指鹿為馬!宦官趙高由来、鹿を指して馬と為す故事意味、史記閻楽解説

故事成語の指鹿為馬は、二世皇帝胡亥を操っていた宦官の趙高が、権力を自負したことを意味しています。

そして二世皇帝胡亥は、趙高が鹿を指して馬と為すを行った意味を見通せずに、無残な最後を迎えました。胡亥がもっと賢ければ、そもそも趙高を礼遇していなかったかもしれません。

また最後の秦王の子嬰は、趙高が指鹿為馬で示した権力を、打ち砕いたのです。扶蘇や子嬰が始皇帝嬴政の後継者になっていれば、趙高も好き勝手には出来なかったのではないでしょうか。

ちなみに、ことわざの指鹿為馬は、しろくいばです。

指鹿為馬を中国語や原文ではなく、現代語訳で由来意味と共に、詳しく解説していきます!

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二世皇帝胡亥の参謀の宦官趙高は鹿を指して馬と為すことで自らの権力を大きさを確認しました

趙高は、ことわざの指鹿為馬を行うことで、自身の権限を誇示し、反対する者を上手く粛清したのです。

また二世皇帝胡亥も、趙高の間違いを注意したことで、望夷宮の変で最後を送られました。

望夷宮の変で胡亥は、庶民として生きさせて欲しいと懇願しましたが、それも受け入れられず自害したのです。

ただ、趙高が胡亥を最期に追い詰めたとしても、反乱軍の勢いが止まることは無かったので、趙高は秦の皇族の恨みを買うだけだったのではないでしょうか。

故事成語の指鹿為馬で、宦官の趙高(ちょうこう)は絶大な権力を確かめ、非難した者に最後を加え、誤りを指摘した二世皇帝胡亥(こがい)にも最期を与えたのです。

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陳勝呉広の乱が想像以上に大規模で対処し切れなくなった宦官趙高は指鹿為馬で権力を集中させ閻楽を用い二世皇帝胡亥を犠牲にしました

趙高は二世皇帝胡亥に、陳勝呉広の乱の規模を過少申告し、失政を誤魔化していたため、胡亥から責任追及されることを恐れていたのです。

ですので、趙高は娘婿の閻楽を使い、胡亥の命乞いを聞き入れず、無理に自害させました。

そして趙高は、悪政を胡亥の罪としましたが、秦王子嬰は悪心に気付いていたため、趙高を巧みに成敗したのです。

ただ、子嬰は秦王となったことで、西楚の覇王項羽からの秦への恨みを一身に受けることになり、最期を加えられました。

故事成語の指鹿為馬で、大きな権力を確保した宦官の趙高は、閻楽に二世皇帝胡亥を自害に追い込ませ、陳勝呉広の乱(ちんしょうごこうのらん)の責任も胡亥になすり付けたのです。

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司馬遷は史記の秦始皇本紀で宦官の趙高が鹿を指して馬と為すにより皇帝を凌駕する権勢を得たことを記載しています

趙高が指鹿為馬で、二世皇帝胡亥でも統制出来ないほどの権力を獲得したことは、司馬遷の史記にも書かれているのです。

そもそも胡亥はあまり賢くなかったため、趙高がなぜ鹿を馬と述べたのか理解出来ず、二世皇帝の立場から趙高を批判してしまいました。

ですので、胡亥も趙高にとって危険な存在、と見なされてしまい、望夷宮の変で悲劇が訪れたのです。

また胡亥が、趙高の悪知恵を見通し逆に処罰し、子嬰と組んでいれば、秦が存続し前漢が成立しなかったかもしれません。

故事成語の指鹿為馬は、司馬遷(しばせん)の秦始皇本紀に記されており、宦官の趙高が二世皇帝胡亥を超える権威を得る様子が、垣間見れます。

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最後の秦王の子嬰は指鹿為馬で強大な権勢を誇っていた宦官の趙高を油断させ討ったのです

趙高は、鹿を指して馬を為すが出来るほどの権力を有していましたが、子嬰の本質は見抜けていませんでした。

そもそも子嬰は、万里の長城の管理で有名な蒙恬と兄弟の蒙毅だけでなく、丞相李斯の命も助けようとしていたのです。

ですので、趙高が名将に最後をもたらしてしまい、秦を弱体化させている犯人であることを子嬰も痛感していました。

そして子嬰は王位継承の際に、わざと趙高が呼びに来るように仕向け、打ち取ったのです。

秦は天下を統一しましたが、天下統一後の統治に失敗した、と言えるでしょう。

故事成語の指鹿為馬で、強力な権威を保持していた宦官の趙高も、結局は秦の皇族の子嬰(しえい)に、最後を加えられて終わりました。

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二世皇帝胡亥を指鹿為馬で得た権力で始末した宦官の趙高は皇帝に即位しようとしましたが認められず子嬰を秦王に就任させたのです

ことわざの指鹿為馬により、趙高に逆らえる者は激減し、胡亥も為す術が無く望夷宮の変で葬られました。

そして、二世皇帝胡亥の次の皇帝になろうとした趙高は、秦の武将たちだけでなく秦の御殿からも、拒絶されたのです。

ですので趙高は、秦の皇族の子嬰を秦王に即位させて、再び実権を掌握しました。

またかつて趙高は、蒙恬の兄弟の蒙毅の厳罰から始皇帝に助けてもらって、後に悪政を行ったので、嬴政の人選ミスとも言えるでしょう。

故事成語の指鹿為馬は、宦官の趙高に絶大な権力をもたらしましたが、皇帝に就任出来るほどではなかったため、始皇帝嬴政(しこうていえいせい)の一族の子嬰を秦王に即位させる必要があったのです。

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鹿を指して馬と為すを行う前に宦官の趙高は胡亥を二世皇帝に即位させるため扶蘇を騙し討ちにしたのです

趙高は、始皇帝嬴政が扶蘇を後継者とする遺言状を作成していたので、胡亥を皇帝に就任させ実権を握るために、扶蘇を陥れました。

そして扶蘇は、始皇帝と李斯の法治主義を目的とした焚書坑儒を非難し、孔子の儒家を擁護するほどに、道徳心にあふれる性格だったのです。

なので、趙高と李斯と胡亥が、始皇帝に成り代わって書いた偽の文書に抵抗出来ず、扶蘇は自害しました。

扶蘇は道徳心に偏っていたからこそ、始皇帝から蒙恬の元に送られ、最期にも悪影響をもたらしたのでしょう。

故事成語の指鹿為馬の出来事以前に、宦官の趙高は二世皇帝を胡亥に奪わせるために、始皇帝嬴政の後継者の扶蘇(ふそ)を偽書で騙し、最後を迎えさせたのです。

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丞相李斯は陳勝呉広の乱を制圧するために二世皇帝胡亥に諫言しましたが指鹿為馬な権力者だった宦官の趙高に逆に責任を負わされました

陳勝呉広の乱で、秦が危機に陥ったので、丞相李斯は阿房宮の工事を減らすことを、胡亥に求めたのです。

しかし、胡亥は遊びに夢中で、趙高に支配されていたため、李斯の必死の訴えも無駄に終わりました。

そして李斯は、二世皇帝胡亥を非難し過ぎたことで、趙高から反乱への内通の罪を作り出され、腰斬を加えられたのです。

偉大な始皇帝嬴政の元では、名丞相だった李斯も、胡亥の元では罪人に陥ってしまいました。

故事成語の指鹿為馬を実行するほどの宦官の趙高を、甘く見ていた丞相李斯(りし)は、二世皇帝胡亥への諫言を逆に利用されることで、陳勝呉広の乱に加担していたと見なされ、最後が来たのです。

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まとめ:指鹿為馬(しろくいば)の故事の意味と宦官趙高が鹿を指して馬と為すの由来と史記の閻楽

指鹿為馬で宦官の趙高が、どのように権力を明示したかを、原文や中国語ではなく現代語訳で解説してきました。趙高は、秦が他の戦国七雄を圧倒した法治主義により、自己保身を重視したため、秦が支え切れなくなったのでしょう。

そして二世皇帝胡亥が、趙高の悪巧みを見抜けずに、閻楽から最期に追い込まれたことも説明してきました。趙高と胡亥は他人を陥れて権勢を得たため、結局は攻撃し合うことになったのでしょうか。

また、秦の名将の蒙恬と兄弟の蒙毅だけでなく丞相李斯も、指鹿為馬を行った趙高により始末されたことも、述べてきました。

趙高は権力で武将を処罰するばかりで、秦の将来を考える能力には欠けていたのでしょう。

宦官の趙高は指鹿為馬により権勢を再認識したため、物事を深く洞察すると、権力に押し潰されることも無くなるのではないでしょうか。

⇒趙高と三国志!秦宦官最期、胡亥李斯、馬鹿、始皇帝蒙恬最後も解説

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