姜維の北伐!第五次、諸葛亮の遺志、蜀の伯約能力、評価、最後も解説

三国志で魏を攻略して漢帝室再興を目指した人物として、諸葛亮孔明が広く知られています。

実は、姜維伯約(きょういはくやく)という人物も、蜀漢を率いて北伐を繰り返したのです。

北伐の中でも注目すべきは、第五次と言えます。司馬懿と諸葛亮は、どのようなバトルを行ったのでしょうか。

そもそも初めの北伐はどういうもので、どういう結果になったかも、解説していきます。最初の北伐で、もっと上手く転がっていたら・・・

そして、諸葛亮孔明と姜維の北伐の質の違いも、論じています。ここでも、諸葛亮の格の高さが目立っているのです。

また、姜維がどのような人物かも詳しく説明していきます。姜維は周りの人々から、どう思われていたのでしょうか。

姜維の北伐についてお知らせしていきます!

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悲壮な姜維の北伐の評価、諸葛亮時代との違い

姜維は、諸葛亮孔明の遺志を受け継ぎ、北伐を何度も行いました。

ですが、諸葛亮の際はあった蜀漢の国力や人材をただ単に浪費する結果となってしまいました。

結局は、何度も北伐をしただけで、何のために蜀漢が軍隊を動かすのかという意義を無くしていたのです。

そして、劉備がいたころに存在していたような優秀な人材や奇策もあまり見られません。

三国志の姜維がしっかり人材登用を行って、関羽や張飛や諸葛亮孔明のような人材登用を行った場合、魏を圧倒出来た可能性はあるでしょう。

また、三国時代がある種完成し、蜀は蜀、魏は魏、呉は呉のように領域や人材が固定化されていたことも、姜維の北伐という変革が上手くいき難い原因かもしれません。

姜維は、北伐を何回も実行し、諸葛亮であるかのように振る舞ったが、結果が伴わなかったのです。

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第五次北伐!諸葛亮孔明と司馬懿仲達の知恵比べ

蜀漢の第五次北伐では、五丈原において諸葛亮と司馬懿の知略合戦が行われたのです。

そもそも魏としては、蜀漢と戦わずに内政を充実させれば良いので、危険を冒してまで、諸葛亮孔明と戦う必要がありません。

それに、魏陣営は司馬懿という今の時代にも伝わるほどの知恵者なので、持久戦の利点を知らないはずはないのです。

諸葛亮孔明は、人柄が良いと考えている人もいると思いますが、魏と決戦するために、司馬懿に女性向けのファッションを送り付けることで、挑発したこともありました。

司馬懿は聞き流せるほどの人物ですが、諸将が怒ったので、押さえられないことを恐れて、魏皇帝の曹叡の言葉で出撃を封じたわけです。

最終的には、孔明の寿命が尽きて、戦も終結しました。

第五次北伐で、諸葛亮孔明と司馬懿は、知力を尽くして戦ったのです。

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諸葛亮孔明の大志が示された第一次北伐


三国志の諸葛亮孔明は、馬謖と孟達を利用して北伐しようとしました。

魏の内部からも蜀漢に内応する者が現れ、他の北伐と比較すると上手くいった面も大きいのです。

孟達は、元々劉備陣営だったのですが、関羽が亡くなった際の責任を追及されることをおそれて、魏に降伏していた人物でした。

そして、孟達が蜀に再度鞍替えしようとしていると察知した司馬懿により、あっけない最期を迎えてしまいました。

また、馬謖は麓の道あたりを守備するように諸葛亮孔明に命じられていたにも関わらず、山に布陣することで、魏側に簡単に敗れてしまったのです。

諸葛亮孔明は、蜀漢の人材だけでなく、敵国魏からの内通者も活用して、北伐を成功させようとしました。

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大志ある諸葛亮と過去に囚われた姜維の北伐

大きい考えを持っていた諸葛亮孔明と過去に拘った言動な姜維では、北伐の意味が異なるのです。

諸葛亮孔明は、出師の表で自らの蜀への忠誠心を表し、魏を征討することの意義を示しました。

出師の表は、あのいにしえの大将軍楽毅の言葉を活用しているともされています。

そして、楽毅は諸葛亮孔明のあこがれの人物で、若い時に自分は楽毅のようであると述べていたのです。

反対に姜維は、同じ北伐を行っているように見えて、諸葛亮孔明のような大志はなく、やみくもに外征を繰り返してしまいました。

姜維も諸葛亮のように出師の表を書くような気概があれば、北伐の成否も異なるものになったかもしれません。

諸葛亮孔明と姜維では、同じ北伐でも違う内容と述べられるのです。

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姜維伯約(きょういはくやく)のずば抜けた能力

諸葛亮孔明は、姜維のことを涼州で一番の人材という風な評価をしています。

  • 姜維の卓越した評価
  • 敵の将軍鍾会の野心に付け込み再起を図った姜維の最後と死因

厳格さで知られる諸葛亮に認められるというのは、並の人物ではないでしょう。

ただ、馬謖を皆の反対を押し切って主将に抜擢して大敗を招いた面もあるので、ひとつの評価に過ぎないかもしれません。

三国志の姜維は、諸葛亮が亡くなった後に、蜀漢の事実上のトップの立場になっていきます。

そして、姜維は、蜀漢の費禕(ひい)からは、外征を諫められてもいました。このことで、蜀漢の存続が長くなったのかもしれません。

姜維がもしもずっと内政を重視していたとしたら、魏を国力で制する未来もあるのでしょうか。

姜維は、諸葛亮からも高評価で、優秀とされていたのです。

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姜維の卓越した評価


姜維は、他の人材に優る能力を有していたが、外征をし続けて蜀漢を疲弊させてしまいました。

三国志の姜維は、諸葛亮以外にも蜀漢の名士からも評価され、更には敵の陣営からも称賛の声が挙がっていたのです。

ただ、諸葛亮孔明は漢帝室の末裔とされる劉備から何度も要請を受けて、蜀漢に加わっていますが、姜維はその場の流れで蜀漢に付きました。

諸葛亮孔明ほどには、北伐の成果や実績を挙げられなかったのは、志の大きさの違いにあったのかもしれません。

姜維からするとあの諸葛亮孔明から評価されたのだから、無理にでも諸葛亮の夢を叶えなければというところではないでしょうか。

三國志の姜維は、優秀ではあるが、蜀漢の滅亡を早めてしまった可能性もあるのです。

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敵の将軍鍾会の野心に付け込み再起を図った姜維の最後と死因


姜維は、魏の軍勢に蜀を攻略されてしまい、敵の将軍鍾会を味方として再起をかけましたが、結局は処刑されました。

鍾会は、策略に長けていて、失敗が非常に少ないだけでなく、大きな野心を有していたのです。

そして、三国志の姜維は、鍾会が大野心家であることに気付いたため、策を弄し鍾会に取り入りました。

実は、鍾会が野心を有していることを見抜いていたのは、魏の実力者司馬昭も同じだったのです。

鍾会が反乱を起こした際に備えて、大軍を率いて蜀あたりにまで訪れて対策を講じました。

司馬昭が手を下すまでもなく、姜維と鍾会の野望に反発した兵たちに、鍾会と姜維は処刑されてしまったのです。

三国志の姜維は、一発逆転をかけて鍾会を利用しようとしましたが、結局は最後を迎えました。

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まとめ:三国志の姜維の北伐能力と評価

姜維伯約の魏攻略の北伐について、解説してきました。なかなかに魏は手強い相手だったのでしょう。

諸葛亮孔明の北伐の重要なものについても、お知らせしました。魏には司馬懿という知恵者がいたので、さすがの諸葛亮でも簡単にはいかなかったのです。

蜀漢の北伐における諸葛亮と姜維の志の違いもご紹介しました。何か強い芯があってこそ、インパクトを起こせるものなのでしょう。

そして、姜維自身の能力や評価も論じています。姜維がどのような人物かを把握してこそ、北伐がどのようなものかが、明確になるでしょう。

また、姜維の最後もお伝えしました。姜維らしい最後と言うべきか、姜維ならもっと魏を翻弄出来たと述べるべきなのか・・・

三国志の姜維は、諸葛亮孔明を知る上でほぼ出て来る偉人なので、知っておくとお得でしょう!

⇒諸葛亮孔明の子孫と現在は?子供たち、逸話、モデル?三国志の裏話

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