馬謖は、街亭の戦いという蜀漢と魏の一大決戦で、大敗を喫するわけですが、王平は功績により称賛され昇進したのです。
王平と馬謖の結果の違いは、どのような点にあったのでしょうか。元々の才能の違いなのか、後からの努力なのか。
三国志の王平は、あの諸葛亮孔明からも評価された人物だったのです。諸葛亮も、もっと早く王平の才覚に気付いていたら、と言えます。
そして、馬謖の蜀漢北伐での役割や立ち位置についても、深掘りしていきます。魏の有名な拠点に長安がありますが、馬謖の動き次第では・・・
馬謖と言えば、登山というワードでも有名なのです。三國志の馬謖は、どういう意味で登山家だったのでしょうか。
馬謖を語る際に、劉備玄徳も把握しておくべき人物です。劉備だけは、見通していたのでしょうか。
三国志の王平と馬謖について、語っていきます!
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目次
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王平と馬謖の能力は雲泥の差
王平は文字も読めないほど学がなく、馬謖は兵法書に親しんだ学のある才人だったのです。
ですが、街亭の戦いでは、学がないはずの王平の活躍により蜀軍は、総崩れを免れました。
春秋戦国時代に趙括という兵法書に精通していたにも関わらず、長平の戦いで大敗してしまった人物に、馬謖は似ていると言えます。
そして、趙括は趙の将軍だったのですが、趙の国力を大幅に減少させてしまったのです。
ちなみに、趙括は敵国の策略で将軍になったわけですが、馬謖は諸葛亮の人選ミスで将軍になりました。
現代社会でも、上辺の華やかさと実際の結果が異なることがあります。注意深く観察することが、重要でしょう。
学があるはずの馬謖が力を発揮せず、無学なはずの王平が実力を出したのです。
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王平の有能さ、実は学があるのかも
王平は、文字が読めませんでしたが、歴史書を周りの人に読ませることで学習していました。
三国志の王平は、学がないことを言い訳にせず、昔の知恵を獲得していったのです。
街亭の戦いの際も、自らの正しさのために馬謖に逆らってまで、布陣を変更したので、剛直とも言えるでしょう。
諸葛亮孔明がもしももっと見る目があり、王平を将軍として馬謖を参謀軍師としていたら、街亭の戦いで魏を制することも叶ったかもしれません。
蜀には魏延もいましたが、反骨心が強いとして諸葛亮に批判されていました。蜀漢の真の将軍は王平と、述べられるかもしれません。
王平に策略をプラスしたら、驚くべき偉人が完成するのではないでしょうか。
蜀漢の王平は、隠れた才人と言うべき人物なのです。
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王平の高い評価、諸葛亮孔明からも
王平は、真面目で忠義心の厚い武将で、生真面目な部類とされていて、おふざけもせずに、きっちりしている人物だったのです。
なので、諸葛亮孔明が街亭の戦の際に、山の麓の道あたりを守ることを命じていたことを厳守しようとしたのかもしれません。
王平は何かのトップではなく、有能なトップの元で輝く将軍と言えるでしょう。
そして、諸葛亮孔明は亡くなる際に、王平を忠誠心の厚い良い人物と述べています。
街亭の戦いの際に、自らの指示を固守したことを高く評価したのかもしれません。
自分が優秀な人は、馬謖ではなく王平のような人材を探すと上手く運営出来るでしょう。
三國志の王平は、職務を忠実に行う蜀漢の武将だったのです。
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王平子均(おうへいしきん)と馬謖幼常(ばしょくようじょう)の他の話
三国志蜀漢の王平と馬謖について、他にも知っておくべき内容をお伝えしていきます。
- 馬謖と長安攻略のつながり
- 馬謖の無謀な登山作戦
- 馬謖の最後、ことわざ泣いて馬謖を斬る
- 馬謖の問題点を見抜いていた劉備玄徳
馬謖の働き次第では、長安攻略もあり得たのです。本当に馬謖は、重要な仕事を任されていたことも分かるでしょう。
なぜか馬謖は街亭で、登山を行い蜀漢を窮地に陥れてしまいました。実は、馬謖なりの計算があって行われた作戦だったのです。
そして、馬謖には兄弟もいました。5人いたのですが、いずれも優秀で常という名が入っていたため、馬氏の五常と呼ばれていたのです。
ちなみに、馬謖の兄弟の中で、馬良が一番優秀とされています。馬良の眉がホワイトだったため、何かの中で有能な者を白眉と述べるのです。
王平と馬謖の他の重要情報もお知らせしていきます。
⇒馬謖とは?諸葛亮孔明なぜ泣いて斬る?街亭の戦い、登山の誤算も解説
馬謖と長安攻略のつながり
街亭の戦いで、馬謖が道の守りを厳重にしていたら、魏の重要拠点のひとつである長安も狙えました。
馬謖が重要な任務に就いていた北伐の際は、魏の内通者も現れ、街亭で敵を食い止めるだけで、蜀漢が優勢になる事情が多かったのです。
それに、蜀漢の魏延が、諸葛亮孔明に長安の奇襲を願い出るなど、長安攻略も現実味を帯びていたと言えます。
諸葛亮孔明は魏延の長安攻撃を却下してはいますが、馬謖が街亭で魏に対抗出来ていた場合、魏延に長安攻略を命じる可能性はあったでしょう。
そして、魏延は、前漢の三傑のひとりにして国士無双韓信に似ているとして、蜀漢の韓信と呼ばれていたかもしれません。
馬謖が山道をしっかり守っていた場合、魏の大事な都市である長安制圧も、夢ではなかったのです。
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馬謖の無謀な登山作戦
馬謖は、諸葛亮孔明からの指示を無視して、無謀な山登りを決行してしまいました。
そもそも、馬謖は将軍としての功績が少ないので、引け目に感じていたのです。
どうしても功績を挙げたい馬謖は、一気に魏軍を撃破出来る可能性のある登山を行ってしまいました。
登山をしたから負けたというよりも、山の上のあたりに水源がなかったことが大きな原因なのです。
先に水源を押さえなかったことで、魏軍に取られ水不足で無理な突撃をしなければならなくなりました。
まさか馬謖を戒めるために、神が水源を取り上げたのでしょうか・・・
三国志の馬謖は、諸葛亮の深慮に気付かずに自らの考えが先行し、登山により敗退してしまったのです。
⇒姜維の北伐!第五次、諸葛亮の遺志、蜀の伯約能力、評価、最後も解説
馬謖の最後、ことわざ泣いて馬謖を斬る
街亭で大敗を招いたことにより、諸葛亮孔明は非常に悲しみながらも、馬謖を処罰したのです。
約束を馬謖が違えたのだから、処刑は当然と考える人も、多いのではないでしょうか。
ただ、人は皆過ちを犯すと言えますし、再起のチャンスを与えたら前よりも上手くいくこともあるでしょう。
ちなみに、三国志よりも更に前の時代に蜀のような小国の魯という国が存在していました。魯の将軍曹沫(そうばつ)は、何度も敗北したのですが、最後の交渉の際に、敵の主君を脅して挽回したのです。
やり方は批判があるかもしれませんが、結果的に魯の領土を保全し、汚名返上しました。
馬謖をもしも生かして活用した場合、曹沫のような結果をもたらすことも考える必要があるでしょう。
三国志の馬謖を敗戦の責任で、諸葛亮は泣きながら斬ったのです。
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馬謖の問題点を見抜いていた劉備玄徳
馬謖が、口達者過ぎる事で、大事件を起こすことを見通していたのが、劉備だったのです。
劉備は臨終の際に、わざわざ諸葛亮孔明に、馬謖を任用し過ぎる事に釘を刺していました。
馬謖が街亭で諸葛亮の指示を聞かなかったのと、劉備の人物眼を見落とした諸葛亮孔明は、どこか似ていると言えるでしょう。
もしかしたら、馬謖は劉備の前でも才能を鼻にかけて弁舌でまくし立てたことがあったのかもしれません。
諸葛亮は何でも出来る天才軍師と考えている人もいると思いますが、その孔明を部下として扱えた劉備の凄さにも、着目すべきではないでしょうか。
劉備は、人物評に長けていたので、馬謖の重大な欠点を見抜いていたのです。
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まとめ:王平の有能な活躍と馬謖の出過ぎた偏った才知
王平は、実は有能な人物で、馬謖が大失態をさらしてしまう中、蜀漢軍の退路を確保した人物であることを解説してきました。
諸葛亮孔明も、戦後は馬謖と王平の評価を真逆としたのではないでしょうか。
三国志の諸葛亮自身が話術が巧みなので、馬謖を過大評価し、文字も読めないような静かな王平を過小評価してしまったのでしょう。
王平は、諸葛亮孔明から忠誠心を評価されていたことも説明してきました。
そもそも蜀漢自体が、漢帝室への忠義心から成立したようなものなので、王平の忠誠は非常に喜ばしいものだったのでしょう。
そして、馬謖がかなり重要な役割を担っており、失敗により長安の攻略も無くなった可能性があることも、示しました。
魏延は諸葛亮に長安急襲を申し出ていたので、長安攻撃をしていた場合、馬謖の街亭への魏軍が減り、むしろ攻勢に出られたかもしれないでしょう。
やはり、劉備は偉大な人物であることも、馬謖の性質を見抜いていた点から論じました。
王平は、蜀漢の歴史を知る上でも重要なので、きっちり読んでおくのが良いでしょう。