扶蘇は、秦の始皇帝の息子で本当の後継者でありながら、胡亥と趙高と李斯の罠で、最後を迎えました。
李斯は焚書坑儒で、権力拡大と秦の大国化を図っていましたが、扶蘇は危ういと考えていたのです。扶蘇が丞相李斯を抑えられるほどの人物に成長していれば、李斯も悲惨な最期を防げたのではないでしょうか。
そして、過度の始皇帝批判で、万里の長城を統括していた蒙恬の元に、扶蘇が向かわされたのです。扶蘇が蒙恬の大軍と共に趙高の不正を追及していれば、前漢の高祖劉邦が出て来ることも無かったのではないでしょうか。
ちなみに、扶蘇の苗字は、始皇帝と同じく嬴なのです。
扶蘇を詳しく解説していきます!
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目次
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丞相李斯が法家思想を強勢にし秦への批判を減らそうとした焚書坑儒を扶蘇は非難したのです
扶蘇は、秦の始皇帝が李斯を重用し、聖人孔子の教えである儒教を弾圧していたので、諫言しました。
そもそも李斯は、始皇帝嬴政に厚遇されていた韓非子の才能を恐れ、讒言して最後を与えるような人物だったのです。
ただ、韓非子が長生きしていれば、趙高が権力を掌握することが難しくなった面は、あるのではないでしょうか。
そして始皇帝は、李斯のおかげで、敵対勢力に勝利し郡県制を実施することで、より一層強い権力を獲得しました。
また丞相李斯は、性悪説を礼で治める荀子の弟子としても知られており、李斯は悪を法律で統制しようとしたのでしょう。
扶蘇は、始皇帝嬴政の焚書坑儒を諫めることで、法家思想で秦を強力に指導していた、丞相李斯(りし)とも対立していました。
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丞相李斯は秦で立身出世したので扶蘇の父親始皇帝の娘が息子と婚姻していました
扶蘇の父の始皇帝嬴政は、李斯の法家としての能力を高く評価していたため、娘を李斯の息子と結婚させていたのです。
そして、李斯の息子の中でも有名な人物が李由で、陳勝呉広の乱の際も、反乱軍と激戦を繰り広げたのですが、曹参に斬られました。
また、陳勝と呉広は反乱の成功のために、当時まだ生きていると思われていた扶蘇と項燕を名乗り、決起したのです。
ちなみに李斯は、荀子の弟子だった際に、あまりにも上手くいくと危ない、と忠告されていました。
扶蘇の父親の嬴政は、丞相李斯に好印象だったので、娘を李斯の子供と婚姻させていましたが、李由は陳勝呉広の乱の際に曹参(そうさん)に最後を与えられてしまったのです。
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始皇帝を注意し過ぎて扶蘇は匈奴を撃破し万里の長城を管理していた蒙恬の元に送られたのです
扶蘇は、人民と秦国の未来のために、父親の始皇帝に意見したのですが、嬴政は不快に感じ蒙恬の元に派遣しました。
一見左遷に見えますが、始皇帝も扶蘇の主張には共感する部分もあり、名将な蒙恬のところで、立派な後継者となって欲しいと思ったのではないでしょうか。
そして蒙恬は、楚攻略の際に、李信と一緒に攻め込んだのですが、楚の大将軍項燕の策を見通せず大敗北したのです。
結局項燕は、始皇帝の師と言われることもある王翦が、遠大な計略で討ちました。
扶蘇は、始皇帝の政策のやり過ぎを批判したのですが、嬴政から蒙恬(もうてん)の監督を指示され、匈奴征伐の大将軍蒙恬の元で切磋琢磨したのです。
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考烈王の息子の昌平君が嬴政の側近だったので扶蘇の父親始皇帝の正室は楚の関係者とされています
扶蘇の母親、すなわち始皇帝の正室は、昌平君が秦で重用されていたことから、楚の関係者だと推測されているのです。
そもそも秦国は、他国よりも、外国人が出世したり宰相になったりし易い環境を用意することで、たくさんの偉人を集め大国化しました。
ですので、秦で楚の人々が大出世しているというのは、珍しいことではないのです。
そして昌平君は、大将軍項燕が王翦に敗北し、楚王負芻も囚われた際に、項燕から楚王に就任させられました。
扶蘇は、始皇帝の側近の昌平君(しょうへいくん)と、深い繋がりのある正室が母親と言われており、昌平君は楚が窮地に陥った際に、大将軍項燕(こうえん)と共に最後の抵抗を行ったのです。
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諸国巡幸中に最後が来た始皇帝嬴政は扶蘇に皇帝就任を望んでいましたが宦官の趙高に邪魔されました
扶蘇は、始皇帝から後を継ぐことを命じられましたが、趙高が悪知恵を働かせて妨害したのです。
趙高は、扶蘇ではなく胡亥を支持しており、胡亥を二世皇帝に擁立して権力を得よう、としていました。
また始皇帝の巡幸には、丞相李斯も同行していたため、趙高は、扶蘇が皇帝に即位し蒙恬が厚遇されることの危険性を、李斯に語ったのです。
李斯は同じ荀子の弟子にも関わらず、自らの権威欲を優先して韓非子に最期を送ったように、趙高に加担し扶蘇と李斯に最後をあげることにしました。
扶蘇は、秦の始皇帝嬴政からも、後継者として認められるほどの有能さを持っていましたが、胡亥(こがい)擁立を目指す趙高(ちょうこう)と丞相李斯の悪巧みには、対処しきれなかったのです。
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胡亥と趙高と李斯の偽文書で親不孝と批判され心理的に追い詰められた扶蘇は蒙恬の指摘を聞かずに自害しました
扶蘇は、始皇帝がすでに最後を迎え、趙高と胡亥と李斯が、文書を偽造していることを見抜けず、無抵抗で最期を受け入れたのです。
しかし蒙恬は、扶蘇に届いた文書を訝しみ、自刃せずにしばらく生き残りました。
そして胡亥は、扶蘇さえいなくなれば、二世皇帝になれると考えており、蒙恬の有能さも評価していたので、一旦は蒙恬を釈放しようと思ったのです。
ですが趙高は、かつて蒙恬の弟の蒙毅から厳罰を受けそうになり、今回蒙恬が許された後に報復されることを恐れ、結局蒙恬にも最後を与えました。
扶蘇は、孝行を重視した生き方をしていたため、偽文書を真に受けてしまい、すぐに自害し、蒙恬は激しく抵抗しましたが、趙高に警戒されていたので、最期を送られたのです。
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嬴政の父荘襄王は初めは有力な後継者候補ではなかったため扶蘇の父親の始皇帝は不遇な子供時代だったのです
扶蘇の父親の嬴政の父嬴異人は、秦王の後継者候補に含まれているというレベルだったので、始皇帝は過酷な子供時代を過ごしていました。
そして嬴異人が、今後飛躍出来ると見通したのが文信侯呂不韋で、奇貨居くべしとして、自分の寵姫まであげて、嬴異人の王就任を援助したのです。
また後に呂不韋は、荘襄王即位の功績により、秦で嬴政に匹敵する権力を有していました。
しかし、始皇帝に畏怖され、呂不韋は流刑の後に、自害に追い詰められてしまったのです。
扶蘇が、嬴政のような恵まれていない子供時代であれば、始皇帝の偽の文書に騙されずしぶとく生き残り、逆に趙高と李斯と胡亥を制することも、出来たのではないでしょうか。
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まとめ:扶蘇(ふそ)の逸話と始皇帝の正室娘子供時代と蒙恬胡亥と昌平君
扶蘇が、始皇帝の後継者でありながら、趙高と胡亥と李斯の策謀で、皇帝に即位出来なかったことを解説してきました。
嬴政の息子として生まれ有能であるだけでは、秦の皇帝になる能力として、不足だったのでしょうか。
そして、最終的に楚王として擁立された昌平君が、扶蘇の父親始皇帝の正室とも深い関係があった、とされていることも説明してきました。
始皇帝が楚を滅亡させずに、友好関係を築いていれば、扶蘇の強力な後ろ盾になってくれていたかもしれません。
扶蘇は、秦の始皇帝に諫言出来るだけでなく、後継者でもあった逸材なので、趙高の策から生還し長生きしていたら、劉邦や項羽にも勝てる皇帝になっていたのではないでしょうか。