田単と三国志!火牛の計作戦、史記楽毅最後、斉襄王、軍師能力も解説

三国志の諸葛亮が敬意を持っていた、楽毅に対抗出来る武将には、田単がいるでしょう。

田単は、楽毅と燕王の間に隙があったことを、上手く利用しました。どのような名将も、名君がいてこそ、活躍出来るのではないでしょうか。

そして、楽毅より能力の低い騎劫を侮らずに、田単は更に燕を翻弄し、火牛の計も使いました。火牛の計は、日本史の有名な武将も使用しているので、名将の十八番なのかもしれません。

また田単が、斉を滅亡から救い有能だったため、襄王から用心されていたことも説明していきます。斉を助けて非難されるなら、田単は、何のために戦ったのか分からなくなるでしょう。

ちなみに、田単の読み方はでんたんです。

田単と三國志を詳しく解説していきます!

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燕の恵王は楽毅と不和だったため田単の謀略作戦を真に受けてしまいました

田単は、燕の勢いは楽毅が有能な大将軍であることだと気付いていたので、楽毅と燕王を仲違いさせる策を展開したのです。

燕の恵王は、元々楽毅と仲が良くなかったこともあり、田単の策に乗り、斉攻略の将軍を騎劫に変更しました。

そして騎劫は、田単がわざと燕人を怒らせる策を行っていることを見抜けず、燕人の鼻削ぎと墓暴きもしてしまったのです。

また、秦と趙の一大決戦である長平の戦いでも、名将廉頗から趙括に、趙の大将軍が変えられましたが、これも秦の宰相范雎の巧みな罠でした。

田単は、燕の楽毅(がくき)に勝つのは難しいと判断し、恵王に大将軍楽毅を更迭させる作戦を、張り巡らしたのです。

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三国志の諸葛亮は田単が策略で更迭させた楽毅を尊敬し北伐の出師の表でも敬意を示しました

田単は、燕の大将軍楽毅に事実上勝ちましたが、三国志の諸葛亮は、弱燕を助けた楽毅を敬っていたのです。

そもそも楽毅は、燕の昭王が先ず隗より始めよの方針で招かれた、大将軍でした。

そして昭王は、かつて斉に燕が蹂躙された恨みを晴らすために、楽毅らの有能な武将を集めていたのです。

また、楽毅が昭王に厚遇されたように、三国志の諸葛亮は劉備から三顧の礼で、重用されていました。

昭王も劉備も、名臣を見出す眼力に優れていた、とも言えるでしょう。

田単は、楽毅を巧みな策で更迭に追い込みましたが、三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は大事な北伐の出師の表でも、楽毅への敬慕を表現したのです。

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偽の降伏を燕軍に受け入れさせた田単は火牛の計で騎劫にも最後を与えたのです

田単は、更に燕軍を油断させるために、弱兵で城を防御しているように思わせ、斉人に偽りの投降まで行わせました。

そして夜に田単は、火を付けた牛の大軍を放ち、燕軍を大混乱に陥れ、斉軍も出撃させ騎劫を打ち取ったのです。

燕が大敗したことを知った斉の人々は、燕軍を追い出し斉の旧領をも回復させました。

また、日本史の北条早雲や木曽義仲も、田単の火牛の計で大戦果を獲得した、と伝わっています。

ちなみに、北条早雲は下剋上の幕開け、木曽義仲は平家滅亡の要因をもたらした、とされているのです。

田単は、火牛の計と燕軍の虚を突く戦略で、騎劫(きごう)に最期を送り斉の旧領を取り戻し、襄王も迎えました。

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燕の大将軍楽毅が攻め込んで来ることを予期し馬車を堅固にしていた田単の作戦

田単は、楽毅の勢いが並ではないと考えていたため、事前に馬車を鉄で強くしていたのです。

田単の一族たちは、田単の作戦のおかげで無事でしたが、他の斉の人々は燕に確保されていきました。

そして燕の楽毅は、即墨と莒以外の城をことごとく占領し、斉は滅亡寸前に陥ったのです。

ただ楽毅は、なぜか莒と即墨を落とそうとせず、後に謀反の嫌疑をかけられて、亡命することになりました。

また、楽毅がこの時に斉を滅ぼしていれば、燕が秦と天下を争うチャンスも、あったのではないでしょうか。

田単は、馬車を鉄で強固にする作戦で、燕の大将軍楽毅に他の斉人が捕らえられる中、一族と共に逃げられたのです。

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安平君となった田単は斉で人望を獲得し過ぎて襄王から警戒されました

田単は、斉の救国の英雄だっただけでなく、優しい心で民衆と接してもいたため、襄王から危険視されたのです。

襄王に田単を讒言する者もいたため、田単は窮地に陥ったのですが、斉国や襄王への貢献が著しかったため、讒言者の方が処罰を受けました。

そして襄王の父の湣王は、秦が西帝だった際に、東帝と名乗るほどの強勢を誇っていたのです。

しかし湣王は、縦横家蘇秦の策を見抜けなかったり、戦国四君の孟嘗君を冷遇してしまったりしたため、凋落していきました。

田単は、蘇秦(そしん)から利用され孟嘗君(もうしょうくん)を軽んじた、湣王(びんおう)の息子の襄王から、名声を畏怖されましたが、斉の本当の救世主だったため無事で済んだのです。

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孫子の子孫の孫臏レベルの兵法者に苦戦した田単は魯仲連に助けられました

田単は、燕の聊城の防御が固すぎ困っていましたが、魯仲連の文書に救われたのです。

魯仲連は、聊城の将軍を孫臏クラスの統率力であると称しましたが、暗に心理的に追い詰めることに成功しました。

聊城の将軍は、籠城を長引かせても助かる見込みが無く、燕では警戒され斉では恨まれていたため、自害したとされています。

そして田単は、他の城を攻撃していた際にも、即墨の窮地から解放され気が緩んでいたことを魯仲連に指摘され、再び戦果を得られたのです。

田単は、孫武の末裔の孫臏(そんぴん)な兵法を展開していた、燕の聊城の将軍に苦闘しましたが、魯仲連(ろちゅうれん)の文書を利用して攻略し、気持ちの甘さを魯仲連に注意されたことで、再度戦に勝利出来ました。

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史記の司馬遷も田単の即墨の戦いでの偉業を孫子の兵法の体現者として高評価したのです

田単は、強国燕の大軍に不注意を喚起するように仕向け、後には火牛の計で一気に壊滅したため、司馬遷からも称賛されました。

孫子の兵法に、始めは処女の如く振る舞い後には脱兎の如くすべし、とあるのです。

司馬遷は、この孫子の発言が、田単の即墨の戦いの用兵に当てはまる、と述べています。

また孫子の子孫の孫臏も、馬陵の戦いで、竈の数を減らし龐涓から逃げていると見せかけ、大勝しました。

ちなみに孫臏は、桂陵の戦いでも龐涓を囲魏救趙の兵法で、大敗させたのです。

田単は史記の司馬遷(しばせん)からも、即墨の戦い(そくぼくのたたかい)で孫子に匹敵する兵法を繰り出した、と絶賛される人物でした。

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まとめ:史記の田単(でんたん)の火牛の計作戦と三国志と斉の襄王と楽毅の能力の最後

田単が、火牛の計と複雑な作戦で、斉を滅亡の危機から救出したことを解説してきました。

襄王ではなく田単が斉王に就任していれば、斉が燕を併合出来たのではないでしょうか。

そして田単ではなく楽毅が、三国志の諸葛亮から敬意を抱かれていたことも説明してきました。

田単も斉を立て直した救国の英雄ですが、楽毅と燕の昭王の方が、諸葛亮には共感出来たのでしょう。

また史記の司馬遷が、田単の作戦を、孫子の熟練した兵法に近い、と好印象だったことも述べてきました。

良い軍師や優れた将軍は、孫子の兵法を、いつの間にか実践しているものなのでしょうか。

田単は、大将軍楽毅と直接対決はしていませんが、巧みに更迭させた軍師なので、いろいろな戦い方があると知れるでしょう。

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