昭襄王!秦国白起、故事歴史、母宣太后、嬴稷史実、范雎魏冄も解説

秦の始皇帝嬴政が、中国を統一出来たのは、昭襄王嬴稷が白起や范雎を重用したからではないでしょうか。

昭襄王は、胡服騎射の武霊王とも深い繋がりがあったのです。もしも、武霊王ともっと連携する道を選んでいれば、長平の戦いの生き埋めは、発生していなかったかもしれません。

そして、范雎は昭襄王から信任されていましたが、窮地に立たされたのです。昭襄王は非常に擁護したのですが、結局范雎は剛成君蔡沢の発言を重んじました。

また昭襄王は、范雎の献策により、権勢を極めていた母の宣太后と魏冄を追い払ったのです。范雎がいなければ、昭襄王の方が追放されていた危険性もあるでしょう。

昭襄王を詳しく解説していきます!

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胡服騎射の武霊王と魏冄の援助で昭襄王は武王の後継者として即位しました

昭襄王は、豪力に拘り孟賁とパワーを競った結果、骨を折り最後を迎えた、武王の次の秦王となったのです。

そして昭襄王は、胡服騎射を趙に取り入れた武霊王の後見を、受けていたことでも知られています。

また武霊王は、胡服騎射で趙の軍事力を強大にしたので、秦を攻略するために、秦王となった後の昭襄王に身分を隠して会ったのです。

特別なオーラを放つ人物が謁見した者にいたため、昭襄王も訝しんだのですが、まさか武霊王本人とは、その場では気付かなかったとされています。

昭襄王は、無駄に力自慢をして最期が来た、武王の後を継ぎ秦王に就任した際に、胡服騎射の武霊王のサポートも受けたのです。

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秦の昭襄王から最後を与えられることを恐れている范雎に剛成君蔡沢は良い生き方を論じました

昭襄王は、宰相范雎を礼遇したいのですが、連座が重なり処罰せざるを得なくなっていたところ、蔡沢が現れおすすめの出処進退を語ったのです。

蔡沢は、呉起や商鞅や夫差や桓公も、結局は過去の栄誉に固執し状況の変化を見抜けず、悲惨な最後で終わったと述べました。

ですので、范雎も秦の宰相としての栄光に拘らずに、引退することで、悲惨な末路を回避すべきと主張したのです。

ちなみに、范雎が隠居しようとした際に、昭襄王は留任させようとしたため、范雎は重病と言うことでやっと辞められました。

昭襄王は、連座になりそうになった范雎(はんしょ)を弁護していましたが、范雎は剛成君蔡沢(さいたく)の過去の偉人の間違いから、宰相を辞める利点を悟ったのです。

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秦の宰相范雎は王稽と鄭安平に連座すべき立場でしたが昭襄王は庇いました

昭襄王は、范雎を厚遇していたため、范雎が推挙した鄭安平と王稽が問題を起こしても、擁護したのです。

范雎は元は魏にいたのですが、須賈と魏斉に内通を疑われ、厳罰を加えられました。

そして魏から亡命する際に、助けてくれたのが、鄭安平と王稽だったのです。

ですので、范雎は大出世した後に、王稽と鄭安平の恩に貢献するために、地位を与えました。

范雎の将来を見越して恩を売れたとしても、能力がそこまで高いわけではなかったのでしょう。

ちなみに、范雎は恩だけでなく恨みにも報復し、睚眦の怨みということわざも誕生しました。

昭襄王は、秦の宰相范雎の立身を手伝った鄭安平(ていあんぺい)と王稽(おうけい)の失敗に、范雎を連座させず重用し続けたのです。

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長平の戦いで白起を大将軍とすることで昭襄王は趙括に大勝利したのです

昭襄王は、秦王就任の時に援護してくれた、魏冄も高評価だった白起を、長平の戦いで大将軍に任用しました。

白起は、趙括が傲慢なことを見抜き、偽って退却し、趙括を突出させ打ち負かし、更に食糧不足に陥らせたのです。

そして大将軍趙括は、決死の覚悟で白起軍に突撃しましたが、すでに戦略負けしていたので、最後を与えられてしまいました。

ちなみに、趙括の父親の趙奢は、閼与の戦いで秦に勝った名将であり、馬服君と呼ばれていたのです。

昭襄王は、魏冄からも評判だった白起(はくき)を長平の戦いで大将軍に任命し、白起は偽装を行うことで、趙括(ちょうかつ)を上手く操り兵糧攻めにし、最期も送りました。

⇒趙括!机上の空論、史記趙奢有能、白起長平生き埋め、馬謖故事も解説

名将廉頗は長平の戦いで難敵秦軍を以逸待労の策で破ろうとしたため昭襄王と范雎は趙括を大将軍にさせる策を展開しました

昭襄王は、長平の戦いで廉頗が秦軍を疲弊させる手法を用いたので、宰相范雎に趙括を引きずり出させたのです。

范雎は、廉頗は高齢なので簡単に操れるが、馬服君趙奢の息子趙括は、油断ならないという噂を流しました。

そして趙の孝成王自体も、廉頗がなぜ秦軍をなかなか攻撃しないのかを、理解出来ていなかったため、大将軍を廉頗から趙括に変更したのです。

廉頗にふさわしい名君が趙王であれば、長平の戦いで、趙が転落していくこともなかったでしょう。

昭襄王は、強力な秦軍で長平の戦いの際に、廉頗(れんぱ)を威圧しましたが、廉頗は固い防御で対抗し秦を疲弊させたため、宰相范雎に趙括を大将軍とさせる謀略を使わせました。

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昭襄王が母親の宣太后と穣侯魏冄たちに権力を脅かされていたため范雎は追放を薦めたのです

昭襄王は、穣侯魏冄から王位継承の折に、助けてもらっている手前もあり、魏冄たちに権勢を奪われていました。

そこで范雎は、魏冄の政策では、魏冄の領土が拡大するばかりと主張し、遠交近攻策を提示したのです。

そして范雎は、昭襄王の信頼を獲得したため、昭襄王の母の宣太后と魏冄たち権力者を、遠ざけることを進言しました。

昭襄王と魏冄たちの二つの勢力が秦にあった場合、内戦で国が割れてしまう恐れも、あったのではないでしょうか。

ちなみに、魏冄は莫大な財力を有していたので、范雎の提言を用いたのは、昭襄王の憂いを無くす好手だったと言えます。

昭襄王は、范雎を重用することで、王位継承を援助した穣侯魏冄だけでなく母親の宣太后をも追い出し、権力を盤石にしていったのです。

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宰相范雎が長平の戦いでの大勝利を警戒したことで白起の不満を高めてしまい昭襄王と共に白起を最後に追い込む結果になりました

昭襄王は、趙の邯鄲攻撃が戦国四君の春申君と信陵君に防がれたため、白起を再度大将軍に任じましたが、白起は強く拒絶したのです。

白起は、長平の戦いの勢いで趙を攻略したかったのですが、范雎が立場を危惧し、白起を戻らせました。

このことで、白起は范雎と昭襄王の要望を拒むようになり、趙攻めも非難するばかりで、自分が指揮を執ることはしなかったのです。

白起は大将軍としては有能でしたが、政治力には欠けていたので、危険な発言を平気でしてしまったのではないでしょうか。

昭襄王は、趙攻略が難局に陥ったので、白起を大将軍にしたかったのですが、白起は范雎の裏切り行為を根に持っており、とうとう秦王から最期を与えられました。

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まとめ:昭襄王嬴稷(しょうじょうおうえいしょく)の故事と秦の歴史と白起故事と母親の宣太后

昭襄王が、どのようにして王位に就き、権力を確立していったかを解説してきました。王族として生まれるだけで、簡単に王でいられるわけではないのです。

そして、秦の宰相范雎が、昭襄王から好待遇だったことも説明してきました。昭襄王にとって范雎は、唯一無二の家臣だったのでしょうか。

また范雎と昭襄王が、強敵廉頗に勝利するために、巧みな謀計を利用したことも述べてきました。

もしも廉頗と白起が激突していた場合、長平の戦いの勝敗は、分からなかったのではないでしょうか。

昭襄王は、胡服騎射の武霊王を味方として即位し、范雎を重用することで、権力者の穣侯魏冄や母親の宣太后にも勝った、名君だったのです。

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