趙奢と三国志!馬服君能力、長平の戦い、息子趙括馬謖、嫁子孫も解説

潼関の戦いで、乱世の奸雄曹操を追い詰めた錦馬超の祖先が、趙奢なのです。

平原君の部下が納税していなかったので、趙奢は厳酷に処罰しました。戦国四君の平原君は激怒しましたが、趙奢は切々と道理を述べたのです。

そして趙奢は、閼与の戦いで勇者な気迫と計略で、秦に勝ちました。閼与の戦いは、廉頗でも難易度が高いと主張するほどの難しさを、誇っていたのです。

また、長平の戦いの大将軍趙括のことを父親の趙奢は、偽物だと見通していました。趙奢の考える兵法と趙括の兵法は、天と地ほど差があったのでしょうか。

他にも、三国志の趙奢の子孫も説明していきます。劉備の部下の五虎大将軍のひとりが、趙奢の末裔とされているのです。

趙奢と三國志を詳しく解説していきます!

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戦国四君の平原君に法と税の重要性を示した馬服君趙奢の能力

趙奢は、趙の権力者平原君にも臆することなく、税と法の重大性を主張しました。

身内が処罰されたため怒っていた平原君も、趙奢の賢さに気付き、むしろ武霊王の子供の恵文王に推挙したのです。

そして武霊王は、胡服騎射によって中山国を併合し、大国秦にも恐れられていたほどの人物でした。

しかし後継者争いを発生させてしまい、自らも飢えに苦しむ最後となったのです。

また長平の戦いで、趙奢の息子が大負けするわけですから、武霊王の騎馬隊で無理にでも秦を攻撃しておくべき、だったかもしれません。

馬服君趙奢は、戦国四君の平原君に法律と国税の重みを語ることで、胡服騎射で知られる武霊王の息子の恵文王からも、高評価されました。

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閼与の戦いで酷道であることを逆手に取り秦軍を勇敢に撃破し馬服君となった趙奢

趙奢は、燕の英雄楽毅の親戚の楽乗と歴戦の猛者の廉頗が、閼与の戦いで良い作戦を述べられない中、良策を語りました。

結局閼与は危険で狭い地形なので、豪胆な将軍が向かえば、敵が大軍で攻めて来ても押し返せるでしょう、と趙奢は述べたのです。

そして趙奢は、閼与に到着してもあまり動かず、秦のスパイを上手く待遇し、帰してあげました。

また趙軍には許歴がおり、趙奢に秦軍の猛攻を防ぐ防御の大事さと、近くの山の軍事的な意味合いを主張したのです。

趙軍の重鎮の廉頗(れんぱ)と楽乗(がくじょう)が、閼与の戦いの難しさを進言する中、趙奢は打開策を語り部下の許歴と共に秦軍に勝利し、馬服君に就任しました。

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馬服君趙奢の子孫には三国志の潼関の戦いで超世の傑曹操に最期を与えかけた五虎大将軍の錦馬超もいます

三国志の曹操は、西涼の併合も考えており、まずは漢中の張魯を味方としたため、韓遂と馬超は畏怖したのです。

馬超と韓遂は、まだ自領と曹操軍が離れているので、今このチャンスに決起しなければ、一気に曹操に踏み潰されると考えました。

そして、西涼の精鋭を率い馬超が猛攻すると、曹操の予想以上に馬超は善戦し、あやうく曹操自身も討たれそうになったのです。

しかし曹操には参謀に賈詡がおり、馬超を巧みに疑心暗鬼に陥れ、仲間の韓遂を攻めさせました。

また曹操の部下には、許褚もおり、馬超の武勇にも比肩する武将だったのです。

三国志の五虎大将軍の錦馬超は馬服君趙奢の子孫で、曹操孟徳(そうそうもうとく)の大勢力を恐れ潼関の戦いで健闘しましたが、軍師賈詡文和(かくぶんわ)と虎痴許褚仲康(きょちょちゅうこう)により負けました。

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長平の戦いで大敗した息子の趙括のことを趙奢は嫁に事前に警告していたのです

趙奢は、子供の趙括が巧みな兵法論を展開し、得意気に語るので、後々に破滅をもたらすと見抜いていました。

趙括が将軍にさせられそうになったら、何としても断るべきとまで、趙奢は妻に述べていたのです。

そして歴戦の将軍廉頗が、長平の戦いで苦闘していたため、孝成王は趙括を将軍に任命してしまいました。

趙括は廉頗の持久策を変更しただけでなく、秦の白起大将軍への侮りもあり、趙の大軍で簡単に勝てると勘違いし、偽装退却にハマり最後を迎えたのです。

馬服君趙奢は、息子の趙括(ちょうかつ)が兵法で妄想していたため、嫁に忠告を与えていましたが、孝成王は趙括を長平の戦いの大将軍としてしまい、大敗を招きました。

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三国志の諸葛亮の部下の馬謖も兵法論に長けていながら街亭の戦いで敗れたので趙奢の息子趙括に似ています

蜀漢は関羽と張飛と劉備を相次いで失い、夷陵の戦い以後は、魏や呉ともあまり戦をしていませんでした。

しかし蜀漢には、劉備が三顧の礼で呼んだ臥龍諸葛亮がおり、北伐の機会をうかがっていたのです。

そして諸葛亮は、軍師として評価していた馬謖に、街亭の戦いの統括を指示し、登山しないことを求めていました。

ですが馬謖は、諸葛亮の考えを侮り、王平の諫言も聞かず弁舌で翻弄し、結局は張郃に負けたのです。

馬服君趙奢の子供の趙括が、兵法論に優れていながら長平の戦いで大敗したように、三国志の街亭の戦いで、馬謖幼常(ばしょくようじょう)は兵法論に固執し諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の北伐の夢を潰えさせました。

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趙括が大将軍に指名される際に趙奢の妻が孝成王に連座から免れることを条件としたのです

孝成王が、長平の戦いで趙括を指揮官に変更しようとしたため、趙奢の嫁は失敗しても一族に危害が及ばないように求めました。

三国志の馬超が、潼関の戦いで活躍したり五虎大将軍になれたりしたのは、趙奢の妻のおかげとも言えるでしょう。

そして趙奢の子供の趙括の失策で、衰退した趙は、弱国の燕からも狙われたのです。

ですが、趙には廉頗がいたため、燕に勝利し、逆に領土を拡大することに成功しました。

やはり、廉頗を長平の戦いの指揮官にし続けていれば、白起に勝った可能性もあるでしょう。

馬服君趙奢の息子趙括は、長平の戦いで大失敗しましたが、嫁の進言で子孫は生き残り、三国志の五虎大将軍錦馬超孟起(ばちょうもうき)も誕生したのです。

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秦の宰相范雎は廉頗が手強いので趙奢の息子趙括を引きずり出すために策を講じたのです

長平の戦いで宰相范雎は、本当は廉頗を難敵と考えていたのですが、廉頗が上手く防戦していることを趙の孝成王は、弱腰と見なしてしまっていました。

范雎は策略に長けていたため、秦が廉頗を扱い易く、趙奢の子供の趙括は兵法に秀でており危険だと考えている、という噂を広めたのです。

そして、趙の大賢者藺相如が諫言したにも関わらず、趙の孝成王は趙括の虚名に騙され、敗北を呼び込んでしまいました。

ちなみに范雎は、白起が長平の戦いで勝利し著しい功績を得て、自らの立場を脅かすようになると、すぐに左遷したのです。

馬服君趙奢の息子の趙括は、范雎(はんしょ)の策略に乗せられ大将軍に就任し、長平の戦いで大敗北を喫しましたが、孝成王が賢人藺相如(りんしょうじょ)の諫めを聞かなかったことも要因でした。

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まとめ:馬服君趙奢(ちょうしゃ)の能力と三国志子孫と長平の戦いの息子趙括

趙奢が子供の趙括と異なり、秦を閼与の戦いで打ち負かすほどの名将、だったことを解説してきました。趙は、趙奢が生きていた頃までが、秦と張り合える時代だったのではないでしょうか。

そして趙奢の子孫には、五虎大将軍の錦馬超がいることも説明してきました。馬超は趙括に似ず趙奢に似たからこそ、潼関の戦いで曹操と死闘を演じられたのでしょう。

また三国志には、趙奢の息子趙括と同じような間違いを犯した、馬謖がいたことも述べてきました。馬謖は春秋戦国よりも後の時代の軍師なので、趙括の過ちを知らないわけがないはずですが・・・

趙奢が生きていれば、息子の趙括が長平の戦いで負けなかった、と言えるほどの馬服君な人物でしょう。

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