三国志の天才軍師諸葛亮からも、六国宰相として評判だったのが、縦横家で合従策の蘇秦なのです。
蘇秦は、有能な縦横家でしたが、当初は秦からも登用されませんでした。後に合従策で秦を苦しめるため、運命のめぐり合わせとも言えるでしょう。
そして、鶏口牛後の故事成語を創り出したのが、蘇秦であることも説明していきます。蘇秦は巧みな話術で、故事成語を誕生させながら、合従を完成させていったのです。
また蘇秦が、六国を合従させ権勢を身にまとったことで、親戚も敬意を払いました。どのような人物も、結局は権力になびくものなのでしょうか。
ちなみに、蘇秦の読み方はそしんで、蘇秦がどこの国の人かというと周の出身です。
蘇秦と三國志を詳しく解説していきます!
⇒龐統と諸葛亮ライバル!スパイ道号、落鳳坡死因、劉備行軍交換も解説
目次
⇒しょかつかく!諸葛恪性格、瑾、孔明どんな人?一族、誕、陸遜も解説
法治主義の商鞅に翻弄された秦の恵文王から重用されなかった蘇秦
蘇秦は、秦が要害を掌握し軍事訓練も充実しているため、頑張れば天下統一も夢ではありませんと語りました。
しかし秦の恵文王は、商鞅から苦い思いをさせられていたので、蘇秦を警戒し登用しなかったのです。
また恵文王は、商鞅を嫌いながらも法家の手法は評価しており、その後の秦の強大化は恵文王の法治重視のおかげ、とも言えるでしょう。
ちなみに、悼王も楚を大国化させるために、法家の呉起を採用しましたが、楚は秦と異なり呉起が最期を迎えた後は法治が大事にされませんでした。
蘇秦は、秦の恵文王に仕えようとしていましたが、商鞅(しょうおう)の法治主義の悪影響があったため、他国を合従させることにしたのです。
⇒呉起と三国志!将軍兵法能力、田文、呉子名言、公孫鞅、楚法家も解説
縦横家張儀は恨みを晴らし合従策を崩すために蘇秦の欠点を吹聴し続けました
蘇秦は、六国合従を成立させるために、自分以上の能力を秘めている張儀を心理誘導したのです。
張儀は、賢人なので蘇秦が生きている間は大人しく過ごし、蘇秦の死後に暗躍することで、無抵抗の内に合従策を崩壊させました。
そして遊説の際に張儀は、蘇秦がどれくらい信用出来ない人物かを力説し続け、秦との連衡策に列国を導いたのです。
また史記の作者司馬遷も、蘇秦も危険な話術を用いていたが、張儀の方が悪知恵を働かせ蘇秦を貶めたので、張儀の方が危ない人物と記載しています。
張儀(ちょうぎ)は蘇秦から利用され、秦に入国させられたので、縦横家蘇秦の弱点を宣伝して、連衡が良い策だと列国に思わせました。
⇒張儀と三国志!吾が舌を視よ、連衡策違い、蘇秦関係、縦横家も解説
有名な故事成語の名言である鶏口牛後を韓王に語ったのが縦横家の蘇秦です
蘇秦は、戦国の七雄の中でも最弱国と言える韓王を発奮させるために、鶏口牛後と主張しました。
鶏口牛後とは、鶏の口に過ぎなかったとしても牛の後ろとなるより良い、という意味なのです。
そして、韓が連衡策を行い秦に奉仕しても、要求がどんどんエスカレートする可能性が高いでしょう。
ですので、連衡策は上辺では安全ですが、長期的には戦わずに秦に併合される危険な策である、と蘇秦は語りました。
ちなみに韓には、後に韓非子が現れ、始皇帝に絶賛されましたが、李斯に闇討ちされたのです。
縦横家蘇秦は、韓王に鶏口となるべきで牛後になるべきではない、と述べることで、六国を合従させる準備を進めました。
⇒韓非子と三国志!思想わかりやすく、性善説、始皇帝李斯死因も解説
趙は近いため燕は秦よりも趙と合従する策を重視すべきと蘇秦は主張しました
蘇秦は、燕が自然を味方と出来食糧不足になり難く、他の戦国の七雄の国々から離れているので有利、だと述べたのです。
趙は、燕の代わりに他の列国と接しているため、言うなれば趙は燕の盾と表現出来る、と蘇秦は語りました。
そして蘇秦は趙に訪れると、秦や斉に付いた場合、楚と魏と韓が弱体化し結果的に趙が危機に陥る、と言ったのです。
また秦に連衡する策は、結局は秦の一人勝ちを招き、趙にも危険であると蘇秦は論じました。
ちなみに趙は、秦の祖とされている悪来の兄弟が祖、と伝わっているのです。
蘇秦は、燕と趙を合従させるために、秦の連衡策の危険性と、国家としての趙燕の立ち位置を提唱しました。
⇒典韋!悪来あだ名、能力強さ、死因最後、許褚曹操、死亡、呂布も解説
蘇秦が六国宰相となり故郷の周に戻るとかつて侮っていた親族も畏怖しました
縦横家の蘇秦は、弁舌に拘り名を成せずに故郷に帰った際に、親戚に侮辱されたことがあったのです。
しかし蘇秦が六国を合従させ、周王朝からも敬礼され故郷に凱旋すると、親族は蘇秦の顔すら見られませんでした。
そして蘇秦は、親戚の対応の変化に驚くと共に、自らが恵まれていなかったからこそ、六国宰相になれたことを痛感したのです。
また親戚たちに大金を分け与え、蘇秦は自分が成功者となり、褒美を与える立場になったことを誇示しました。
西楚の覇王項羽も、大名声を獲得しても故郷に戻らないのは、夜に錦を着ているようなものだと述べたのです。
蘇秦は、親族に侮られながらも縦横家の術を極めたおかげで、六国合従の宰相に就任し、故郷に錦を飾りました。
⇒江東の小覇王!孫策伯符死因、意味、太史慈一騎打ち、周瑜呂蒙も解説
張儀を蘇秦は鬼才だと考えていたので侮りやる気にさせ恩を売り合従策に協力させました
蘇秦は、六国を合従させるためには、秦の侵攻を防ぐ必要があると考え、張儀を巧みに操ったのです。
張儀は縦横家の中でも能力が高い人物でしたが、蘇秦ほど出世していなかったため、蘇秦のツテを利用しようとしました。
そして蘇秦は張儀が来ると、あえて怒らせるような対応を行い、秦に参加し復讐するように仕向けたのです。
張儀は奇才だったので、簡単に秦に登用され、援助者にお礼しようとしたところ、援助者が蘇秦の身内だと判明しました。
本気を出していない時期の張儀は、蘇秦に誘導される程度の能力しか、発揮出来なかったのでしょう。
蘇秦は、同じく縦横家の張儀を上手く扱い奮い立たせ、秦に送り込み合従策を破壊させないようにしたのです。
⇒范雎と三国志!王稽連座、秦宰相蔡沢、白起能力、春秋戦国時代も解説
湣王の元で燕のために斉を弱体化させていた蘇秦は反対勢力に最後を与えられました
蘇秦は、斉での権力闘争に巻き込まれ、致命傷を受けたため、湣王に自分を批判することを求めたのです。
刺客が湣王も同じ考えだと知れば、討った犯人を特定出来るので、蘇秦は非難を望みました。
そして斉の湣王は、蘇秦の敵討ちを行いましたが、蘇秦は本当に燕に内通していたのです。
蘇秦は合従策で六国をまとめ上げたのですが、最終的には燕と斉を険悪にしてしまいました。
やはり、利害関係の異なる六つもの国を統制するのは、蘇秦でも無理があるのでしょう。
ちなみに湣王は、燕の昭王に憎まれていたため、大将軍楽毅から攻められ、斉を滅ぼす寸前にまで追い込んでしまいました。
縦横家の蘇秦は、15年ほど六国を合従させることに成功しましたが、謀反人として最後を迎え、合従策も破綻したのです。
⇒孟嘗君と三国志!鶏鳴狗盗故事、食客函谷関、どんな人?性格も解説
まとめ:縦横家蘇秦(そしん)の合従策と三国志と張儀連衡策と鶏口牛後の故事名言
蘇秦が縦横家として、どのような策を展開していたかを、解説してきました。複雑な話術を覚えたい人は、蘇秦を参考にすると良いでしょう。
そして張儀が蘇秦を死後に攻撃することで、縦横家として大成していったことも説明してきました。同じ事実も、縦横家の話術を駆使すると、違う印象に変貌させられるのでしょう。
また蘇秦が、燕と趙を結び付けることで、合従の糸口を掴んだことも述べてきました。ニ国でも合従していると、他の列国も参加したくなるものなのではないでしょうか。
他にも、縦横家らしい蘇秦の最期も語ってきました。一見鮮やかに見えた合従策も、長い時間をかけると、もろくも崩れ去るのでしょう。
蘇秦は、奇才張儀まで操り、合従策を行い強大な秦に抵抗した、鶏口牛後の精神な縦横家だったのです。