三国志黄忠とは?定軍山の戦い、最期、強さ、厳顔、夏侯淵、弓も解説

三国志の黄忠は、高齢にも関わらず活躍した武将です。

定軍山の戦いという蜀漢と魏の大決戦がありましたが、黄忠の動きに着目すべきでしょう。

さしもの夏侯淵も、黄忠将軍が本気を出したら敵わないのです。

そして、黄忠の最期も記載しています。弓に長けていた黄忠らしい最後とも言えます。

黄忠の息子も読めます。黄忠は武勇に優れた将軍でしたが、子供の方はどうなのでしょうか。

また、黄忠と魏延も深い関係があります。武勇に長けているだけでない魏延の機転が、垣間見えるでしょう。

他にも黄忠と関羽の関係も書いています。関羽を追い詰める黄忠の武勇をご覧あれ!

弓の達人として三國志の世界を駆け巡った黄忠を詳しく説明していきます!

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三国志黄忠とは?

三国志の黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)は、老いてますます盛んと言われていました。

  • 黄忠を助けた魏延
  • 黄忠の息子には黄叙がいます

また、黄忠が高齢で大車輪だったように、年齢を重ねてもアクティブな人を老黄忠と称することもあります。

弓も腕前も見事なもので、ゲームで登場する際は、凄い弓を披露しているのです。

ただ、若い頃の黄忠がどのような武将かは、あまり記録に存在していません。

若い頃はずーっと修行していたので、結果的に弓が得意なのでしょうか。

ちなみに、黄忠の主君が曹操に降伏したため、一時的に曹操配下な時もあるのです。

そのまま曹操配下で戦っていたら、定軍山の劉備軍の大勝利は・・・

蜀漢の黄忠将軍は、年齢を重ねるほどに勢いがあったのです。

⇒曹操のすごさ!どんな人?性格、魅力、曹丕、劉備、名言、死因も解説

黄忠を助けた魏延

魏延は、敵への寝返りを疑われた黄忠を助けたことがあります。

黄忠と敵の武将が戦った際に、一度黄忠が見逃されたため、今度は黄忠が見逃したのです。

このことを黄忠の主君が疑ったので、魏延は主君を打ち取り、それを手土産に劉備に降伏しました。

ただ、魏延はいわゆる反骨の相があり主君を裏切ったため、諸葛亮孔明は、魏延を遠ざけるように劉備に進言しています。

ちなみに、益州での戦の際に、魏延が勝手に軍隊を進めていき困難に直面していたところ、前の恩義なのか黄忠が助けにきました。

よほど劉備軍にとって危なかったからなのか、黄忠は魏延の処罰を願い出ています。

三国志の黄忠は、関羽を見逃すような動きを見せたので、主君に疑念を抱かれましたが、魏延から救出されました。

⇒三国志魏延将軍とは?有能、最後死因、諸葛亮、反骨の相、馬岱も解説

黄忠の息子には黄叙がいます

三国志黄忠の子供の黄叙(こうじょ)は、黄忠よりも先に亡くなってしまいました。

どのような活躍をしたかも、明確な記録が残っていません。

黄忠の息子なので、黄叙も弓の名手だった可能性はあるでしょう。

もしも、養子を迎えて育てていた場合、無理に黄忠が前線に出ずに済んだかもしれません。

夷陵の戦いで、将軍としての実力を見せるために敵に突撃した黄忠も、義理の息子からの諫言なら聞いていた可能性はあるでしょう。

また、黄忠はかなり前の時代の偉人なので、実際に子供がいて功名を立てたとしても、何らかの理由で記録には無い、というケースも考えられます。

黄忠の息子として黄叙がいましたが、あまり武勇を示さずに亡くなったのです。

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声東撃西の兵法で定軍山から駆け下りた黄忠の一閃が夏侯淵に炸裂

魏軍の勇将夏侯淵を黄忠は、兵法三十六計の声東撃西で翻弄し、高所から駆け下りて夏侯淵を打ち取りました。

定軍山の戦いで、黄忠は夏侯淵よりも高い場所に登ることで、魏軍の陣をハッキリと見渡せる戦場の優位を獲得したのです。

夏侯淵は、蜀漢軍をなんとか高所から引きずり下ろそうとしましたが、黄忠の軍師は、無視するように指示していました。

そして、夏侯淵の軍勢が疲弊してきたときろで、一気に下って夏侯淵に勝ったのです。

曹操軍の実力者である夏侯淵を斬った成果は、劉備が曹操に、真正面から対抗し得る勢力に育ったことを立証してもいます。

また、黄忠は確かに武勇を知らしめましたが、曹操は、軍師の法正の方を高評価していたのです。

三国志の黄忠は、軍師法正から指示された兵法で、猛将夏侯淵を圧倒して大勝利を得ました。

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三国志黄忠の最期、夷陵の戦いが死因?

三国志の黄忠は、夷陵の戦いで敵の弓矢に射られ、亡くなってしまいました。

弓矢の名手であるはずの黄忠が、弓矢が死因になるというのは、因果を感じられるでしょう。

そもそも黄忠は、夷陵の戦いでかなりの高齢であったことから、劉備にも高齢過ぎると述べられたのです。

見返すために黄忠は、敵陣に突入したのですが、結局失敗しました。

老人として侮られないように頑張ってきた黄忠の気概も、とうとう通用しない時期に突入したのでしょう。

自分の過去の功績に囚われずに引き際を見極めるのも、武将として重要なのかもしれません。

黄忠は、関羽の復讐戦である夷陵の戦いの際に、弓矢で攻撃を受け亡くなりました。

⇒三国志りくそん!陸遜最後、劉備夷陵の戦い、諸葛亮、子孫陸抗も解説

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三国志黄忠漢升(かんちゅうこうしょう)の他の話

黄忠について知っておくべき話をもっとしていきます。

  • 黄忠と関羽は同じ五虎大将軍だったので同等ぐらいの強さ?
  • 年齢をかなり重ねても武将として活躍した黄忠と厳顔(げんがん)

三国志の人気キャラのひとりの関羽雲長と黄忠が、どれくらいの強さかも語ります。

関羽は今の時代も神として崇められている武神ですから、黄忠では・・・かもしれません。

実際に関羽は、黄忠と同列にされるのを嫌う逸話も残っています。

黄忠が武将としては高齢過ぎるというのは、蜀漢の武将も同じなのでしょう。

そして、黄忠のように、かなり高齢でも武将として奮闘した人物に、厳顔がいます。

実は、厳顔と万夫不当の張飛が関係あるのです。張飛は武一辺倒と考えている人にも、必見な内容でしょう。

三国志の黄忠の他の知識もお知らせしていきます。

⇒劉備の部下一覧!どんな配下?諸葛亮孔明、関羽、張飛、評価も解説!

黄忠と関羽は同じ五虎大将軍だったので同等ぐらいの強さ?

神と称せられることもある関羽雲長と黄忠は、共に五虎大将軍だったのです。

五虎大将軍という同じ枠にいるので、黄忠も頑張れば関羽クラスの武将と言えるでしょう。

ちなみに、他の3人は張飛益徳と趙雲子龍と馬超孟起のことです。

また、関羽と黄忠がかつて敵同士だった際、黄忠が関羽を射抜く寸前にまでいったこともあります。

それ以前に、関羽が黄忠にとどめを刺さない場面も存在しているため、黄忠と関羽はそこまで強さに差があるとは、言えないでしょう。

関羽は青龍偃月刀が主力武器で、黄忠は弓なのです。近距離と遠距離という優位性も存在しているでしょう。

三国志の武神な関羽と黄忠は、勇猛な五虎大将軍の仲間だったのです。

⇒関羽最後!雲長首、言葉、像、強さ身長、娘妻、張飛死因、曹操も解説

年齢をかなり重ねても武将として活躍した黄忠と厳顔(げんがん)

三国志の黄忠と厳顔は老兵でありながら、漢中で魏軍を圧倒したのです。

そもそも厳顔は、劉備ではなく益州の劉璋の部下でした。

劉備の義兄弟の張飛が、攻め立てて捉え、すぐに降伏しなかった厳顔を批判したのです。

ですが、厳顔は、劉備たちの方が攻め込んで来たのだから、降伏などする者はいないときっちり述べました。

その言葉に逆に感心した張飛は、賓客の礼で厳顔を待遇したので、劉備の味方に加わったのです。

張飛に認められて劉備軍に加わるというのは、結構レアでしょう。

黄忠と厳顔は、共に高齢ながら大活躍し魏軍を撃破しました。

⇒三国志張飛翼徳!能力最強、長坂の戦い、最後、娘、関羽、劉備も解説

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まとめ:三国志の弓の名手黄忠漢升将軍!

三国志の黄忠がどのような人物かを解説してきました。

黄忠と法正の定軍山の戦いにおける兵法をあなたも身に付けたら、巨大な敵を翻弄出来るでしょう。

残念ながら最期を迎えた黄忠将軍は、最後まで武人だったのです。武人として、本望だったのでしょうか。

そして、黄忠は魏延から助けてもらったからこそ、劉備陣営に加われました。

魏延は最後は処刑のような末路なので、あまり良いイメージをもたれませんが、仲間思いな面もあると言えます。

また、武神関羽と黄忠が戦った記録についても書きました。関羽と張り合える黄忠も、かなりの武人と述べられます。

老いてますます盛んの代名詞な黄忠を学べば、歳を重ねても活躍出来る生き方が見えて来るかもしれません。

⇒関羽の子孫!現在、息子、皆殺し、関平、関興、娘、張飛、趙雲も解説

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