屈原は、西楚の覇王項羽の軍師亜父范増に擁立された、義帝の祖父の懐王に仕えていました。
縦横家の張儀が、楚の懐王の合従を崩そうとしたため、屈原は忠告したのです。しかし、忠言は耳に逆らうと言われるように、屈原の進言は聞き入れられませんでした。
そして、屈原が楚を憂い投江したことで、端午の節句にちまきを味わうようになったのです。風習にまで影響を及ぼしているので、屈原の憂死は無駄ではなかったのでしょう。
また楚の懐王が、張儀に最期を加えなかったことと秦を安易に信じたことも、屈原は非難しました。懐王がもっと聡明であれば、屈原を重用し、楚が大国化していたかもしれません。
ちなみに、屈原の読み方はくつげんです。
屈原を中国語ではなく、現代語訳で詳しく解説していきます!
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目次
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縦横家張儀が商と於の六百里を提供することで楚の懐王に斉との合従を弱体化させようとしたため屈原は批判しました
屈原は、縦横家の張儀が巧みな話術で、楚の懐王に斉との連携を止めさせようとしたので、強く抗議したのです。
そしてやはり、屈原の予測した通り張儀は裏切り、於と商の六里の割譲であると言い張りました。
激怒した楚の懐王は大軍を動員しましたが、籃田の戦いで秦の恵文王の兄弟の樗里疾に、敗北したのです。
また樗里疾は知恵袋と称され、自らが最期を迎えた100年後に、皇帝の宮が樗里疾の墓を囲むことも予見していました。
秦には屈原クラスの偉人が張儀以外にもいたため、屈原のみが頑張っても、楚を盛り立てるのは難しかったのでしょう。
屈原は、楚の懐王(かいおう)が縦横家張儀(ちょうぎ)に騙され斉との合従を解消した後、報復の籃田の戦いでも敗れる前に、張儀の嘘を見通していたのです。
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漢詩の隆盛にも貢献した楚辞には屈原の代表作の離騒の名言が収録されており楚辞は孔子の儒教の経典詩経に匹敵すると言われています
屈原は有能な外交官であっただけでなく、詩人としても優秀で、楚辞には代表作の離騒が伝わっているのです。
離騒では、屈原自身が楚で、良策を提示しても受け入れられず追放されてしまった、悔しい心中が反映されています。
そして、屈原の離騒を記録している楚辞は、論語の聖人孔子の儒家からも重んじられた、詩経に比肩する存在、と言われているのです。
また、詩経クラスの重要度を誇る書物には、書経もあり、詩経と書経は前漢の武帝の五経としても、評価されています。
屈原の悲痛な思いが詰まった代表作の離騒の名言は、論語の聖人孔子(こうし)の儒教で重宝された詩経と並び評された、楚辞で読めるのです。
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端午の節句に心残りな名言を漁父に放ち投江した屈原を哀悼するためにちまきを食べることがおすすめなのです
屈原は、楚で的確な進言を繰り返していましたが報われず、投江する前、漁父に自分のみが正論を述べていると語りました。
漁父は、周りに上手く合わせて才能を発揮してみるべき、と屈原に進言したのです。
しかし屈原は、頑強な性格だったため、間違った周りに妥協して生きるよりも、投江の最後を選びました。
そして人々は、ちまきを投江することで、屈原の無念を慰めたのです。
また、端午の節句に最後が訪れた偉人には、伍子胥もおり、伍子胥も屈原と同様に忠誠心が報われず憂死しました。
屈原は、端午の節句に漁父に失意の胸の内を吐露し投江したため、端午の節句にちまきを食べることで、屈原を弔えると言われています。
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代表作に高い値段が付いている横山大観は屈原の楚への愛国と悲壮な投江を描き厳島神社に飾られています
高い値段で代表作が取り引きされている横山大観も、屈原の才能と楚への忠誠心に、感服していたのです。
横山大観の屈原は、逆風が強い中を鋭い眼差しで見据えており、まさに楚で活躍した屈原の生き様を表しています。
そして屈原が描かれた当時、横山大観と師の岡倉天心は、皆から非難される状況に陥っていました。
逆風に見舞われた横山大観だからこそ、屈原が楚で味わった境遇が、表現出来たのでしょう。
ちなみに、横山大観は屈原と同じように国に貢献していたため、日本国から官位も与えられています。
代表作が高い値段で評価されている横山大観(よこやまたいかん)は、若い頃の苦労と卓越した画力で、厳島神社にある楚の憂国の士の屈原を描いたのです。
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楚の懐王は籃田の戦いの和解の証として領地ではなく縦横家張儀を獲得しましたが再び屈原の進言を聞かず鄭袖に利用されました
屈原は、楚の懐王が、張儀を成敗するチャンスを得たにも関わらずふいにしたので、非難したのです。
そして張儀は、楚の懐王から最後を与えられないために、懐王が寵愛していた鄭袖の嫉妬心を操りました。
鄭袖は、秦から美女が派遣されて来ることを危惧し、張儀が楚から脱出出来るように取り計らったのです。
また鄭袖は、懐王を奪われないために、魏の美女を陥れているので、楚の懐王は愛人選びでも失敗したと言えるでしょう。
秦や張儀を非難するばかりでなく、屈原は、懐王の奸臣である鄭袖らを、追放すべきだったのではないでしょうか。
屈原は、懐王が念願の縦横家張儀を確保したにも関わらず、鄭袖(ていしゅう)の嫉妬心を見抜けず、張儀を無事に秦に帰したことを批判しました。
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楚の懐王の秦入国を屈原は諫めましたが子蘭は秦との婚姻のために行くべきと主張したのです
屈原は忠臣として、楚の懐王が秦を訪れると何かが起きると警告しましたが、懐王の息子の子蘭は秦との関係を重視していました。
結局懐王は、秦に拘束されてしまい、懐王の子供の頃襄王が新しい楚王に即位したのです。
また屈原は、懐王がいなくなり不仲の子蘭の権勢が拡大したことで、どんどん遠ざけられてしまいました。
そして楚は、頃襄王の息子の考烈王を戦国四君の春申君が補佐したことで、ある程度持ち直したのです。
ちなみに、最後の楚王は考烈王の子供の昌平君、と言われています。
屈原は、楚の懐王が秦との婚姻で利用されそうだったので、忠言しましたが、子蘭(しらん)に妨害されるだけでなく敬遠されてもいきました。
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屈原は楚の懐王を助けられませんでしたが西楚の覇王項羽の軍師亜父范増は懐王の子孫を担ぎ出し秦を滅ぼしました
楚の懐王を補佐し切れなかった屈原の口惜しさは、楚の人々の心に残っており、項羽と范増は懐王の末裔を擁立し、秦を攻略したのです。
そもそも秦崩壊の先駆けとなったのは、陳勝呉広の乱ですが、陳勝たちは戦国の七雄の王族の力を、活用し切れていませんでした。
ですので亜父范増は項羽に、楚の懐王の子孫を味方とすることを提案し、屈原の遺志を継いだのです。
そして項羽と范増は、秦を打倒し天下を確保しましたが、劉邦の勢力を鴻門之会で管理し切れず、劉邦に天下を奪われました。
屈原は、楚の懐王を悲劇から救出出来ませんでしたが、西楚の覇王項羽(こうう)と亜父范増(はんぞう)が懐王の子孫を擁立し、秦最後の王である子嬰(しえい)を討ち、屈原の無念も晴らしたのです。
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まとめ:屈原(くつげん)とはどんな人?と名言代表作楚辞離騒と横山大観故事と史記漁父投江ちまき意味
屈原がなぜ、汨羅に投江する末路となったかを、解説してきました。楚ではなく秦で屈原が誕生していれば、縦横家の張儀と良き仲間になれたかもしれません。
そして、屈原が楚辞の離騒を残すほどの優れた詩人、だったことも説明してきました。楚の政治に拘らず、屈原が詩に集中していれば、憂死もせずに済んだのではないでしょうか。
また、横山大観が屈原と同じような環境に陥った際に、絵画を完成させたことも述べてきました。屈原は、日本でも知られるほどに、衝撃的な生き方をしていたのでしょう。
屈原は忠誠心が篤く有能であったからこそ、楚で疎んじられてしまい、憂いの投江を招いた武将だったのです。