李信と三国志!呂布子孫、始皇帝評価、実在大将軍、嫁最後死亡も解説

李信は、三国志の400年ほど前に活躍していた、始皇帝からも高評価だった大将軍です。

大将軍李信の子孫と、飛将軍呂布には深い関係があります。呂布は、虎牢関の戦いの一騎打ちが有名な勇者ですが、李信とどう繋がっているのでしょうか。

勢いに乗っていた李信は、楚軍に20万程度の軍隊で勝利可能と考えていたのです。李信は、始皇帝の大将軍になれたほどの逸材なので、楚も危なかったのではないでしょうか。

そして李信と嫁に、どのような最後が訪れたかも説明していきます。大将軍夫婦ですから、派手な最後なのでしょうか。

また、李信の子孫の唐の偉人も、記載していきます。李信の末裔は、三国志の乱世も生き残り、繁栄したのでしょう。

李信と三國志を詳しく解説していきます!

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李信の子孫に李広がおり三国志の呂布と同じく飛将軍と称せられていました

三国志の呂布は、李信の子孫の李広クラスの武勇を持っていたため、飛将軍と言われていたのです。

李信の末裔の李広は、楚漢戦争の際に誕生していれば、と嘆かれるほどの武勇を誇っていました。

そして呂布は、飛将軍以外にも、人中の呂布馬中の赤兎という異名もあるのです。

呂布は乱世の奸雄曹操の策に敗れましたが、曹操は呂布が勇猛だったので、最後を与えることをためらっていました。

ちなみに、呂布は李信クラスに有能な将軍でしたが、裏切り癖があるため、曹操の信頼を獲得出来なかったのです。

呂布奉先(りょふほうせん)は、三国志の李広と呼ぶべき武勇を有しており、李広(りこう)は始皇帝の大将軍李信の子孫にふさわしい飛将軍でした。

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燕の太子丹が刺客の荊軻を活用し始皇帝を死亡させようとしたので李信は燕の都を攻撃しました

李信は、燕の太子丹が始皇帝に最後を与えようとしたため、報復として燕の都を攻略したのです。

燕はかつて昭王の際に、三国志の諸葛亮も見習っていた楽毅を大将軍とし、中華に名を轟かせていました。

しかし燕の昭王のような名君は出現せず、李信の秦国に押されていたのです。

そして燕の太子丹は、一発逆転を賭けて、荊軻に始皇帝を暗殺させようとしました。

始皇帝の喜ぶ贈り物を持参した荊軻は、間近に迫ることに成功しましたが、始皇帝の方が強運だったのです。

三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)からも尊敬されていた、楽毅(がくき)がいたはずの燕は衰退してしまい、太子丹は始皇帝に最期を送ろうとして失敗し、逆に李信に燕の都を撃破されました。

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始皇帝が大国楚を滅亡させる際に李信は20万の軍勢で充分だと豪語しました

李信は、連戦連勝だったため、大国楚には20万の軍勢があれば勝てる、と考えていたのです。

そして李信は、万里の長城の建造で有名な蒙恬と共に、先を争って楚に攻め込みました。

しかし李信と蒙恬は、勝つ続けることで、いつの間にか楚の奥地に引き込まれていたのです・・・

西楚の覇王項羽の祖父の項燕は、李信が楚に深入りする瞬間を待っており、一気に大軍を動かして、李信を打ち負かしました。

楚が、春秋戦国時代の最後まで生き永らえていたのは、項燕に代表されるような底力を秘めていたからでしょう。

三国志孫策伯符(そんさくはくふ)の江東の小覇王で有名な項羽(こうう)の先祖項燕は、李信の過信を利用し、始皇帝の秦軍に大勝利したのです。

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王翦は楚の項燕を難敵と判断し李信の3倍の60万の軍勢が必要である主張しました

李信は勇敢にも、20万の軍勢で楚に勝てると大言壮語しましたが、始皇帝の師である王翦は60万の大軍が必要だ、と述べたのです。

始皇帝は王翦が高齢になったため、弱気になったと思い、李信の発言を採用しました。

ですが、李信は覇王項羽の祖父項燕に大敗し、項燕の大軍が秦に攻め寄せて来たのです。

始皇帝は事の重大性に気付き、王翦に60万の大軍を与えたところ、王翦は軍勢の英気を養い項燕軍の不意を突いて撃破しました。

王翦(おうせん)は、三国志の司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)クラスの人心掌握術で、始皇帝から大軍を任され、李信が成し得なかった項燕(こうえん)と楚の攻略を達成したのです。

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遼東の燕王喜を確保し燕国を滅亡させた李信大将軍と王翦の息子の王賁

李信は、西楚の覇王項羽の祖父項燕に敗れましたが、燕に大勝利し挽回したのです。

燕王喜は、趙と同盟関係にあったのですが、趙は長平の戦いで秦の白起に大敗し、弱体化していました。

燕の宰相栗腹は、燕王喜に趙攻めを進言し、趙の5倍にも及ぶ大軍で、趙の廉頗を攻撃したのです。

しかし、趙は衰えたとはいえ百戦錬磨の強国で、燕軍に勝利し、燕の国都を包囲したため、喜は領土を逆に割譲する羽目に陥りました。

燕と趙がしっかり連合していれば、秦もうかつには、手出し出来なかったのではないでしょうか。

始皇帝の大将軍の李信は、趙の廉頗に返り討ちに遭った燕王喜を捕え、三国志の時代には公孫淵文懿(こうそんえんぶんい)がいた遼東の燕国に死因をもたらしたのです。

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秦の始皇帝の大将軍の李信と嫁が最後どのように死亡したかはハッキリしていません

李信は、覇王項羽の祖父項燕に大敗したにも関わらず、始皇帝から最後を与えられないほど、始皇帝から信頼されていたのです。

そして、楚の大将軍項燕に勝利した王翦は、始皇帝からの粛清を恐れ、対楚戦の際に土地や褒美をねだり続けたと伝わっています。

ただ、歴戦の勇将王翦からも畏怖された始皇帝が、李信を対楚戦の敗戦で処刑しなかったのは、特別の事情があったのかもしれません。

また、始皇帝が最後を迎えると、胡亥と趙高が専横を行ったため、その際に李信も、死亡させられた可能性は考えられるでしょう。

李信は、項燕に敗れましたが、始皇帝から厚遇され続け、胡亥と趙高の悪政もありましたが、どのような最後を迎えたかは明確ではないのです。

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道教の老子の子孫が李信であり李信の子孫には唐の初代皇帝李淵もいます

李信は、先祖と子孫に、道教の開祖老子や唐の高祖李淵がいるほどの偉人なのです。

老子は、人に勝利する者は力を持っているが、己に打ち勝つ者は強さを持っている、という名言を残しています。あなたは、力と強さどちらが大事だと思いますか?

そして、李信の祖先の老子は、論語で有名な聖人孔子の師匠、とも言われています。

また老子は、獲得したければ与えよ、とも語っているのです。ビジネスで成功したければ、どんどん提供していくことが、重要ということでしょう。

論語の聖人孔子も尊敬していた老子は、李信の先祖であり、李信の子孫は三国志以後も栄え、唐の初代皇帝李淵(りえん)も誕生したのです。

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まとめ:李信有成(りしんゆうせい)は実在した始皇帝の大将軍で三国志以後も子孫が生き残っていたのです

李信が、三国志以前に始皇帝の部下として、どのように活躍したかを解説してきました。

始皇帝は厳酷な性格なので、始皇帝に認められるだけで有能と分かるでしょう。

そして李信が、始皇帝が燕の太子から最後を送られそうになったので、燕に出陣したことも説明してきました。

燕が始皇帝を直接攻撃しなければ、もっと存続出来た可能性はあるでしょう。

燕は楽毅と昭王の時代に、力を出し切ってしまったのかもしれません。

また李信が、老子の子孫であることも述べてきました。李信が大将軍として能力を発揮出来たのは、老子の思想も要因なのでしょうか。

李信は、燕国では大戦果を上げていたため、始皇帝に評価されて当然の大将軍と言えるでしょう。

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