三国志の荀彧と荀攸は、性悪説の荀子の子孫と言われているのです。
荀子が、あの有名な名言を発していたことも、説明していきます。弟子が努力を続けて師匠を超えることは、出藍の誉れではないでしょうか。
そして孟子は性善説を、荀子は性悪説を唱えていました。荀子の説よりも孟子の説は、劣っていたのでしょうか。
また荀子は、戦国四君の春申君からも、評判が良かったのです。春申君は食客がたくさんいたので、荀子の有能さに、すぐに気付いたのでしょう。
他にも、韓非子と李斯が、荀子の弟子だったことも述べていきます。李斯は、始皇帝の丞相になったほどの逸材でしたが、どのような最期だったのでしょうか。
ちなみに荀子の読み方は、じゅんしです。
荀子と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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青は藍より出でて藍より青し水は氷から作られ水より冷たいは荀子の名言です
荀子は、青が藍に優り氷が水に勝るように、学ぶことで人が元よりも優れた人物になれる、と主張しました。
性悪説の荀子は、礼によって、人の悪が良い方向になる、とも考えていたのです。
そして韓非子や李斯の法家は、礼よりも強く人を統制することで、更に性悪説の指導を行おうとしました。
また孔子は、後生畏るべしとも述べ、後の者が先の者を才能や努力で抜く可能性を、示唆していたのです。
孔子も荀子も儒家ですが、孔子は儒家思想の開祖と見なされているほどの人物、でもあります。
荀子は、学問を行うことで、水から発生した氷が水より寒く、藍から出現した青が藍より青いように、人々がより一層高みに行けると信じていたのです。
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儒家の孟子が主張していた性善説と違い性悪説の礼治を重視していた荀子
荀子は、性悪説を語ることで、儒家の孟子の性善説を非難していたのです。
しかし孟子は、論語と中庸と大学と共に四書に含められるほどの名著、と伝わっています。
そして、孟子が子供の頃に墓のあたりに居住していると墓守を行い、商売の近くだと商人を真似たため、母親が学者たちの近くに引っ越し、孟子を学に優れた人物に導いたという逸話もあるのです。
結局人の本質が、善と悪のどちらにしても、学が大事とされています。
また、儒家の孟子は仁を大事にしており、魏の恵王が国力を増加させようとした際も、仁を説いたのです。
荀子は、人の本性は悪と考えたのですが、儒家の孟子(もうし)の性善説も四書に入るほど支持されていたため、蔑ろにすべきではないでしょう。
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万物斉同思想の荘子が礼治の世の中を混乱させていると荀子は考えていました
荀子は、司馬遷の史記において、荘子が摩訶不思議な話で人心を惑わしていたので、非難していたと書かれているのです。
荘子は、すべては同じような存在であるという万物斉同を掲げ、自然体を重視した思想を展開していました。
荀子の礼も、荘子からすれば、余計なことに入ってしまうため、荀子は荘子の思想を受け入れられなかったのでしょう。
そして荀子は、戦国四君の春申君から採用されていましたが、荘子は楚王からの登用要請よりも、自然であることを大切にしたのです。
性悪説の荀子が、礼を重視していない荘子(そうじ)の自然な万物斉同思想を危険視し、批判していたことが、司馬遷(しばせん)の史記からも見えます。
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戦国四君の春申君から登用されていただけでなく儒家の荀子は稷下の学士でもありました
荀子は、斉の学問の聖地と言うべき稷下の学士の出身であり、春申君からも評価されていたのです。
斉は、稷下の学士たちの働きもあり、威王の際に大勢力となりました。
そして他国の君主には、宝物を自慢する者がいたのですが、斉の威王は有能な人材が宝であると語ったのです。
また斉の威王は、孫子の子孫の孫臏の兵法で、魏に連戦連勝しました。
ちなみに孫臏はかつて、魏の龐涓に罪をでっち上げられ煮え湯を飲まされたため、恨みを晴らすことにも成功したのです。
性悪説の荀子は、斉の威王も重視した稷下学士としても著名な人物であり、戦国四君の春申君黄歇(しゅんしんくんこうけつ)からも評判でした。
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性悪説の荀子の弟子には法家の韓非子と秦の丞相の李斯もいます
荀子の弟子には、秦の始皇帝の丞相を務めた李斯だけでなく、優れた法家思想で知られる韓非子もいたのです。
韓非子の法家思想は、始皇帝も絶賛するほどの理論であり、韓非子は秦で出世する可能性もありました。
しかし、始皇帝の元には李斯がすでにおり、韓非子の才能が自らの立場を脅かすと判断し、最後に追い詰めたのです。
後に李斯は、万里の長城で有名な蒙恬をも最期に追い込み、自らの地位にしがみつきましたが、宦官の趙高には敗北しました。
荀子には、始皇帝からも高評価された韓非子(かんぴし)と李斯(りし)が弟子としていましたが、丞相李斯は権勢欲に囚われ秦滅亡の原因を作り出し、趙高にも敗れたのです。
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疑いながら怪しい決断を行えば結局上手くいかないという荀子の格言
荀子は、疑心を有してハッキリさせずしっかり考慮していなければ、結論も見当違いになると語っているのです。
そして、荀子の弟子の李斯や韓非子と同じ法家には、商鞅もいるのですが、疑行は名なく疑事は功なしと述べています。
荀子だけでなく偉人の商鞅も主張しているため、疑いを少なくしていくことが、良い生き方なのでしょう。
また商鞅は、秦を法治国家とし、魏にも大勝しましたが、法の刑罰を恨む者たちに最期を与えられたのです。
法家は商鞅に限らず、無残な最後の人物が多いため、法律には危ない面もあるということでしょう。
性悪説の荀子は、秦の法治主義の商鞅(しょうおう)と同じように、疑事と疑行が危ないことを警告していました。
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どういう人か分からなければその人の友人を見るべきという儒家の荀子の名言
荀子は、人を見極める際に、友達を見ると分かると述べているのです。
友は自らを映す鏡という格言もあるため、多くの偉人が似たことに気付いていたのでしょう。
そして、朱に交われば赤くなるや類は友を呼ぶ、という名言も存在しているため、良い友達を集めると自分も優れた人物になっていけるのではないでしょうか。
また荀子は、君主を知りたければ、側近の部下をチェックすると良い、とも語っています。
ちなみに、三国志の曹操は、荀子の子孫で優秀な荀彧を参謀に出来たため、非常に喜んだとされているのです。
曹操は荀子の考えからしても、有能な君主と言えるでしょう。
性悪説の荀子は、友達や側近で人々の本質が見えると主張し、周りの環境の重要性も暗に論じていたのです。
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まとめ:荀子の性悪説思想の名言格言と三国志と儒家の孟子違いわかりやすくと弟子の考え方エピソード
荀子が優れた思想により、どれくらい凄い名言を語っていたかを解説してきました。まずは、荀子の格言を暗記してみると良いでしょう。
そして、荘子の自然な万物斉同思想が、荀子の礼治思想と衝突していたことも、説明してきました。真面目な人は、荀子の礼な思想の方が好みかもしれません。
また荀子が、疑いながら行動することを危惧していたことも、記載してきました。確信が持てるくらい考えてこそ、大事業も成功するのではないでしょうか。
他にも、周りにいる人々が及ぼす重大さを、荀子が語っていたことも述べてきました。逆に言えば、周りを奇才で固めれば、どんどん上手くいくということではないでしょうか。
荀子は性悪説思想を広め、格言や名言を誕生させ、弟子には法家の韓非子と李斯もいるため、必見でしょう。