三国志で天才諸葛亮孔明の弟子で、馬謖の後継者と言うべき人物が、姜維でしょう。
姜維は蜀漢の大将軍ですが、元は天水の名家の生れでした。どのような経緯で、諸葛亮に認められていったのでしょうか。
そして蜀漢の趙雲と姜維は、一騎打ちをしたのです。趙雲は勇将なので、姜維も危なかったのでしょうか。
また、諸葛亮から警戒された魏延の最後と姜維も、関係があるのです。魏延の武勇に、姜維は対抗出来たのでしょうか。
他にも、姜維と死闘を繰り広げた鍾会や鄧艾も、説明していきます。姜維はなんと、敵のはずの鍾会と連携して最後の賭けに出たのです。
有能な姜維と鍾会なら、偉業を成し遂げられたのでしょうか。
三國志の姜維を詳しく解説していきます!
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太守が疑心暗鬼に陥り蜀漢に味方した天水の四姓の子孫姜維
三国志の姜維は、名門の末裔でもあり、始めは蜀漢と戦っていましたが、太守馬遵に疑われ、蜀漢に降伏しました。
特に姜維たちが、明確に蜀漢に通じている根拠は無かったため、太守馬遵がもっと賢ければ、姜維が蜀漢に付かなかったでしょう。
そして諸葛亮は愛弟子馬謖が、街亭の戦いで大失敗してしまった時期で、新しい弟子を探してもいたのです。
諸葛亮からすると、馬謖から姜維に、後継者を変更するタイミングだったのかもしれません。
姜維は、馬謖のように明らかな失策は無いため、今度は諸葛亮の人選が正しかったのでしょう。
天水の四姓の名家姜維は、太守が愚かな人物だっため、やむなく蜀漢の諸葛亮の軍門に下りました。
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姜維は真面目に職務を実行し諸葛亮からも高評価でした
三国志の姜維は、天水あたりで最も能力のある人物と言え、諸葛亮孔明も好印象だったのです。
そして、諸葛亮は姜維の軍事面の才能も評価しており、軍事的な地位を与えました。
諸葛亮と姜維は、運命的な出会いを果たしたと言えるでしょう。
また、姜維と徐庶は、母親への対応の違いがありました。
徐庶はかつて諸葛亮側の陣営だったのですが、母親を人質に取られ魏に鞍替えしたのです。
ですが姜維は、母から便りが来ても戻らなかったのです。姜維は、野心ある性格だったのかもしれません。
蜀漢は人材難に陥っていたので、徐庶を何とかして、引き留めるべきだったと言えます。
姜維は才能があるだけでなく、蜀漢に味方してからも業務をしっかりこなしたため、諸葛亮から高い評判を獲得しました。
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五虎大将軍趙雲と一騎打ちした姜維
三国志の姜維は、蜀漢に鞍替えする前に趙雲とも対決したと言われています。
- 反骨の相な魏延を見捨てて姜維は蜀漢の本拠地に退却しました
- 姜維と劉禅の間に立ちはだかる黄皓
ピークを過ぎたとはいえ、趙雲と一騎打ちで互角以上の動きを魅せたのが、姜維です。
そして趙雲は、武勇に優れた将軍でしたが、姜維は知力も高い武将と言えます。
蜀漢の丞相諸葛亮を趙雲よりにした存在が、姜維と述べられるでしょう。
後年姜維は北伐を何度も行うことで、蜀漢を疲弊させたため、諸葛亮に付いて内政をもっと学ぶべきだったかもしれません。
また、魏の曹操は赤壁の戦いで大敗北した際に、富国強兵を行い、北方を確実に掌握しました。
姜維も北伐に失敗した後に、政治を重視しておけば、魏の争乱に乗じて、もっと楽に勝てたかもしれません。
姜維は、大将軍趙雲子龍(ちょううんしりゅう)と一騎打ちで上手く対抗したことで、諸葛亮から注目されていました。
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反骨の相な魏延を見捨てて姜維は蜀漢の本拠地に退却しました
三国志の姜維は、諸葛亮が魏延の謀反を疑っていたため、魏延を説得せずに戻ったのです。
魏延は歴戦の勇将で、姜維はまだまだな時期なので、魏延をどうこう出来る立場ではありませんでした。
そして魏延は、諸葛亮が最後となった後は、自らこそが蜀漢の代表者と考えていたのです。
蜀漢内には、魏延と真正面から戦って勝てる人材はいないため、諸葛亮は姜維たちに計略を授けており、魏延を最後に追い込みました。
姜維の北伐は、あまり上手くいっていないので、魏延をどうにかして生かすべきだったのでは・・・
魏延文長(ぎえんぶんちょう)は、自分自身を蜀漢のトップと思っていたため、反逆を懸念され姜維たちの作戦で、最期となりました。
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姜維と劉禅の間に立ちはだかる黄皓
三国志の姜維は、北伐を実施していましたが、朝廷では黄皓が専横を行い、劉禅を惑わしていました。
そもそも劉禅は明君とは言えない人物で、諸葛亮が生きていた際は、諸葛亮が矯正していたのです。
諸葛亮が亡くなった後は、本来の劉禅が出てしまい、ご機嫌取りの黄皓を重用しました。
劉禅は、父劉備のように仁義と大志があるわけではないため、楽な方に流れていったのでしょう。
しかも、黄皓はずる賢いので、姜維が遠ざけようとすると、逆に姜維がやられる危険性もありました。
それに劉禅が、ただ単に現状維持な君主だったため、どんどん状況が悪化していき、とうとう姜維が朝廷に戻れなくなったのです。
姜維の北伐は、黄皓という内憂に脅かされ、姜維への劉禅の支持も揺らいでいきました。
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魏の張良鍾会を味方とした姜維の最後
三国志の姜維は、北伐も上手くいかず劉禅の信頼も薄れてきたので、敵の鍾会と組み起死回生を画策しました。
ただ、姜維は鍾会のことを信頼していたわけではなく、上手くいったら鍾会に最後を送るつもりでいたのです。
鍾会は野心家として知られていますが、野心には、野心な人物が引き寄せられるのでしょうか。
そして、鍾会の野望を見抜いていたのは、姜維だけでなく魏の司馬昭も同様でした。
司馬昭は、鍾会に蜀漢攻略を命じつつ警戒し、大軍で防御してもいたのです。
姜維よりも司馬昭の方が、能力が高いとも言えるでしょう。
姜維は、鍾会士季(しょうかいしき)と提携することで、一発逆転しようと目論見ましたが、魏の司馬昭に見通されていました。
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戦国四大名将白起の最期と似ている鄧艾
三国志の鄧艾は、姜維の蜀漢を攻略し著しい戦果を上げましたが、秦の大将軍白起と同じ最後を迎えました。
白起は、何度も敵国に勝利し、多大な功績を積み上げていたので、逆に本国に警戒されていたのです。
姜維と鍾会が、鄧艾が謀反人になるように画策した面もありますが、結局鄧艾は、司馬昭たちから疑われて拘束されました。
ですが、本当は姜維と鍾会の方が大事件を計画しており、失敗したため、鄧艾は一旦解放されたのです。
鄧艾は安全なところに向かおうとしましたが、最後な運命だったのか、斬られてしまいました。
鄧艾士載(とうがいしさい)は、魏の白起と呼ぶべき人物で、姜維と戦い大戦果でしたが、疑われ最期が来たのです。
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まとめ:三国志の姜維伯約(きょういはくやく)は名門で高評価
三國志の姜維がどのような人物で、蜀漢でどう活躍したかを解説してきました。やはり馬謖が生きていれば、姜維も少しは楽だったのでは?と思わざるを得ないでしょう。
そして姜維は、北伐を重視するあまり、君主劉禅の周りの悪臣黄皓を排除出来なかったのです。姜維が諸葛亮のように政治力があれば、北伐が成功したかもしれません。
また、姜維は最後まで諦めず、敵の鍾会を味方に引き込んだことも記載しました。鍾会を味方とした勢いで、どんどん魏を切り崩していけたとしたら・・・
他にも、姜維のライバル鄧艾の最期も書きました。蜀漢戦の英雄3人が、一気に消えてしまったのです。因果とも言えます。
姜維がいたからこそ、蜀漢が最後に輝いて魏に一矢報いているので、知る価値があるでしょう。