申不害とは!術、法家思想、韓非子商鞅、昭侯韓武、史記法律も解説

申不害は、法家思想の代表的人物の韓非子も、参考にしたほどの偉人なのです。

最高の統治方法を、自然を重視し無駄を省くことと、申不害は韓の昭侯韓武に論じました。申不害は、荘子の無為自然な考えも習得していた法律家、だったのでしょう。

そして、名と実の乖離を無くしていく術を、申不害は重んじたのです。韓の昭侯韓武は、申不害の術を実行することで、弱国韓を見事に統治しました。

また、馬陵の戦いで、孫子の子孫の孫臏が龐涓を倒すチャンスをあげたのも、申不害だったのです。韓が大国とは言えないにも関わらず、長く存続したのには、それ相応の理由があったのでしょう。

申不害を詳しく解説していきます!

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昭侯韓武から国を治める方法を尋ねられた申不害は無為無知と語りました

申不害は、韓の昭侯から治国の良いやり方を聞かれたので、余計なことを行わないことが大事である、と述べたのです。

結局世の中の失敗というのは、無駄なことをしていることから、発生するのではないでしょうか。

そして、理想的な生き方である道を本当に行っている場合、道を行ったり教えたり出来ない、と言えます。

なぜなら、道と一体化して自分では見えない状態こそが、道を実行出来ている、と見なせるためです。

また申不害のような、名宰相が再度韓に現れるか、申不害の法家思想と術での統治が長く行われていれば、他国の疲弊に乗じて、韓が中華を統一する可能性もあり得たのではないでしょうか。

申不害は、最高の治国方法と一致させていく無為無知を目指すべき、と昭侯韓武(しょうこうかんぶ)に主張しました。

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秦の始皇帝も絶大な支持をした韓非子は申不害と商鞅の法家思想を活用していたのです

申不害と商鞅の法律の考え方は、韓非子に活かされ、始皇帝も称賛したと伝わっています。

そして始皇帝嬴政は、韓非子を厚遇し政治に参加させようとしたのですが、丞相李斯は韓非子を排除しようとしていました。

なぜなら、李斯は韓非子が、ずば抜けた才能を有していることを把握しており、韓非子が出世すると、丞相の立場が危うくなることを見通していたためです。

ちなみに李斯は後に、万里の長城の監督で知られる蒙恬をも陥れ、絶大な権勢を得ましたが、宦官の趙高の毒牙で悲惨な最後が訪れました。

申不害と商鞅の法家思想を、巧みに調和させた韓非子(かんぴし)は、秦の始皇帝からも好印象でしたが、丞相李斯(りし)への対処に失敗し、最期に追い詰められたのです。

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名目と実質を合致させていく術が重要だと法家思想の申不害は昭侯韓武に述べたのです

申不害は、実と名をしっかり一致させる術を行うことが、韓で善政を布く上で不可欠と言いました。

申不害の術を実行すると、例えば、韓の昭侯が寝ていて布団を使っていなかった際に、布団管理の者以外が、韓武に布団を渡すのは禁止されるということです。

布団管理ではない者が悪意で、昭侯に布団をあげたわけではなくとも、越権行為なので、後々を考え処罰すべきなのでしょう。

ただ、あまりにも君主の権限が強くなると、始皇帝の死後に胡亥と趙高と李斯が共謀し、真の後継者で有能な扶蘇を謀殺し、秦を滅亡に追い込んでしまう事態も、生じて来るのではないでしょうか。

申不害は、術を徹底することで、名目と実態のズレが無くなり、昭侯韓武の法治に役立つと論じました。

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三国志の乱世の奸雄曹操は陳寿から申不害と商鞅の法家思想を習得していたと評価されています

申不害は、三国志の超世の傑曹操から、参考にされるほどの法家思想と術を、持っていたのです。

曹操は、権勢を誇る者でも、違法者は厳しく処罰した人物ですので、申不害の術や法家思想から学んでいた、と言えるでしょう。

そして曹操は、正史三国志の著者の陳寿から、国士無双韓信や秦の大将軍白起の戦法も身に付けている、と書かれてもいるのです。

ちなみに韓信も白起も、大将軍として大戦果を獲得し過ぎたため、君主に畏怖され、無念な最後を送られています。

申不害の術と法家思想は、乱世の奸雄で超世の傑の曹操孟徳(そうそうもうとく)からも参照されるほどの考えであり、曹操は、商鞅や白起(はくき)や韓信(かんしん)の優れたやり方もマスターしていた、とされているのです。

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申不害が宰相だった期間は術の法治により韓は強国化し他の戦国七雄からも攻撃され難かったのです

申不害は、術の法治を昭侯韓武に守らせることで、他の戦国七雄からの侵攻を防ぐことに成功しました。

そして、桂陵の戦いで囲魏救趙の兵法を用い、龐涓に勝利した孫臏の斉軍を、申不害は魏軍と連携し破ったのです。

戦国には七雄がいるため、どのかの国が勝っても、他国が組み再び敗北するというのは、良くある話なのでしょう。

また、韓は弱国の部類ですが、他国と合従すれば、勝つ可能性を上げられる国なのです。

ですので、龐涓で敗北した魏を、申不害が上手く利用したと言えます。

申不害は、法治と術で韓を強くし、桂陵の戦いで龐涓(ほうけん)が孫臏(そんぴん)に大敗した、魏と提携することで、斉に勝ったのです。

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有能な法家として申不害と並び称されているのが秦を法治主義で統治した商鞅です

申不害は、韓を術と法家思想で導き、商鞅は秦を法律で厳酷に治めた、と伝わっています。

そもそも商鞅は、初め魏にいたのですが、恵王から軽んじられていたため、秦に移り孝公に働きかけたのです。

そして、孝公に採用してもらうために、商鞅は帝道を曲げて覇道を主張し、重用され、秦を法治国家に変更しました。

しかし過酷な法治により、商鞅は次の秦の君主である恵文王に恨まれていたため、無残な最後で終わったのです。

申不害と同じく、法家思想を重視した国家運営を行った人物として、商鞅(しょうおう)がおり、秦を強国化させましたが、恵文王から憎まれてしまったので、残酷な最期で生涯を閉じました。

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龐涓から猛攻を受けた韓の宰相申不害は斉に援軍を要請し孫臏が魏を馬陵の戦いで撃退しました

申不害は、桂陵の戦いで魏が弱体化したと思っていたのですが、想像以上に国力があったため、孫臏に助けを求めたのです。

孫臏は、精強な魏軍と真正面から戦うのではなく、斉が臆病で逃亡兵が増えている、と思わせる作戦を展開しました。

孫臏軍は、魏領に侵入したにも関わらず、急に反転し退却を開始し、竈の数が減っているように偽装したのです。

龐涓は、チャンスが到来したと勘違いし、少数の騎馬隊で孫臏を追い詰めようとしました。

そして、樹に書かれている、龐涓ここに死すの文字を夜に見るために、松明を掲げたところ、これが弓矢の合図だったため、龐涓は孫臏に最後をもたらされたのです。

申不害は、韓が魏の激しい攻撃に晒されたため、斉に救援を希望し、馬陵の戦いで孫臏が巧みな兵法を使い、仇敵龐涓を討つ機会を提供しました。

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まとめ:法家思想の申不害(しんふがい)の術と史記の法律家の韓非子商鞅と韓武昭侯

申不害が、法家思想と術を用い、どのように韓を統治したかを解説してきました。実と名を合致させる術は、普段の実生活から使っていけるでしょう。

そして、始皇帝嬴政から厚遇されていた韓非子が、商鞅と申不害の法家思想を上手くマッチ、させていたことも述べてきました。

韓非子の考えは高評価の人が多いため、そこで取り上げられるということは、申不害が優れた人物であることも伝わるでしょう。

また韓が、春秋戦国時代の中国の中央に位置していながら、申不害のおかげで、他国からの侵攻が減ったことも説明してきました。

三国志の曹操も見習っていたほどの偉人が、申不害なので、当然の成果と言えるかもしれません。

申不害は名宰相でしたが、韓はやはり小国で、存分に活躍出来たとは言い難かったため、環境の重要性も分かるでしょう。

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