三国志ほうとく!龐徳樊城の戦い、うきん寝返り、龐会龐柔龐統も解説

三国志の忠義に厚い武将には、龐徳もいるでしょう。

龐徳は潼関の戦いで、超世の傑曹操と戦いました。龐徳と仲間の錦馬超は、武勇に長けているので、曹操に肉薄したのです。

そして龐徳は、後に曹操に仕えますが、錦馬超は劉備に味方しました。昔の仲間が敵にいることで龐徳は疑念を抱かれたため、強い決意を示したのです。

また龐徳は、武神関羽と激戦を行いますが、于禁から妨害されました。于禁は歴戦の勇将ですが、龐徳と共にどうなったのでしょうか。

他にも、龐徳の子供の龐会の活躍も記載していきます。龐徳の息子なので、忠義の心の大きい武人なのでしょうか。

三國志の龐徳を詳しく解説していきます!

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潼関の戦いで曹操と敵対した錦馬超と龐徳

三国志の龐徳は、馬超が曹操の動きを恐れていたため、馬超と共に曹操と勝負しました。

  • 錦馬超の父馬騰の部下だった龐徳と似ている名前の鳳雛龐統
  • 曹操に負けた後に曹操に味方した龐徳と劉備に付いた錦馬超

錦馬超と龐徳は猛将なので、曹操軍を圧倒し、曹操を討つ寸前にまでいったのです。

曹操は、龐徳と馬超に対して非常な危機感を持ち、軍師賈詡の策略で馬超と仲間を対立させました。

結局潼関の戦いでは、初めは龐徳と馬超が優勢でしたが、総合力で曹操に軍配が上がったのです。

何かで一面的に勝利したとしても、他の重要事項で敗北してしまうと、結果的には負けるのでしょうか。

ちなみに、錦馬超は曹操と会見した際に討とうとしましたが、虎痴許褚が怖くて何も出来なかったのです。

龐徳と錦馬超は、曹操に攻撃を受ける前に先手必勝で挙兵しましたが、最後は敗れました。

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錦馬超の父馬騰の部下だった龐徳と似ている名前の鳳雛龐統

三国志の龐徳は、曹操に味方した馬騰と共に、敵を撃破し武勇を高評価されました。

張燕の黒山賊の張白騎は後に、曹操に敵対するようになったので、張白騎も龐徳が倒したのです。

そもそも張燕の黒山賊自体は、飛将呂布に壊滅させられています。

しかも呂布奉先は、数十騎ほどの精鋭で張燕の黒山賊の大軍を撃破したため、人中の呂布馬中の赤兎という名言も誕生したのです。

そして龐徳と龐統は、特に深い血の繋がりがあるわけではありません。

ちなみに龐統は、鳳雛と呼ばれ、臥龍な諸葛亮クラスの軍師と言われているのです。

龐徳は錦馬超孟起(ばちょうもうき)クラスの武勇を持っており、黒山賊の残党討伐でも力を示しました。

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曹操に負けた後に曹操に味方した龐徳と劉備に付いた錦馬超

三国志の龐徳は、曹操に敗れた後に、五斗米道の張魯の元に逃げ込んでいました。

張魯は曹操に対抗したのですが、曹操は強大なため降伏し、その際に龐徳も投降したのです。

そして、龐徳の前の主君馬超は、曹操の敵の劉備に味方しました。

馬超は曹操に一族を処刑されているため、あくまでも曹操打倒を目指していたのでしょう。

後に馬超は、主君劉備に残った一族の馬岱の将来を託しています。

馬超は劉備の元で五虎大将軍に就任し、いるだけで敵を威嚇する存在だったのです。

龐徳も劉備のところに来ていたら、六虎大将軍の一人だったのかもしれません。

龐徳は、昔の味方の馬超が劉備に味方する中、かつての敵の曹操に降伏したのです。

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龐徳は樊城の戦いで関羽と戦おうとしましたが兄龐柔と錦馬超の件で疑われていました

三国志の龐徳は、昔の仲間の錦馬超と兄の龐柔が関羽の味方となっていたので、曹操の武将たちから警戒されていたのです。

乱世の時代ですから、自分の都合で寝返るというのは良くある話なため、曹操の部下が疑うのは当然と言えるでしょう。

ですので龐徳は、皆に関羽を討たなければ自分が関羽に討たれてしまうと豪語し、決意の証として棺桶を作ったのです。

そして樊城の戦いでは、曹仁が関羽の攻撃を防御していました。

曹仁は後に、曹操の息子の曹丕が、弟曹彰に参考にするようにと述べたほどの名将なのです。

その名将曹仁だったからこそ、武神関羽もうかつには手出し出来なかったのでしょう。

龐徳は、曹操配下の曹仁と共に樊城の戦いに出撃しましたが、初めは内通を危惧されていました。

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龐徳は一騎打ちで武神関羽を打ち取る寸前にまで追い詰めますが最後が来たのです

三国志の龐徳は、関羽との一騎打ちで弓矢を当てることに成功しましたが、最終的には最期が訪れました。

  • 龐徳の忠義に感動し于禁(うきん)の寝返りを嘆いた曹操
  • 龐徳の子供龐会が関羽の子孫を皆殺しにすることで仇討ちしたのです

龐徳は、于禁と共に関羽を攻撃していたのですが、于禁は龐徳が関羽を討ち功績を挙げることを嫌っていたのです。

于禁は曹操軍の重鎮であり、新参者の龐徳に功績を奪われ、立場が危うくなることを警戒していました。

曹操軍が内輪揉めをしている内に、関羽が体勢を立て直し、水攻めを仕掛けてきたのです。

するとなんと于禁は、すぐに関羽に降伏してしまいました・・・

そして新参者のはずの龐徳は、最後まで曹操への忠誠心を示しながら、関羽に処刑されたのです。

龐徳は、関羽に対して優勢に戦を展開していましたが、于禁に邪魔されたため、あえない最後となりました。

⇒三国志うきん!于禁憤死、青州兵、関羽死因、曹操絵、豊臣秀吉も解説

龐徳の忠義に感動し于禁(うきん)の寝返りを嘆いた曹操

三国志の龐徳は、曹操への忠義を最後まで貫いたので、重鎮の于禁よりも高評価となりました。

曹操は人材収集家であり、敵将の中からも名将を発見してきた人物です。

その曹操でも、人の本質を見抜くのは難しいということでしょう。

そして司馬懿は、于禁の関羽への降伏を水害でやむを得ないと述べています。

司馬懿は、狡猾さを表す狼顧の相があったと言われているので、于禁が敵に投降したことを擁護する深い意味があったのかもしれません。

また、曹操の息子の曹丕は、後に戻って来た于禁を苛烈に批判する絵を残しているのです。

龐徳は、曹操に仕えて日が浅かったのですが、歴戦の勇将于禁文則(うきんぶんそく)よりも忠義を知らしめました。

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龐徳の子供龐会が関羽の子孫を皆殺しにすることで仇討ちしたのです

三国志の龐徳の息子龐会は、鄧艾と鍾会が蜀漢を滅亡させた際に、関羽の子孫を発見し処刑しました。

関羽のいた蜀漢帝国は、姜維大将軍の元で北伐を繰り返しましたが、鍾会と鄧艾に攻略されたのです。

そして鍾会は、自分の策略に自信を持っていたので、蜀漢の初代皇帝劉備くらいにはなれると考えており、姜維と共に反乱しました。

長年戦っていて疲れている蜀漢兵が、鍾会のただの野望に付き合うわけはなく、鍾会と姜維は逆に兵たちに斬られたのです。

また、龐徳は最期まで関羽に抵抗した勇者だったので、息子も長い間敵討ちを望む勇者に育っていたのでしょう。

龐徳の息子の龐会が、関羽の子孫に敵討ちすることで、龐徳の樊城の戦いでの無念も晴れたのです。

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まとめ:三国志の龐徳令明(ほうとくれいめい)と樊城の戦い

三國志の龐徳が、関羽と死闘を演じたことを解説してきました。関羽は武神なので、皆が討ちたくなるのでしょう。

龐徳が曹操たちに、関羽を討つ覚悟を示したことも説明してきました。覚悟があったからこそ、関羽を心理的にも追い詰められたのでしょう。

そして、龐徳の忠誠心と対照的な于禁の保身も記載しました。于禁が協力的であれば、龐徳が関羽を打ち取り、曹操が三国制覇出来ていたかもしれません。

また、龐徳の息子の龐会の悲壮な関羽と一族への敵討ちも書きました。一回誰かに勝ったとしても、結局味方から仇討ちされては、意味が無いでしょう。

龐徳は、関羽との樊城の戦いで有終の美を飾った名将、と言えます。

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