荘襄王!始皇帝父親、嬴政母親、妻趙姫、ろうあい呂不韋、兄弟も解説

荘襄王は、始皇帝嬴政の父親と言われている、秦王です。

呂不韋は奇貨居くべしと考え、荘襄王を厚遇しました。荘襄王自身も、自分を秦王としていれるような逸材を、探していたのではないでしょうか。

そして荘襄王の妻趙姫が、呂不韋の子供を妊娠していた可能性もあるのです。始皇帝嬴政の父親が呂不韋なら、秦王室は子嬰以前に、滅びていたことになるのではないでしょうか。

また、魏の信陵君が秦を追い詰めたので、荘襄王は離間の計を展開しました。信陵君が魏に君臨していた場合、始皇帝の天下統一も、遠のいたのではないでしょうか。

他にも、始皇帝の兄弟で荘襄王の息子の成蟜も、説明していきます。成蟜は趙に付き破滅しましたが、長生きしていれば、嬴政の次の皇帝にもなれたのではないでしょうか。

荘襄王を詳しく解説していきます!

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文信侯呂不韋は奇貨居くべしで秦の荘襄王に大金を援助し即位させました

後の荘襄王である嬴異人は王族でしたが、多くの王族の一人に過ぎず、秦からも冷遇されていましたが、呂不韋は将来を見通したのです。

呂不韋は商人として大成功していたため、嬴異人が莫大な利益を出現させると見抜き、奇貨居くべしと語りました。

しかし呂不韋は、荘襄王の子供から成敗されることまでは、考えられなかったのでしょう。

ですので、呂不韋の奇貨居くべしは、諸刃の剣だったとも言えるのではないでしょうか。

また、もっと荘襄王が長生きしてくれれば、呂不韋の未来も最後まで安泰だったのかもしれません。

荘襄王は、不遇な王族でしたが、文信侯呂不韋(りょふい)から奇貨居くべしで注目され、後に秦王に就任出来たのです。

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秦の始皇帝の母親の趙姫は呂不韋から愛されていましたが荘襄王にも好まれ妻となりました

荘襄王は、呂不韋から多額の援助を受けるだけでなく、趙姫も譲ってもらったのです。

しかし趙姫は、すでに呂不韋から寵愛されていたため、荘襄王の妻となる前に懐妊していたとも言われています。

また呂不韋は、秦で大出世した後も、始皇帝嬴政の母親の趙姫と私通していたのです。

ですが呂不韋も危機感を持ち、趙姫に嫪あいを紹介することで、関係を誤魔化そうとしました。

嫪あいが外見で優れているだけでなく、人格や才能にも長所があれば、趙姫を正しく導いていたかもしれません。

荘襄王は、趙姫(ちょうき)を妻に迎えていましたが、趙姫は呂不韋との密通も繰り返し、嫪(ろう)あいとも悪い関係があったのです。

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荘襄王の妻趙姫はろうあいと密通し子供も生まれましたが始皇帝嬴政は死因を与えました


荘襄王の嫁の趙姫は、呂不韋だけでなくろうあいとも私通し、息子も誕生したのです。

しかし嬴政は認めず、昌文君と昌平君にろうあいを処罰させました。

また、楚の考烈王の兄弟が昌文君で、息子が昌平君だったため、始皇帝嬴政の元でも楚の勢力が拡大したのです。

そして後に、楚の大将軍項燕の子孫の項羽から、秦が滅亡させられるため、不思議な因果とも言えるでしょう。

ちなみに、昌平君は最後の楚王となり、秦の王翦に対抗しましたが、敗北して生涯を終えたのです。

荘襄王の妻の趙姫は、呂不韋が用意したろうあいとの密通で息子が生まれましたが、昌平君(しょうへいくん)と昌文君(しょうぶんくん)に征伐され、呂不韋も落ちぶれていきました。

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王齕が戦国四君の信陵君の合従軍に敗北しましたが秦の荘襄王は離間の計を仕掛けました

荘襄王は、王齕の敗戦で秦を衰えさせましたが、信陵君の信望が厚いことを逆手に取ったのです。

信陵君は兄弟に安釐王がおり、安釐王は信陵君の有能さを畏怖していました。

ですので荘襄王は、信陵君が造反する噂を、晋鄙の元配下に流させたのです。

信陵君は、かつて王齕が邯鄲包囲を行った際に、将軍晋鄙を無理に討ち、春申君と共に秦に勝利したため、晋鄙の部下に憎まれていました。

晋鄙に最期をもたらしていなければ、信陵君が讒言で警戒されることもなかったかもしれません。

荘襄王は、王齕に勝利した戦国四君の信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)を、安釐王の猜疑心に付け込んで、破滅させることに成功しました。

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荘襄王は趙を脱出し秦王になる手筈が整ったため息子の始皇帝嬴政と母親の趙姫も秦に行けたのです


荘襄王は、王齕が趙の邯鄲を攻めたので、危機になる前に呂不韋の後援で秦に逃れました。

嬴政と趙姫は趙に取り残されましたが、荘襄王が秦王の継承者となったため、秦に来ることが出来たのです。

また始皇帝嬴政は、父親が秦に逃亡する中、危険な趙にいたので、法律で厳酷に統治する冷酷な人物に育ったのかもしれません。

そして、王齕と共に長平の戦いで趙括に圧勝したのが白起であり、白起は絶大な功績により秦の丞相范雎に恐れられ、遠ざけられていったのです。

荘襄王は、長平の戦いで勝利した秦軍が、勢いに乗り邯鄲を包囲したため、呂不韋の援助で脱出し、後には趙に残されていた趙姫と始皇帝嬴政(えいせい)も無事に呼べました。

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子傒は荘襄王の兄弟の中でも秦王になれる可能性の高い人物でしたが呂不韋が華陽夫人を味方としたので荘襄王が即位出来たのです

荘襄王は、呂不韋が巧みな話術で華陽夫人を取り込んだおかげで、兄弟の子傒を押し退けて秦王になれました。

また荘襄王嬴異人は、楚出身の華陽夫人に気に入られるために、名前を子楚に変更したのです。

そして荘襄王の父親の孝文王安国君は、昭襄王の次の秦王に即位しましたが、すぐに最後を迎えました。

呂不韋は謀略にも長けているので、荘襄王を確実に秦王とするために、孝文王を追い込んだのかもしれません。

また、荘襄王は秦王としては数年しか生きていないため、孝文王が長命だった場合、呂不韋の大投資すべてが無駄になった可能性もあります。

荘襄王は、大商人呂不韋の強力な後ろ盾と子楚への変名で、華陽夫人から礼遇され、父親の孝文王安国君の後継者となったのです。

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秦の始皇帝は荘襄王の子供で嬴政の兄弟には長安君成蟜もいます


荘襄王の息子には、嬴政だけでなく成蟜もおり、成蟜は反乱を起こして最後を迎えたのです。

そして成蟜は、嬴政の母親趙姫とは別の母と言われており、韓王から大きく領地を得たことで、長安君の地位を得ていました。

しかし成蟜は、悼襄王を攻撃している中、趙に味方し嬴政に謀反したのです。

また悼襄王は、龐煖を将軍に任命することで、血気盛んな燕の劇辛に勝利してもいます。

ですので、成蟜が悼襄王の近くまで行ってから造反していれば、生き残れたのではないでしょうか。

荘襄王の子供には、始皇帝の兄弟成蟜(せいきょう)がおり、長安君でしたが趙の悼襄王趙偃(とうじょうおうちょうえん)と連携し、嬴政に刃向かいましたがすぐに最後を加えられました。

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まとめ:荘襄王(そうじょうおう)は始皇帝の父親と妻趙姫は嬴政母親と兄弟子供と呂不韋ろうあい

荘襄王がどのようにして秦王に就任し、始皇帝の父親となったかを解説してきました。嬴政の偉業が目立っていますが、荘襄王の秦王即位があってこその始皇帝なのです。

そして、趙姫が荘襄王の妻にも関わらず、ろうあいと不適切な関係を持っていたことも、説明してきました。荘襄王が趙姫を妻としたことは、大きな失敗だったのかもしれません。

また荘襄王は、兄弟の子傒との後継者争いに勝利して、秦王となったことも述べてきました。呂不韋という強力なキーマンを押さえた時点で、荘襄王の秦王即位は確定していたのでしょう。

荘襄王が、上手く呂不韋の後援を取り付けたからこそ、嬴政が誕生し、秦の始皇帝の天下統一が実現したのではないでしょうか。

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