来、法治主義を重視していたのです。
ですので、始皇帝の息子たちも、法律を把握することが求められるため、法に詳しい趙高も厚遇されました。
そして趙高は、胡亥との親しい間柄を利用し、始皇帝が最後を迎えると、後継者を無理に変更したのです。
ちなみに、秦の昭襄王は、宰相范雎が王稽に連座しなければならない状況で、范雎のために法治を曲げたこともあります。
趙高は、商鞅(しょうおう)の統治以来法治主義の秦の始皇帝に重んじられ、胡亥の指南役となり、後に胡亥を無理やり後継者としました。
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二世皇帝胡亥を堕落させ宦官趙高は権力を掌握したのです
趙高は、胡亥を意のままに操るために、胡亥にどんどん贅沢をさせて篭絡していきました。
胡亥は元々、趙高から監督されていたこともあり、趙高の言うことを真に受けてしまったのです。
そして、より一層権力を獲得するために趙高は、丞相李斯や他の武将と胡亥が、直接会えないようにしました。
また胡亥は、阿房宮の拡大を行うことで、始皇帝以上の権勢があることを天下に示そうとしたのです。
ちなみに、章邯は大量の囚人が胡亥の建築に利用されていたため、囚人を解放することで、陳勝呉広の乱を鎮圧出来ると豪語していました。
趙高は、利益打算で天下が運営出来るという偽りを胡亥(こがい)に吹き込み、阿房宮まで増設させ、一時的な栄華を謳歌したのです。
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丞相の立場を守りたい李斯は万里の長城建造で知られる蒙恬を警戒し趙高の悪事に加担したのです
趙高は、始皇帝の遺言状を上手く改竄するために、丞相李斯の弱点を突き抱き込みました。
李斯は、秦の丞相の立場を大事にしており、蒙恬が出世し立場を奪ってしまうことを恐れていたのです。
そして蒙恬は、李斯よりも名実共に有能であり、始皇帝の後継者扶蘇からも信頼されていました。
李斯は、扶蘇を優秀な人物と考えていたので、扶蘇が始皇帝の次の皇帝になる方が望ましいと、当初は思っていたのです。
ただ扶蘇は、秦の謀略に対応出来るほどには成熟しておらず、始皇帝への孝に拘って偽の命令書を真に受け、死亡してしまいました。
趙高は、李斯(りし)が蒙恬(もうてん)を畏怖していることを利用し、始皇帝の後継者問題で味方とすることに成功したのです。
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陳勝呉広の乱に焦る丞相李斯に腰斬な最後を送り更に秦を混乱させた宦官趙高
趙高は、二世皇帝胡亥の政治が失敗し、陳勝呉広の大乱が発生しても、まだ権力に執着していました。
そして陳勝呉広の乱で、李斯の息子の李由が、反乱を鎮圧出来なかったため、李斯の責任問題に発展したのです。
李斯は反乱と通じていなかったのですが、李斯を追い落としたい趙高は、無理に罪をでっち上げました。
また李由は、劉邦の部下の曹参に最期を与えられた、と伝わっています。
曹参は、三国志の乱世の奸雄曹操の先祖なので、活躍して当然な武将でしょう。
丞相李斯が陳勝呉広の乱を平定することを主張し、趙高の権力を脅かしたので、李斯の息子の李由(りゆう)が敵と内通していると主張し、腰斬に陥れました。
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二世皇帝胡亥の悪政でぐらついた秦を見限り劉邦と交渉していた宦官趙高
趙高は、後の楚漢戦争の勝利者劉邦と話し合い、自分だけでも助かろうとしていました。
ですが、劉邦は前漢の初代皇帝に就任する人物だけあって、趙高とまともには対応しなかったのです。
そして趙高のせいで、陳勝呉広の乱に抵抗していた章邯も、西楚の覇王項羽の軍門に下りました。
章邯は、20万ほどの大軍がありながら項羽に鞍替えしたので、秦の軍事力は大幅に弱体化したのです。
また、20万くらいの秦軍が急に味方に付いたせいで、項羽と軍師范増は食糧不足に陥り、反乱も危惧されたので、生き埋めになってしまいました。
趙高は、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)との交渉に失敗しただけでなく、章邯(しょうかん)を西楚の覇王項羽(こうう)に降伏させてもいたのです。
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故事成語の指鹿為馬を行うことで趙高は二世皇帝胡亥を凌ぐ権力を獲得したのです
趙高は、自分の権力を誇示し反対する者を処刑するために、鹿を馬であると主張しました。
鹿を馬と述べたことは、胡亥も驚く事態だったのですが、結局趙高は鹿を鹿と言った者全員に最後をもたらしたのです。
そして、胡亥も本当のことを言った人物だったため、望夷宮の変で、最期に追い込まれました。
胡亥は趙高の部下から詰問された際に、しぶとく王や庶民になりたいと語り続けましたが、一切無視されたのです。
二世皇帝は、あまりにも趙高を頼り過ぎたため、いつの間にか権力を握られてしまっていたのでしょう。
趙高は、指鹿為馬を実施し、二世皇帝胡亥から権力を取り上げ最後を与え、秦での束の間の頂点を享受しました。
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胡亥謀殺の批判を免れるために宦官趙高は子嬰を秦王としたのです
趙高は、子嬰の評判が良いので、胡亥に最期をもたらしたことへの言い訳に使える、と思いました。
しかし子嬰は、趙高の予想以上の賢者であり、上手く趙高を呼び出して打ち取ったのです。
そしてかつて丞相李斯が、胡亥と趙高に陥れられそうになった際に、子嬰は趙高が悪心であると強く非難していました。
また、万里の長城建造と匈奴討伐の功労者の蒙恬が、最後を送られそうになった時にも、子嬰は昔からの忠義で有能な者を処刑するのは危険である、と主張していたのです。
趙高は、二世皇帝胡亥に責任転嫁して生き残ろうとしましたが、李斯と蒙恬の助命を望んでいた賢者な秦王子嬰(しえい)から、最後を与えらました。
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まとめ:宦官趙高(ちょうこう)の指鹿為馬な能力と三国志と李斯最後と始皇帝の息子胡亥の最期
趙高が秦の天下を、どれくらい破壊したかを解説してきました。胡亥になった途端、秦が乱れたため、始皇帝の偉大さも分かるでしょう。
そして、丞相李斯も権勢欲に囚われ、大将軍蒙恬を死亡させたことも説明してきました。李斯も始皇帝時代は、古代中国の歴史に名を残した宰相と競えるくらいの偉人、だったのですが・・・
また、前漢の初代皇帝高祖劉邦に趙高が、目ざとく接触していたことも記載してきました。秦で趙高の悪事が長続きしてしまったのは、劉邦と交渉するような卓見が、あったからではないでしょうか。
宦官趙高は、秦の始皇帝存命中は有能だったので、どんな悪人も君主次第と言えるかもしれません。