三国志の能力ある正義の武将と言えば、毌丘倹でしょう。
中国の北東部では、公孫淵が勢力を誇っていたのですが、毌丘倹は征討に趣きました。毌丘倹なら簡単に勝利出来たのでしょうか。
そして毌丘倹は、朝鮮半島に存在していた高句麗ともバトルしたのです。毌丘倹が能力ある武将であることを遺憾なく発揮しました。
順風満帆に見えた毌丘倹の武将人生も、陰りが見え始めたのです。毌丘倹と文欽の乱に陥った理由と結果も説明します。
また、毌丘倹と文欽の乱のIFも述べているのです。いろいろな未来が実はありました。
他にも、毌丘倹と深い関係な諸葛誕も記載しています。諸葛誕は、狗と称された真面目な努力家です。
三國志の毌丘倹を詳しく解説していきます!
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目次
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公孫淵討伐で磨かれた毌丘倹の能力
三国志の毌丘倹は、遼東の実力者公孫淵戦での兵力重視が難しいことを知り、切磋琢磨しました。
公孫淵は、中国中央の三国の動乱に付け込み、遼東地域で勢力を拡大していたのです。
公孫淵は、魏に従属したと見せかけ、呉とも外交関係を残すことで、両天秤を掛けていました。
毌丘倹が公孫淵征伐に手こずったことで、公孫淵は燕王としての自信を深めたのです。
ですが後に、用兵自在の司馬懿仲達から、公孫淵は徹底的に叩かれました。
ちなみに毌丘倹には、娘の毌丘芝と孫の毌丘奥と父の毌丘興と弟の毌丘甸がいました。
毌丘倹の読み方は、かんきゅうけんです。
毌丘倹は、公孫淵討伐に一旦は失敗しましたが、用兵の能力をアップさせました。
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朝鮮半島北部の強国高句麗を撃破した毌丘倹
三国志の毌丘倹は、魏が朝鮮半島に勢力を拡大した際に、警戒し始めた高句麗を打ち負かしました。
毌丘倹は、高句麗の都も攻略し、名声は天下にとどろきました。
高句麗滅亡があと一歩のところまで、毌丘倹は追い詰めましたが、高句麗の王を捕らえ損ねたのです。
この時に高句麗を滅ぼさなかったため、後の中国の混乱に乗じて、再び勢力拡大していきます。
ちなみに、高句麗は毌丘倹の公孫淵討伐の際は、援軍を出してはいました。高句麗にとっても、公孫淵は邪魔だったのでしょう。
高句麗と公孫淵がそもそも、もっと連携していれば、各個撃破されることも無かったのではないでしょうか。
毌丘倹は、高句麗遠征で実力を示し、高句麗消滅まであと一息までいきました。
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司馬師の専横に不安を感じた毌丘倹文欽の乱
三国志の毌丘倹は、司馬一族により皇帝曹芳(そうほう)が、曹髦(そうぼう)に変更させられたことで、危機感が高まり、乱を起こしました。
皇帝変更前に、司馬師を追放しようとする計画が失敗したため、毌丘倹と文欽たちも、処罰されてしまうことを危惧したのです。
毌丘倹は、乱を成功させるため、狗と評価された諸葛誕や後に蜀漢攻略を成し遂げる鄧艾にも、協力を求めていました。
ですが、諸葛誕と鄧艾は味方せず、毌丘倹らは、郭太后の指示と称するのが精いっぱいだったのです。
諸葛誕は後に乱を行うので、毌丘倹をどうにかして活かすべきだったでしょう。
文欽がいつの間にか呉に亡命してしまい、毌丘倹たちはただ単に、乱を発生させ騒ぐだけで最後となったのです。
司馬一族の権力が高まっていく中で、追い詰めらた毌丘倹と文欽仲若(ぶんきんちゅうじゃく)は、反乱の道を選びました。
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毌丘倹と文欽の乱ifの可能性
三国志の毌丘倹と文欽の乱は、どうすれば上手くいったり別の展開になったりしたかを考察していきます。
毌丘倹らを助けるために呉軍も来ていたため、旗色が悪くなったら、呉に皆で訪れるというifもあるでしょう。
毌丘倹は最後となりましたが、文欽は呉に逃亡しているのです。
そして、毌丘倹の敵の司馬師は、目の重病を抱えていました。毌丘倹と文欽が全軍で無理に攻め立てれば、司馬の軍勢を敗走させる可能性があったのです。
また、司馬一族の専横への不満が、もっと高まってから、決起する道もあるでしょう。司馬一族への反乱は何度も起きているので、一気に行えば万が一と、言えるためです。
毌丘倹と文欽は用兵次第では、生き永らえたり反乱を成功させたりが可能なifが、考えられます。
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毌丘倹に加担しなかった諸葛誕と生き延びた文欽の乱
三国志の諸葛誕は、毌丘倹と同じような立場にいながら、味方しなかったにも関わらず、司馬昭たちに恐れを抱き、とうとう乱を起こしたのです。
- 毌丘倹と文欽と諸葛誕に勝利した鍾会(しょうかい)
- 晋の時代にも武将として活躍した文鴦
そもそも諸葛誕が乱に立ち上がる可能性は、司馬昭陣営に見透かされており、暴発させられました。
そして、かつて毌丘倹と乱を行った文欽が、呉軍と共に諸葛誕を助けに来たのです。
ですが、文欽と諸葛誕は、相性が悪かったため、諸葛誕は数少ない味方である文欽に最後をもたらし排除しました。
反乱の味方すらまとめきれなかった諸葛誕は、どんどん離反者を招き、自滅したのです。
司馬昭は徳を頼みとしていたので、諸葛誕よりも武将たちに支持されていました。相手が悪かったのでしょう。
諸葛誕は、司馬昭たちに操られるように反乱を行ってしまい、最期を迎えました。
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毌丘倹と文欽と諸葛誕に勝利した鍾会(しょうかい)
三国志の鍾会は、魏が存亡の危機に直面する際に、知略を発揮した名臣なのです。
毌丘倹制圧後に呉に逃亡していた文欽が、諸葛誕の乱に加担しました。
そして、文欽に味方していた呉の武将の一族が、内部対立で魏に来たので、上手く活用したのです。
鍾会は諸葛誕に加担する呉軍に向けて、作戦の遅れで呉で非難されており、身の危険が発生していると取れる文書を送りました。
鍾会の計算通り、呉軍の中から魏に降伏する者が現れました。
策略の巧みさから、鍾会はいにしえの大賢者張良子房に似ていると、評判になったのです。
鍾会も後に乱を起こしますが、かつては魏のために、毌丘倹と文欽と諸葛誕鎮圧に貢献しました。
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晋の時代にも武将として活躍した文鴦
三国志の文鴦は、毌丘倹と文欽の乱だけでなく、諸葛誕の乱にも加担しましたが、許され、晋でも異民族退治で戦果を上げました。
文鴦は、諸葛誕の乱に味方した際に、司馬昭の軍門に降りましたが、当然処刑という話も出たのです。
ですが司馬昭は、徳で人心を得て、文鴦を生かすことで、諸葛誕の軍勢から降伏者を増やしたいと考えました。
文鴦に諸葛誕側に呼びかけさせ、諸葛誕の乱を早期に鎮圧することに成功したのです。
ちなみに、文鴦は武勇に優れており、蜀漢の名将趙雲将軍に似ていると、評価されていました。
文鴦(ぶんおう)は、趙雲並みの能力で、多くの反乱を生き抜き、晋でも武勇を示したのです。
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まとめ:三国志の毌丘倹仲恭(かんきゅうけんちゅうきょう)の高句麗撃破能力と乱
三國志の毌丘倹の能力の凄さを解説してきました。高句麗を滅亡させていれば、高句麗地域を統括していたのは、毌丘倹だったかもしれません。
そして毌丘倹と文欽が、上手く諸葛誕を味方と出来ていれば、司馬一族の方が、消滅していたのでしょうか。
毌丘倹の乱の後になし崩し的に、諸葛誕の乱が起きたことも説明しました。毌丘倹らと一緒に決起すべきだったため、諸葛誕はタイミングを誤ったと言えるでしょう。
また、文欽の息子の文鴦が、趙雲な将軍だったことも述べました。趙雲などの名将が多かった時代に文鴦がいたら、どのようなドラマがあったのでしょうか。
能力が高く正義の心を持っている将軍が、毌丘倹なのです。