三国志の天才軍師諸葛亮で有名な作戦と言えば、天下三分の計でしょう。
諸葛亮が劉備に示した隆中策の中に、天下三分の計が含まれていました。長い間流浪だった劉備には、目から鱗が落ちるほどの策に感じられたのではないでしょうか。
そして、諸葛亮の天下三分の計が、結局は失敗したことも説明していきます。劉備軍があまりにも急速に勢力を拡大したので、いろいろな歪が一気に出たのでしょう。
また、諸葛亮が天下三分の計が、破綻しているにも関わらず北伐したことも述べていきます。
諸葛亮にとって劉備とは、天下三分の計以上に深く結び付いた間柄、だったのでしょう。
三國志の天下三分の計を詳しく解説していきます!
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目次
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曹操に連戦連敗し流浪していた劉備に軍師諸葛亮は天下三分の計を提示しました
三国志の天下三分の計は、劉備が最終的に天下を獲得するための策で、諸葛亮の秘策と言えるでしょう。
乱世の奸雄曹操が、官渡の戦いで袁紹に勝利し、北方を独占的に領有していました。
しかし呉には孫権がおり、荊州と益州には強大な勢力がいない状態だったのです。
ですので、諸葛亮は劉備が荊州と益州を獲得することで、曹操に対抗し得ると主張しました。
そして諸葛亮と劉備は、定軍山の戦いで曹操軍に大勝したのです。
諸葛亮の天下三分の計は、定軍山の戦いの勝利までは、かなり上手くいっていたと言えるでしょう。
諸葛亮孔明は、超世の傑曹操を倒したい劉備玄徳(りゅうびげんとく)のために、天下三分の計を示したのです。
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魯粛は天下三分の計ではなく主君孫権の大勢力を頼みとした天下二分の計を語りました
三国志の天下三分の計に対抗し得る策として、魯粛や周瑜は、天下二分の計を主張していたのです。
呉の孫権は、単独でも曹操に戦を挑めるほどの大勢力で、赤壁の戦いでは軍師周瑜の策で、曹操に勝利しました。
諸葛亮の天下三分の計では、劉備が荊州と益州を獲得するのが望ましいわけですが、天下二分の計では荊州周辺を呉の孫権が掌握するのです。
そして赤壁の戦い以後、呉の孫権は荊州を劉備に貸しましたが、孫権は天下二分の計のつもりで貸したのではないでしょうか。
劉備の軍師諸葛亮は、天下三分の計を示しましたが、周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)と魯粛子敬(ろしゅくしけい)は、天下二分の計が呉の孫権に最適だと考えていました。
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劉備の義兄弟関羽が暴走し要の荊州を失ったので天下三分の計は愚策と言えるかもしれません
三国志の天下三分の計は、劉備が一時的に荊州と益州を領有することで、成功したかに見えましたが、呉の孫権が劉備の荊州獲得を認めなかったのです。
荊州は、劉備の義兄弟関羽が統括していたのですが、呉の武将だけでなく孫権のことも侮っていました。
関羽は樊城の戦いで無理に攻める事で、大戦果を得ましたが、勝手に孫権領の兵糧を利用したのです。
そして呉の孫権は、曹操の誘いに乗り、部下の呂蒙に関羽の荊州を奪わせました。
諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が唱えていた天下三分の計は、関羽雲長(かんううんちょう)の尊大さを考慮に入れていなかったので、愚策と述べられるかもしれません。
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劉備ではなく孫権を中心とした天下三分の計であれば成功した可能性はあるでしょう
三国志の天下三分の計は、諸葛亮の主君劉備が第三勢力となることが重要だったので、呉の孫権との対立も生じ得るものでした。
そもそも呉の孫権と魯粛は、劉備が益州を獲得するまでの期間、荊州を貸していると考えていたのです。
そして劉備と諸葛亮は、益州だけでなく荊州も活用し、漢帝室再興を行うつもりでした。
また孫権自身も、曹操と戦う上で、劉備との連盟が重要なことも理解しており、劉備の荊州の事実上の支配を容認していたのです。
しかし劉備の義兄弟の関羽が、呉や孫権をかなり見下していたため、孫権は荊州を力ずくで獲得しました。
呉の孫権を軸として天下三分の計を展開していれば、荊州の関羽の暴走も防げたのではないでしょうか。
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諸葛亮は天下三分の計が失敗したにも関わらず北伐を繰り返し五丈原の戦いで最後を迎えました
三国志の天下三分の計は、関羽が荊州を孫権に奪われたことで失敗したのですが、諸葛亮は北伐を五度も行ったのです。
諸葛亮の主君劉備は、関羽が呉の孫権に斬られたので、復讐のために夷陵の戦いを行いました。
一時的に荊州周辺を取り戻したのですが、呉の孫権の軍師陸遜に大敗したのです。
そして諸葛亮は、劉備の死後も魏を倒す夢を抱き続け、北伐を何度も実行しました。
しかし、天下三分の計の要の荊州が、蜀漢の勢力圏ではないため、益州方面軍ばかりになり、魏の司馬懿に上手く防御されたのです。
天下三分の計が、荊州喪失で事実上失敗していたのですが、諸葛亮は劉備の死後も、亡き主君の夢を実現しようと努力しました。
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劉邦と国士無双韓信と覇王項羽の勢力が拮抗した際韓信の軍師蒯通も天下三分の計を主張したのです
三国志の天下三分の計と似たような状況が、楚漢戦争の際も発生しており、蒯通が主君の国士無双韓信を第三勢力にしようとしていました。
そもそも韓信は、劉邦から大将軍に任命される前は、あまり評価されていない人材だったのです。
ですので、韓信は自らが第三勢力となり劉邦を裏切るような形は、選べませんでした。
それに韓信は、自分が大出世した後に、昔の恩に報いるほど情に厚い人物だったのです。
そして、韓信が劉邦に味方し続けたことで、劉邦は覇王項羽に勝利したのですが、韓信は謀反の嫌疑で最後を与えられました。
軍師蒯通は、国士無双韓信の将来のために、天下三分の計を提示しましたが、韓信は劉邦からの恩を優先し、最終的にあえない最期となったのです。
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韓信は将軍として有能だったので天下三分の計で平和を遠ざけるべきだったのでしょう
三国志の天下三分の計は、諸葛亮が劉備を曹操に対抗させる策でしたが、楚漢戦争の天下三分の計は、国士無双韓信のためでした。
韓信は、劉邦から大将軍に抜擢される前は、覇王項羽の元で冷遇されていた武将に過ぎなかったのです。
ですので、韓信は平和が訪れてしまうと、覇王項羽の時代と同じく、落ちぶれていく可能性が高いと言えます。
軍師蒯通は、天下三分の計により、韓信が天下を獲得するか騒乱が続くかの状況を作り出し、韓信を活かそうとしたのではないでしょうか。
そして韓信も、最後には蒯通の天下三分の計の正しさを悟り、大鳥がいなくなると良い弓は要らなくなると語ったのです。
前漢の三傑のひとり国士無双韓信は、戦あってこその人物であり、本当は蒯通の天下三分の計を行わなければならなかった、と言えます。
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まとめ:三国志の天下三分の計の意味をわかりやすくと韓信の失敗と魯粛の天下二分の計
三國志の天下三分の計で、諸葛亮がどのような末路を迎えたかを、わかりやすく解説してきました。
元々劉備たちは弱小勢力だったので、第三勢力になれただけでも、良しとすべきかもしれません。
そして、呉の軍師魯粛が、天下二分の計を主張していたことも説明してきました。孫権が三国志の一か国を長年統治出来たのは、魯粛のような有能な軍師がいたからでしょう。
またいにしえの国士無双韓信が、劉邦への情を選んで、天下三分の計を行わなかったことも記載してきました。
非情でなければ、生き残れないのが乱世なのでしょうか。
三国志の諸葛亮は天下三分の計を活用して失敗し、韓信は天下三分の計を採用せずに失敗したので、計略にあまりこだわらないことが望ましいでしょう。