田横!五百義士、最後島、三国志、前漢劉邦項羽、中国斉王能力も解説

田横は、三国志の諸葛亮からも義を重んじた武将、と評価されていました。

酈食其は、田横の信頼を獲得し、斉を劉邦にもたらしたのです。しかし劉邦は、国士無双韓信にも斉攻略命令を発していたので、事態はややこしくなりました。

そして田横は、劉邦に認められていたため、好待遇で島から出ようとしたのです。ですが、酈食其の弟に対する負い目があったので、田横は壮絶な最後を選択しました。

また、かつて劉邦と田横は、王だったため、田横は劉邦に帰順したくなかったのです。田横は、誇り高い斉の王族だった、ということでしょう。

他にも、諸葛一族に、田横に比肩する武将がいたことも説明していきます。諸葛亮を含めて、諸葛一族には有能な者が多いのです。

田横を詳しく解説していきます!

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酈食其は巧みな話術で斉王と田横を劉邦の味方としましたが国士無双韓信と蒯通は承知しませんでした

田横は、酈食其が劉邦の使者として斉王と会見したと考え、劉邦に付くために防備を緩めましたが、韓信の動きは予測していなかったのです。

そもそも前漢の三傑の韓信が、斉攻撃の指示を劉邦が受けていたため、韓信が斉を攻めるのは命令違反とは言えません。

しかし、蒯通と国士無双韓信の本音は、酈食其の弁舌の方が、大将軍韓信よりも評価されることを危惧した軍事行動でした。

韓信は後に謀反で最期を与えられますが、斉攻撃の際に、その片鱗が出ていたと言えるでしょう。

田横は、酈食其(れきいき)が劉邦軍の総意を代表していると思い、斉の防御を解除したのですが、国士無双韓信(かんしん)と軍師蒯通(かいとう)には、別の指示が事前にあったため、酈食其は煮殺されたのです。

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楚漢戦争を制した劉邦は田横を仕えさせるために酈食其の弟に仕返しを禁じましたが田横は義士としての最後を選びました

田横は、劉邦の部下の酈食其を煮殺していたので、酈食其の弟と共に劉邦に仕えることを慙愧したのです。

それに酈食其の弟の酈商も、劉邦に抑え込まれているだけで、田横を暗殺する危険性もあるのではないでしょうか。

そして田横はかつて、酈食其ではなく、国士無双韓信と蒯通の方を劉邦の意思と考えた責任と共に、最期を迎えたのです。

また、韓信は斉王となった際に、蒯通から天下三分の計を主張されましたが、採用しなかったため、後に謀反する羽目に陥りあえない最期が来ました。

田横は、蒯通と国士無双韓信の斉攻撃を、酈食其との共謀の上と見なし、酈食其を煮殺したので、劉邦の元で弟酈商(れきしょう)と一緒に務めることを良しとせず自刎したのです。

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三国志の諸葛亮は赤壁の戦いの直前に劉備は田横のように曹操に抵抗していると孫権に述べました

田横は、義を大事にしていたので、劉邦に仕えずに自害し、劉備も義を大切にするために曹操に付かずに戦っている、と諸葛亮は主張したのです。

そして諸葛亮は、上手く呉の武将たちと孫権を味方としただけでなく、赤壁の戦いでも曹操に勝利し、主君劉備の仁義を天下に示しました。

また劉備は後に定軍山の戦いで、部下の法正と黄忠に、曹操の腹心夏侯淵を倒させることにも成功し、劉邦に倣い漢中王に即位したのです。

田横が、劉邦になかなか投降せず義を尊重したことは、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)からも高評価され、劉邦の子孫の劉備玄徳(りゅうびげんとく)も赤壁の戦いと定軍山の戦いで、田横のように仁義を三国志の世界で顕しました。

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昔王同士だったので田横は劉邦の部下となることを嫌い自決して顔だけを見せました

田横は、かつて同じ王の立場だった劉邦に仕えることを認めず、自害しましたが、顔は届けさせたのです。

劉邦は、田横の首を持って来た者にも、地位を与えましたが、届けに来た者も自決しました。

そして田横には、五百人の味方がいたのですが、その五百人もことごとく自害したのです。

劉邦は確かに、前漢の初代皇帝に即位しましたが、田横や食客たちのように、最後まで抵抗した人々もいました。

また劉邦は、匈奴の冒頓単于との白登山の戦いでも敗北しているため、前漢の中国支配はあまり強固でなかった、とも言えるでしょう。

田横は、劉邦(りゅうほう)から仕えることを要請されたのですが、昔同列だった者の配下になることを恥に感じ、自決し顔は確認させてあげたのです。

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前漢の初代皇帝高祖劉邦は田横の兄弟も王に就任していたため敬意を抱いていました

田横だけでなく田栄と田儋も斉王となり、西楚の覇王項羽の天下に対抗したので、劉邦が楚漢戦争で勝機を掴めたのです。

そして田儋は、陳勝呉広の乱の混乱期に斉王となっており、王の陳勝が行方知れずに陥った際に、景駒がいつの間にか楚王に即位したことを非難しました。

また田栄は、項梁を助けなかったことで項羽から憎まれていたので、項羽が配置した三斉を糾合して、自らで斉王になったのです。

ちなみに陳勝は、劉邦から陳勝呉広の乱の功績を称賛され、隠王とされました。

田横と田儋(でんたん)と田栄(でんえい)は、相次いで斉王に即位し斉で勢力を示し、田横と田栄は覇王項羽と激戦することで、劉邦が天下を掌握する機会を作り出したのです。

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梁王彭越の元で保護されていた斉王田横は身の危険を感じ五百義士と共に島に逃亡していました

田横は、彭越の元で守られていましたが、劉邦から攻められることを警戒し、島に逃げたのです。

そして、劉邦から厚遇される予定だった田横が、最後を迎えた後に、彭越も謀反を疑われ塩漬けにされてしまいました。

彭越が、劉邦からの仕打ちを予見出来ていれば、田横と連携して生き残れた可能性も、あったでしょう。

また劉邦は、彭越だけでなく韓信や英布の粛清にも成功し、結果的には前漢帝国の安泰に繋がりました。

ちなみに彭越は、一旦は助かったのですが、劉邦の妻の呂雉皇后から武勇を危険視されたため、蒸し返されてしまったのです。

田横は、彭越(ほうえつ)に付いていましたが、劉邦からの追及を危惧し島に亡命し、勇猛な彭越も後に謀反を危惧され、塩漬けな最後で終わりました。

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狗と称された三国志の諸葛誕は反乱を起こし失敗しましたが田横の五百義士のように部下たちも後を追ったのです

田横が義のために自決し、味方していた五百人も自害し、諸葛誕も反乱が上手くいかず最後を迎えた際に、配下の者たちが、自決したため、田横の五百義士に似ていると評価されました。

そして三国志の諸葛誕は、諸葛亮が龍で諸葛瑾が虎と称される中、狗と言われていたのです。

狗というのは、功狗を意味しているので、蔑んだ表現ではないと伝わっています。

また諸葛誕の乱の際に、鍾会が諸葛誕陣営切り崩しのために披露した謀略が優れていたので、鍾会は劉邦の部下の張良レベル、と述べられました。

田横の義を重んじた最期に追従した、五百人の義士のように、諸葛誕公休(しょかつたんこうきゅう)の反乱後に多くの部下たちが、諸葛誕のために自害したのです。

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まとめ:田横(でんおう)の斉王能力と島の五百義士の最後と項羽劉邦と三国志

田横が、島の五百人と一緒に、なぜ義士と呼ばれているかを解説してきました。韓信が無理に斉を攻めずに、田横を味方にしていれば、真の斉王になれたのではないでしょうか。

そして三国志の諸葛亮は、強大な曹操と激闘を繰り広げているため、主君劉備が田横のようである、と主張したことも説明してきました。

田横が最後の最後まで、劉邦に対抗して諦めなかったことは、三国志の英雄の希望にもなっていたのでしょう。

また、三国志の諸葛誕の部下が、五百義士と近い存在だったことも、述べてきました。諸葛誕はやはり、諸葛一族にふさわしい人望を有していたのでしょう。

田横は、斉王の一族としての威信と生き様を、島の五百義士と共に示し、前漢の皇帝劉邦をも敬服させた武将だったのです。

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