我が子房荀彧!意味、曹操、軍師張良、美人、最後、郭嘉諸葛亮も解説

三国志の超世の傑曹操は、軍師荀彧が前漢の三傑の一人張良に似ていたので、我が子房と呼んでいました。

曹操の部下には、我が子房な荀彧以外にも軍師郭嘉がいたのです。郭嘉は我が子房と言われず、どう評価されていたのでしょうか。

そして、蜀漢の軍師に諸葛亮がいましたが、劉備の我が子房な人物です。諸葛亮は我が子房なだけの賢者だったのでしょうか。

また、曹操の我が子房だった荀彧が、妙な最後となったことも説明していきます。我が子房と呼ばれるほどの賢人荀彧でも、間違いがあるのでしょうか。

他にも、荀彧と張良が共にイケメン風だったことも述べていきます。賢く外見も良いなら、言うことなしでしょう。

三國志の我が子房を詳しく解説していきます!

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超世の傑曹操から我が子房と評価されていたのが荀彧です

三国志の荀彧は、かつての劉邦と張良の関係のように、乱世の奸雄曹操にとって、欠かせない腹心でした。

荀彧は皆から王佐の才と称されており、荀彧を獲得した者が王者になれるほどの逸材だったのです。

実際曹操は、その辺の実力者から、後漢随一の人物と言えるまでに成長しました。

ただ、荀彧は曹操に王者の道を行わせたかったのですが、曹操のやり方は覇者と見なすべき手法だったのです。

曹操は乱世の奸雄とも称されていたので、荀彧を実は欺いていたのでしょうか。

曹操は後漢で専横な面もありましたが、終生皇帝になることはありませんでした。

荀彧は曹操から我が子房と高評価であり、曹操が出世した大きい要因でもあるでしょう。

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我が子房の意味は劉邦が張良のおかげで皇帝になれたようなものでしょう

三国志の曹操は、荀彧を我が子房と呼び、自分自身が後漢の中で飛躍する事を確信したのです。

劉邦は、秦国が厳酷に法律を適用し過ぎる事で衰退していく中、自らも軍勢を率いて決起しました。

そして張良は、自分が将軍になるのではなく、主君となるべき人材を探していたのです。

劉邦は張良と出会うとしっかり話を聞き、他の者たちとは異なる武将であることを示しました。

張良は劉邦と出会う前にいろいろな人と話しましたが、張良の話を採用出来る者は少なかったのです。

誰かが我が子房と述べる意味は、かつての劉邦(りゅうほう)と張良子房(ちょうりょうしぼう)の関係のように、自らを出世させてくれる逸材ということでしょう。

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曹操から我が子房と称された荀彧と軍師郭嘉

三国志の曹操には、張良に近い荀彧と理解者な郭嘉が、軍師としていました。

荀彧は曹操から我が子房と呼ばれていましたが、曹操から自らを良く知ってくれていると評価されていたのが、郭嘉なのです。

曹操の元には、質の異なる良い参謀が、揃っているということでしょう。

そして乱世の奸雄曹操は、天下分け目の赤壁の戦いで、孫権と劉備の連合軍に大敗しました。

曹操は郭嘉が生きていれば、赤壁の戦いで惨めな思いをしなかっただろう、と述べたのです。

荀彧すら分からなかったことを郭嘉なら対策し得たのでしょうか。

曹操の参謀には、我が子房な荀彧と、赤壁の戦いで渇望された郭嘉奉孝(かくかほうこう)がいました。

⇒三国志かくか!郭嘉名言、死因、諸葛亮、司馬懿、荀彧、曹操も解説

前漢の三傑の張良と蕭何を合わせた人物が諸葛亮孔明でしょう

三国志の諸葛亮は、劉備にとっての我が子房であり、我が蕭何だったと言えます。

諸葛亮は政治力に優れており、軍師としても良い献策を劉備に行っているからです。

諸葛亮は蜀漢の法律である蜀科を制定し、天下三分の計で劉備に蜀漢を獲得させました。

前漢の三傑の一人に国士無双韓信がいますが、諸葛亮は蜀漢の国力不足があるとはいえ、北伐を五度も行いながらそこまで成果を上げられなかったのです。

蜀漢で韓信と言えるのは、魏延でしょう。魏延は長安急襲で韓信を見習おうとしていたためです。

蜀漢には、張良と蕭何な諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)と、韓信な魏延文長(ぎえんぶんちょう)がいました。

⇒魏延と諸葛亮孔明!反骨の相頭蓋骨、能力性格、子孫息子、張飛も解説

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曹操の我が子房な荀彧には曹操からの贈り物で空の器が来たのです

三国志の荀彧の元に、曹操から空っぽの贈り物が、届けられました。

空ですから、荀彧は用済みという意味と言われています。

そもそも曹操は、初めは正義のために乱世を平定しようとしていましたが、段々権力を重視しようとしました。

荀彧は後漢朝廷を重視する人物なので、曹操と次第に対立し出したのです。

曹操としても荀彧は邪魔ですが、今まで仕えてきた重臣であるため、理由もなく処刑は出来ませんでした。

立派な良い贈り物ではなく、空っぽの贈り物が荀彧に届いたことで、荀彧は自分の主張には先が無い事を知ったのでしょう。

長年曹操に仕え続けた荀彧の元に、空の贈り物が来てしまい、しばらくすると荀彧が最後を迎えたのです。

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張良子房は劉邦の後継者を呂雉の息子の劉盈と定める立役者となり最後を迎えました

張良は、劉邦が戚夫人の子供の劉如意を後継者にしようとし出したので、元々の後継者の劉盈に味方したのです。

劉邦は傲慢不遜な性格を持っていたため、ある4人の賢者が出仕を拒んでいました。

張良はそこに目を付け、呂雉と劉盈に、その4人の賢人を丁重に招くことを提案したのです。

ある時劉邦と息子劉盈が会食していた際に、立派な風貌の4人がいました。

劉邦はどなたですか?と尋ねると、なんとあの来なかった4人の賢者だったのです。

劉邦は戚夫人の劉如意では、呂雉の劉盈に対抗出来ないと悟り、後継者争いも終結しました。

我が子房で登場することもある張良は、劉邦の後継者問題を上手く決着させた後に、最後も来たのです。

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美人のようであると評価された張良とイケメン荀彧

三国志の我が子房な荀彧は、イケメンと評判で、張良子房は美人風と言われていました。

我が子房と称される人物は、外見が立派でなければならないのかもしれません。

そして、史記の作者の司馬遷は初め、張良の業績から男らしい風格のある風貌と考えていたのです。

ですが、残っている張良の絵画には、美人な男性が描かれていました。

また荀彧は、どんな人でもかなり批判する禰衡からも、外見が好印象だったのです。

禰衡すらも非難出来ない荀彧がイケメンだったのか、外見の批判は違うと考える禰衡の生き方だったのか・・・

ちなみに、禰衡は曹操にも批判をし続けたため、他の武将に送り付けられ、処刑されたのです。

曹操から我が子房と言われていた荀彧はイケメンで、前漢の三傑の一人張良は美人な風貌でした。

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まとめ:三国志の我が子房な荀彧(じゅんいく)と張良(ちょうりょう)はイケメン軍師

我が子房な三國志の軍師荀彧が、どれくらい張良と似ているかを解説してきました。荀彧は賢人ですが、張良はそれ以上の大賢者なのでしょう。

劉邦がただの農民から、張良のおかげで大出世したことも説明してきました。曹操も我が子房荀彧無しなら、その辺の人物だったのでしょうか。

曹操の有能な部下我が子房荀彧だけでなく、郭嘉も重要なことも書きました。曹操を理解出来る人物がいると、曹操も安心して業務を任せられたのでしょう。

そして張良が、主君劉邦の後継者問題も解消したことも記載しました。張良クラスになると、どのような難題も答えを出せるのでしょう。

曹操から我が子房と好印象な荀彧と劉邦の軍師張良は、賢者なだけでなく、外見がイケメンな人物でもあったのです。

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