三国志の馬謖は、登山をしてしまったことでも有名なのです。
後世から考えると、なぜ馬謖が登山したのか?となるわけですが、馬謖なりの計算がありました。
それに馬謖は、能力が高く諸葛亮たちからも高評価な人材だったのです。
そして、魏の重要拠点長安も馬謖の登山と関係が深いでしょう。馬謖の動き次第では、長安を蜀漢が確保することも出来たのです。
馬謖が失敗してから言っても遅いですが、本当に馬謖は大変なことをしてしまったと言えます。
また、馬謖が街亭の戦いの登山の過ちで、最後となりそうになった際に、擁護してくれた人物がいました。大失敗した馬謖をどのように擁護するのでしょうか、見物でしょう。
三國志の馬謖の登山を詳しく解説していきます!
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目次
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馬謖が登山したことで諸葛亮の北伐も失敗しました
三国志の馬謖は街亭の戦いで、登山してしまい、蜀漢軍全体に悪影響を及ぼしたのです。
- 諸葛亮は命令違反で登山を行った馬謖を斬ることにしました
- 街亭の登山で馬謖が最後となった際に諸葛亮も趙雲も降格しました
そもそも馬謖軍は、魏軍を普通に防御することが任務でした。
ですが、馬謖は魏軍を侮り登山し、タイミングを見計らって、魏軍を一気に打ち負かすことを計算したのです。
確かに山の上は兵法でも有利なのですが、水が無く防御どころではありませんでした。
魏軍が馬謖並みの認識であれば、馬謖が大敗しなかったかもしれませんが、歴戦の勇将張郃が来たのです。
張郃はすぐに水を確保し、馬謖軍を干上がらせました。
馬謖は、机上の空論で勝利を計算したことで、簡単な防御すら不可能となり、張郃儁乂(ちょうこうしゅんがい)の前に、自滅したのです。
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諸葛亮は命令違反で登山を行った馬謖を斬ることにしました
三国志の馬謖は、明確な理由もなく諸葛亮の指示を違え、蜀漢軍を大混乱させたため、斬られたのです。
泣いて馬謖を斬るという故事成語は、この時の出来事を意味しています。
人は皆すべての重要な大事なものを得る事は、出来ないのかもしれません。
諸葛亮が、街亭の戦いで重大なものを失ったような過ちを繰り返したくないなら、事前に不要な考えを捨てておくのが良いでしょう。
そして、後の諸葛亮の後継者蔣琬も、馬謖の能力の高さから、処刑をすべきでなかったと述べています。
諸葛亮は有能な人材よりも法を優先したことで、一定の成果が上がりましたが、鬼才が訪れ難くなったのではないでしょうか。
馬謖は、後でしっかり説明出来るような理由を考慮せずに登山したことで、諸葛亮から最後を与えられました。
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街亭の登山で馬謖が最後となった際に諸葛亮も趙雲も降格しました
三国志の諸葛亮は、馬謖が街亭の戦いで失敗した時に、馬謖だけの責任とせずに、自らも処分されたのです。
諸葛亮の性格で素晴らしいところは、部下に責任転嫁しなかったことでしょう。
また、長年戦果を上げてきた趙雲も処罰されているため、しっかり法が行われていると言えます。
そして、日本の戦国時代の武田信玄は、甲州法度之次第を制定し、この法度を破った際は、自分も処罰されると定めていたのです。
武田信玄も泣いて馬謖を斬るように、父信虎を国外追放し、息子の義信を最後に追いやりました。
法律を重視した国家運営をする者は、非情な決断に迫られるのでしょうか。
諸葛亮も法律を重んずる人物だったので、武田信玄と同様に、自らを罰してこそ法のパワーを示せると考えたのでしょう。
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馬謖が街亭の戦いでなぜか登山した際に長安攻撃も考えられていました
三国志の馬謖が、軽率な考えで登山した際に、蜀漢軍では長安攻略作戦も出現していたのです。
そもそもどのような国もそうですが、有能な人間と無能な人物がいるものでしょう。
長安には夏侯楙がおり、勇将夏侯惇の息子というだけで出世したような人物だったのです。
ですので蜀漢の魏延将軍は、魏軍の長安の弱点に付け込もうとしました。
しかし諸葛亮は、魏延の長安作戦が危険性を伴うとして、却下したのです。
ちなみに、魏軍も長安が危ういことを察知し、なんと皇帝曹叡が出陣しました。
長安作戦を成功させるには、街亭の戦いのタイミングしかなかったのかもしれません。
馬謖の登山で北伐が失敗する中、蜀漢のチャンスと言える魏延の長安作戦も潰えていきました。
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馬謖とは?街亭の戦いで登山する前は有能な策士
三国志の馬謖は、街亭の戦いで大失敗する前は、能力の高い参謀と考えられていました。
- 馬謖は最後にも才知を感じさせる発言をしています
- 馬謖の最後に異論を述べる蜀漢の賢者李邈
南蛮の異民族を諸葛亮が帰服させたのですが、馬謖が心を攻撃すべきと献策したことが大きいのです。
南蛮の人々が、蜀漢に何度も反抗するのは、抵抗する心を持っているからと言えます。
なので、その心を挫くような攻め方をしてこそ南蛮攻略は成る、と述べたのです。
そして、馬謖は弁舌に巧みで、呉の諸葛恪に似ているでしょう。
ちなみに、諸葛恪も結局は重要な戦いで失敗して最後が来ました。
馬謖は人のせいにはしていませんが、諸葛恪は巧みな話術で責任転嫁を行ったので、馬謖の方が人柄は上でしょう。
馬謖は、心と頭の使い方に長けている優秀な軍師でした。
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馬謖は最後にも才知を感じさせる発言をしています
三国志の馬謖は、街亭の戦いの大敗北の責任を取らなければならなかったのですが、伝説的な帝のように自分の子孫を重用してください、と諸葛亮に言い残したのです。
どのようなシチュエーションでも、学んだことが活かせることを生きて活かせていれば・・・
そして、伝説的な帝とは舜のことで、舜は禹の父を処罰しながらも禹を重用し後継者としました。
舜の禹への対応のように、馬謖は子供たちや親族を大事にしていただきたい、と述べたのです。
諸葛亮はいわゆる聖人君主を目指した人物なので、馬謖にこのように言われたら、断れなかったでしょう。
馬謖は、最後の言葉でも巧みな弁舌で諸葛亮を説得し、自らの責任が子孫に影響しないように配慮しました。
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馬謖の最後に異論を述べる蜀漢の賢者李邈
三国志の馬謖が諸葛亮に斬られそうになった際に、李邈は孟明視と子玉の事例を挙げて、馬謖を生存させることを献策しました。
孟明視の主君である秦の穆公は、名君として後世から評価されており、孟明視の失敗を許して、逆に他国に勝利したのです。
子玉は、楚の成王に仕えた武勇に優れた人物でしたが、気迫で他国の君主と戦い敗れ、心理的に追い詰められ最後となり、楚の成王自身も残念な終わり方をしました。
諸葛亮は泣いて馬謖を斬ることで、法を明らかにしましたが、蜀漢は悲願を果たせず結局魏に滅ぼされたため、楚の成王と同じになったと言えるでしょう。
諸葛亮は李邈(りばく)から忠告を受けたにも関わらず、有能で挽回する可能性のある馬謖を処刑して、蜀漢を逆に衰退させたと述べられます。
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まとめ:三国志馬謖幼常(ばしょくようじょう)の登山の意味
三國志の馬謖の登山が、なぜ行われたのかを解説してきました。何か秀でたことがあると、逆に失敗の要因になってしまうこともあるのでしょう。
諸葛亮でもミスしてしまうことも説明してきました。諸葛亮も、劉備がいてこその偉人だったのでしょうか。
そして、馬謖の後継者とも言うべき人物が姜維ですが、馬謖を斬らなければ、連携の姿も見られたでしょう。
諸葛亮は天才軍師ですが、馬謖に最後をあげた部分は、やはり激論があるのではないでしょうか。
また、馬謖が最期にかなり潔いので、もっと言い訳してしぶとく生き残る人物だったら、諸葛亮も折れたかもしれません。
街亭の戦いで馬謖の登山が重大だったように、三国志の戦いの分岐点に着目すると、ワンランク上の認識力になれるでしょう。