日本を法治国家に導いたのは初代司法卿江藤新平ですが、古代中国秦を法治国家にしたのは商鞅なのです。
商鞅は今でこそ有名な法律家ですが、若い頃は王に疎んじられたこともあります。この疎んじた判断が後に魏王に致命傷をもたらすのです。
そして、秦の名君孝公と出会った商鞅は、才能を遺憾なく発揮していきます。すべてが商鞅の望むままに進んでのでしょうか。
商鞅は秦国で変法を行う際に、名言を述べたのです。その名言は故事成語にもなっています。
また、商鞅はなんと祖国魏とも戦いました。やはり祖国なので、商鞅もためらいがあるのでしょうか。
ちなみに、商鞅の読み方はしょうおうで、公孫鞅や衛鞅と呼ばれることもあるのです。
商鞅を詳しく解説していきます!
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魏の名宰相公叔座から高評価な商鞅
商鞅は、魏にいたころ宰相からも好印象でしたが、恵王には取り立てられませんでした。
しかも恵王は採用しないだけでなく、公叔座の病が重いとまで考えていたのです。
公叔座は、恵王が商鞅を登用しようとしないので、商鞅を国外に出さないために最後を与えるように述べました。
ですが、商鞅は恵王が自らを軽んじていることを知っていたため、結局どこにも行かなかったのです。
ちなみに、魏国は有能な人材を輩出しながらも、国外に行かせてしまうことを繰り返してしまいました。
魏は商鞅以外にも、呉起や范雎といった偉人を国外退去に追い込み、逆に魏を攻めさせてしまったのです。
商鞅は、宰相からは評判が良かったのですが、魏の王からは軽視されていました。
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商鞅と並ぶ法家李斯と韓非子
商鞅クラスの法家として、始皇帝の宰相を務めた李斯と思想書で有名な韓非子がいます。
李斯は始皇帝から重用されており、権勢欲に囚われたため、遺言状を偽造し、自分が利用しやすい後継者を推しました。
一時的には権力をアップさせたのですが、自分自身も罪をでっち上げられ、最後となったのです。
韓非子は始皇帝から称賛されるほどの思想を持っていましたが、李斯との権力闘争に敗れ、亡くなりました。
法家は残念ながら、人を処罰するためか、悲惨な末路となる偉人が多いです。
法律家を目指している人は、くれぐれも、商鞅や李斯な最期とならないようにご注意ください。
商鞅以外にも有名な法家として、韓非子だけでなく李斯(りし)もいるのです。
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秦の名君孝公と知り合った法家商鞅
商鞅は秦に入国し孝公に、初めは帝道、次に王道、最後に覇道を述べる事で気に入られました。
孝公は、弱体化しつつあった秦国を改革するために、鬼才を必要としていたのです。
覇道というのは、力を頼みとするやり方で、徳を頼みとする帝道よりも、一見容易で結果が出るように見えるやり方と言えます。
そして、孝公から始皇帝まで秦国は法治主義で、他の国を圧倒しましたが、天下統一後結局滅亡を迎えました。
敵がいる場合は、法治主義は有効で、敵が少なくなったら、仁義や他の考え方が望ましいのでしょうか。
商鞅は、徳で孝公を支えようとしましたが、性急に結果を求める孝公に迎合してしまったのです。
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法律の弱点が露呈した商鞅の最後
商鞅は、秦の君主孝公に取り入りましたが、厳酷な法治主義で、恨みを養い謀反人にされ、最期が来ました。
結局どのような法制度も、君主次第な面があるわけです。商鞅は秦を改革して成功させた自負心があったため、孝公の跡継ぎの恵文王の憎しみに気付いていませんでした。
商鞅も身の危険を察知し逃亡したのですが、通行証が無かったので宿に泊まれなかったのです。
通行証制度は、商鞅が作った法律でした・・・
初代司法卿江藤新平も、警察制度と指名手配制度を整備しましたが、政権争いに敗れ、自らが指名手配され、最後が与えられました。
法律だけをどれだけ極めても、他の要素や重要事項を押さえていないと、商鞅や江藤新平な末路となるのでしょうか。
商鞅は、秦で覇業を成し遂げましたが、自らが制定した法律で首を絞めてしまい、最後を迎えたのです。
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商鞅が変法の際に発した名言
商鞅は、孝公が秦国の変法をためらっている際に、疑行は名なく疑事は功なし、と述べたのです。
- 商鞅は変法を確実に執行するために立木を移動させました
- 変法で生まれ変わった秦軍で祖国魏に勝利した商鞅
疑いながらやってしまうと、何にもならないという意味でしょう。
そして、秦国にも長年の慣習や制度に親しんだ者たちがいたのですが、商鞅は論戦して勝利しました。
殷や周の偉大な王は、昔のやり方を変更して偉人として語り継がれ、夏と殷の悪名高き王は、いにしえの手法にこだわって滅びたと、商鞅は語ったのです。
今上手くいっていない人も、出来るだけたくさん今までのやり方や考え方を変化させると、商鞅の変法のように飛躍出来るのではないでしょうか。
商鞅は、変法をしっかり行わせるために、孝公を故事成語で説得し、秦の側近たちも言い負かしました。
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商鞅は変法を確実に執行するために立木を移動させました
商鞅は、立木を動かした者に大金を与えることで、変法を民衆に信じさせていきました。
初めは商鞅の変法を疑っていた人々も、変法が本当に執行されると思えたのです。
そして商鞅は、孝公の一族でも変法に違反したものには、厳罰を与えました。
秦の民衆たちは恐れをなし、変法をしっかり守るようになったのです。
ただ、厳罰を受けた孝公の親族たちが、商鞅を非常に恨むようにもなりました。
急激な改革には、犠牲を伴うのでしょうか。その犠牲者は、民衆や孝公の一族だけで終わり、商鞅は逃げ切れるものなのか・・・
商鞅は、変法を民衆だけでなく秦の君主孝公の一族にも適応することで、変法による強国化に成功したのです。
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変法で生まれ変わった秦軍で祖国魏に勝利した商鞅
商鞅は、秦で変法を成し遂げ、魏の公子卬を欺いて打ち負かしたのです。
過酷な法律や平気で人を欺くため、商鞅は性格としては冷酷と言えるでしょう。
そして、魏の武将の龐涓(ほうけん)が、孫氏の子孫の孫臏(そんぴん)に恨まれており、馬陵の戦いで大敗したのです。
魏は孫臏と商鞅に相次いで敗北したため、一気に衰退していきました。
ちなみに、孫臏は龐涓に才能を恐れられ嫉妬されてもいたため、罪をでっち上げられ、顔に刺青に足切りの刑も受けたのです。
孫臏が龐涓に恨みの仕返ししたのは、当然の所業と言えるでしょう。
今自分が有利な状況にいても、軽率な言動は慎むのが無難と言えます。
商鞅は、変法で中央集権化に成功し、祖国の魏を騙し討ちで、敗北させたのです。
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まとめ:秦の法家商鞅(しょうおう)の法治主義と変法改革
商鞅が法治主義で、強力に秦国を指導したことを分かりやすく解説してきました。法律で世の中を変えたい人には、必須の偉人でしょう。
李斯や韓非子などの著名な法家も説明しました。法律家を目指している人は、韓非子の思想本もおすすめです。
そして、商鞅が自らが作り出した法律により、追い詰められたことも書きました。まさに因果応報な最期と言えるでしょう。
また、商鞅が変法がしっかり施行されるために、工夫を行ったことも記載しました。商鞅がきっちり変法を適応したからこそ秦が大国化したのです。
商鞅が亡くなった後も、商鞅の法律は残り、秦が他国に勝ち続ける原動力となりました。
商鞅が法治主義による改革と変法で、大名声を博しながら、最後は無残な末路となったことは、偉大な教訓でしょう。