桃園の誓いとは!セリフ我ら三人場所、劉備関羽張飛、史実裏切り意味

我ら三人のセリフで有名な、蜀漢の劉備と関羽と張飛の桃園の誓いは、三国志の中でも屈指の名場面でしょう。

桃園の誓いは、琢県の張飛の家近くの場所で、宣言されたのです。張飛は猛将で知られていますが、義兄弟の関羽と劉備がいたからこそ、力を見せられたのでしょう。

そして、我ら三人のセリフで名高い桃園の誓いは、史実ではないとも言われています。ただ、劉備と関羽と張飛が偉大だったからこそ、桃園の誓いは誕生したのでしょう。

また、桃園の誓いを立てた劉備と張飛と関羽は、義兄弟の序列を木登りで決着させました。劉備はやはり、張飛や関羽より賢者な人物、だったのでしょう。

ちなみに、桃園の誓いの読み方は、とうえんのちかいです。

桃園の誓いを詳しく解説していきます!

⇒劉邦三国志!りゅうほう最後、三傑家臣、劉備比較、呂雉、項羽も解説

⇒三国志五虎大将軍!強さ最強、死亡順番、最後ランキング、魏延も解説

スポンサーリンク
おすすめ中国史商品検索窓口

劉備と関羽と張飛は我ら三人のセリフで仁義を三国志の世界で示すことを桃園の誓いで宣言しました

関羽と劉備と張飛は、我ら三人は同じ年と月と日に最後を迎えることを望むと、桃園の誓いで豪語したのです。

劉備と張飛と関羽クラスの偉人でも、同じ日と月と年に誕生するのは、難しい要望でした。

ですので、せめて同じ年と月と日に死亡することで、我ら三人の結び付きの強さを天下に明示したのです。

そして張飛も関羽も劉備も、最期まで義兄弟の仁義を重んじたので、桃園の誓いの意味は大きいのではないでしょうか。

三国志の桃園の誓いで、劉備玄徳(りゅうびげんとく)と関羽雲長(かんううんちょう)と張飛益徳(ちょうひえきとく)は、同じ年月日に生まれられなかったが、同じ日月年に最期が来て欲しいというセリフで、我ら三人の固い絆を三国志で表しました。

⇒三国志劉備玄徳の性格!魅力的な人柄、カリスマ性、エピソードの話

関羽は我ら三人のセリフで桃園の誓いを立てましたが劉備と張飛を裏切り先に最後を迎えたのです


桃園の誓いで、我ら三人は同一の年月日に最期を望んでいましたが、関羽は樊城の戦いで強引に突出し、呂蒙から最後を加えられました。

そもそも関羽のいた荊州は、劉備が呉の孫権から借りている領土に過ぎず、諸葛亮の兄弟の諸葛瑾からも返すことを要求されていたのです。

しかし劉備と義兄弟の関羽は、武神な威信で荊州を確保したため、呂蒙の軍師陸遜は謙遜する計略で関羽を驕らせ、魏侵攻に集中させました。

三国志の関羽は陸遜伯言(りくそんはくげん)の謙遜の偽りを見抜けず、樊城の戦いに大軍勢を動員したので、我ら三人の桃園の誓いを裏切り、呂蒙子明(りょもうしめい)の不意打ちで最期が訪れたのです。

⇒関羽最後!雲長首、言葉、像、強さ身長、娘妻、張飛死因、曹操も解説

スポンサーリンク

琢県の張飛の家の近くが劉備と義兄弟の関羽が我ら三人のセリフで知られる桃園の誓いを行った場所と伝わっています

劉備と関羽と張飛は、琢県で世直しを決意し、桃園の誓いで結束を強め、三国志の世界に侵攻したのです。

そして、我ら三人の大志に共感した人々から資金援助も受け、関羽は青龍偃月刀を張飛は蛇矛を劉備は雌雄一対の剣を、獲得しました。

また関羽と張飛と劉備は、太守の劉焉と知り合い、後に子供の劉璋から益州を継承し、劉備は昭烈皇帝に就任したのです。

ちなみに、青龍偃月刀は関羽の死後、息子の関興が用い、張飛の子供の張苞と共に、諸葛亮の北伐でも活躍し続けました。

我ら三人の桃園の誓いのセリフを、琢県の張飛の家付近の場所で語り合った、関羽と義兄弟の劉備は愛用武器も得て、三国志の乱世に躍り出たのです。

⇒三国志かんこう!関興逸話、死因、張苞、関羽青龍偃月刀、周倉も解説

張飛は関羽の仇討ちのために部下に無理強いしたので最後を加えられ我ら三人の桃園の誓いを裏切りました


長坂の戦いの際に、橋で仁王立ちし曹操軍を圧倒した張飛は、義兄弟関羽の敵討ちのために、范彊と張達にすぐに白装束の用意することを指示したのです。

しかし張達と范彊は、期限があまりにも短いため、張飛に期日の変更を要請したところ、張飛から酷罰を与えられました。

命の危険を感じた范彊と張達は、密かに張飛に最期をもたらし、呉に逃げ込んだのです。

ちなみに張達と范彊は、夷陵の戦いで劉備をなだめる生贄、とされてしまいました。

三国志の張飛は、義兄弟関羽の無念を晴らすために、張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)に無謀な期限の白装束製作を命じ、我ら三人の桃園の誓いを裏切り死因を与えられたのです。

⇒張飛死因!最後エピソード、死亡逸話、最期どんな人?劉備関羽も解説

スポンサーリンク

劉備と関羽と張飛義兄弟の契りの我ら三人のセリフで有名な桃園の誓いは史実ではないと伝わっているのです

西晋の陳寿は、三国志の正史で桃園の誓いを記載しておらず、羅貫中の三国志演義に掲載されています。

ただ、正史三国志でも、張飛と関羽が義兄弟として劉備を補佐した、と言われてはいるのです。

そして羅貫中の三国志演義は、西遊記や金瓶梅や水滸伝と共に、四大奇書と称されています。

また水滸伝の関勝は、関羽の子孫と伝わっており、関羽と同じように青龍偃月刀を愛用したのです。

水滸伝には林冲もおり、劉備と関羽の義兄弟の張飛と、似てはいます。

三国志の正史で西晋の陳寿承祚(ちんじゅしょうそ)は、劉備と関羽と張飛の我ら三人のセリフで著名な桃園の誓いを書いておらず、四大奇書の三国志演義で羅貫中(らかんちゅう)が記載したのです。

⇒呂布と赤兎馬!持ち主、関羽三国志、アハルテケ実在、読み方も解説

スポンサーリンク

我ら三人のセリフで桃園の誓いを立てた義兄弟の劉備と関羽と張飛は木登りで序列を決めました

我ら三人の義兄弟の序列は、劉備が一番上で次が関羽でその次が張飛とされていますが、木登りで決定したとも言われているのです。

そして、関羽と張飛は凄い速さで木を登り、張飛が木のてっぺんに到達した際に、劉備はなんと動いてすらいませんでした。

劉備は、木は根から成長していくので、根こそが頂上であると主張したのです。

蜀漢の軍師では、臥龍諸葛亮や鳳雛龐統が評判ですが、劉備も関羽と張飛の義兄弟軍師と言えるでしょう。

また鳳雛龐統は、落鳳坡で劉備の的盧馬に乗り、敵に劉備だと思われ最後を加えられたのです。

三国志の桃園の誓いで結束を確認した我ら三人は、木登りにより劉備が賢さを示すことで、関羽と張飛との義兄弟の序列も決定しました。

⇒ほうとう三国志!龐統能力、評価、最後、鬼才、名言、生きていたら

義兄弟の関羽と張飛が我ら三人の桃園の誓いを裏切り先に最後を迎えたため劉備は夷陵の戦いで死地に向かいました


劉備は、義兄弟の張飛と関羽に導かれるように、夷陵の戦いを起こしてしまい、陸遜に大敗北を喫したのです。

そして当初呉の孫権は、劉備の怒りを察し、諸葛亮の兄弟の諸葛瑾を和解の使者に起用しました。

諸葛瑾は、劉備に一時の勢いで呉を攻めれば後悔する、と進言したのですが、劉備の決意は固かったのです。

また関羽征伐の功労者である陸遜は、夷陵の戦いでも深謀遠慮を発揮し、劉備の戦線が拡大し過ぎたところを火計で撃滅しました。

ちなみに、呉は赤壁の戦いでも、火攻めで曹操を撃破しているのです。

三国志の劉備は、義兄弟の関羽と張飛の我ら三人の桃園の誓いに引きずられた、夷陵の戦いで陸遜に大敗し、しばらくして最後が訪れました。

⇒三国志りくそん!陸遜最後、劉備夷陵の戦い、諸葛亮、子孫陸抗も解説

スポンサーリンク

まとめ:桃園の誓い(とうえんのちかい)の意味とはと関羽張飛の史実裏切りと我ら三人のセリフと劉備場所

桃園の誓いと史実の裏切りが、どういう意味かを解説してきました。どのような固い絆も、いつかは崩れてしまうのでしょうか。

そして仁義な関羽が、魏に深入りしてしまい、劉備と張飛への裏切りを行ったことも、説明してきました。関羽が義に篤い武将だったからこそ、桃園の誓いを裏切る結果になってしまったのでしょう。

また張飛も、桃園の誓いを大事にしていたことで、劉備への裏切りに陥ったことも述べてきました。張飛は、義兄弟関羽の助けがあってこそ活躍出来る猛将、だったのでしょう。

他にも、劉備が桃園の誓いを大切にし、夷陵の戦いを巻き起こしたことも、記載してきました。もしも夷陵の戦いで劉備が勝っていたとしても、関羽と張飛のいない劉備では、自滅していたのではないでしょうか。

桃園の誓いは、劉備と関羽と張飛の偉人伝の始まりと言えるので、三国志を学ぶ上で不可欠な出来事でしょう。

⇒虎牢関の戦い!呂布一騎打ちトラウマ、汜水関陽人、劉備孫堅も解説

重要なお知らせ

スポンサーリンク

おすすめ中国史商品検索窓口

 

 

↓中国史大人気関連記事↓

中国史史記と三国志のカテゴリー

-蜀漢の武将